第27話 パンデモニウム⑤

「パンデモニウム、即ち伏魔殿。怪人達の潜む迷宮を潜り抜けよ、という訳か。なかなか面白い趣向を考えるものだ。」

 イアンが軽口を叩くような調子で言った。だがその瞳は決して笑っておらず、如何にして自分が生き残るか、早くも頭の中で計算を始めているように、亜唯は感じた。

「つまり、この部屋に集められた3人で、取り敢えずは生き残れっていうことですね。納得はできないけど、そうなってしまったのなら仕方がない。」

 そう言うと、亜唯は一歩だけ、イアンに歩み寄った。

「改めまして、よろしく、イアン。」

 そう言うと、彼女は彼に右手を差し出し、握手を求めた。

「よろしく、カゲ。だが、無理する必要はない。日本人は挨拶の際に握手をする習慣は無いはずだろう?」

「あら、握手は嫌?」

 お互いの肚の内を探り合うかのような、挨拶の応酬。二人の間に、微かな緊張が走った。

「ああ、失礼。君の好意を無にしてしまう所だったね。」

 イアンは、剣呑となりかけていた雰囲気を紛らわすかのように、笑顔で亜唯の手を取った。強くも無ければ弱くも無い握力。亜唯の手を握るその手にも、おかしな所や不自然な点はおろか、緊張による発汗等も無い。どこまでも普通の青年の手であった。そして、こんな状況で「普通」でいられるということは、取りも直さず、この男が「異常」である証拠であると、亜唯は確信した。

「ここを出るまでは、貴方とは協力関係になる訳ですけど、その前にはっきりさせておきたいことがあります。」

 亜唯は、イアンの目を見据え、怜悧な口調で言った。

「何だい?」

「私は貴方がどんな怪人なのか知りません。貴方も、私がどんな怪人なのか知りません。一緒に行動する前に、その点だけは、お互いはっきりとさせておきたいんです。」

 一瞬の間、沈黙が二人の間を埋めた。先に沈黙を破ったのは、亜唯の方であった。

「まず、私の方から話します。私には幾つもの「貌」があります。性格どころか、背負っている人生そのものが違う「自分」って言った方がいいかもしれません。その「貌」を使い分けて、何人もの人間を破滅に追い込んできました。そして、どういう訳かあのエディっていう女に目を付けられて、こんな所に連れ込まれました。以上。」

 極めて簡潔に、余計な事柄は一切付け加えずに、亜唯は自分自身の特性について説明した。それ以上のことを説明するつもりはなかったし、仮に突っ込まれたとしても、彼女ははぐらかすつもりでいた。素性の知れない男、しかも自分と同じ怪人に、こんな段階から自分の手の内を明かすつもりなど、彼女は毛頭無かった。

「成程。つまり今、私とこうして会話している君もまた、そうした貌の一つ。突き詰めて言うのであれば、その発言内容が真実であるか否かは藪の中、という訳か。」

 イアンは、亜唯の心理的特性だけでなく、その言葉の裏側まで理解した様子であった。

「いや、それでいいのだ。君と私は出会ったばかり。加えてこんな状況だ。慎重になるのは当然と言える。」

 張り詰めた空気を紛らわすようにそう言うと、彼は言葉を続けた。

「では、私の方も話そう。無論、話せる範囲のことに限るがね。私は、イギリス秘密情報部のエージェントだ。国のために働くスパイと言っていい。任務の一環として、CIAやモサドに潜入し、数多くの秘密書類を手に入れた結果、追われる身となった。最も、私がイギリス秘密情報部のエージェントというのは、私の完全な妄想なのだがね。」

「……は?」

 途中まで真面目に聞いていた亜唯は、イアンの最後の言葉に絶句した。

「そう、妄想なのだ。私は自分がイギリスのスパイだという妄想に取り憑かれ、各国の情報機関から秘密情報を盗み出した病人なのだ。」

 イアン・ブレイクニー。彼の名は、完全な偽名である。国籍も、戸籍も明らかではない。彼は「自分はスパイである」という妄想に取り憑かれ、自らの過去を完全に抹消した。彼は、ある時はイギリス人であり、ある時はアメリカ人であり、ある時はイスラエル人であった。そして、それぞれの国において一分の間違いも無い戸籍(無論、氏名も来歴もそれぞれ全く異なる)を有していた。そして、自らの妄想に人生全てをささげていた彼は、その代償として天から与えられた才能であろうか、語学、法律、心理学、国際政治論等、あらゆる分野において極めて優秀な人間であった。先程の亜唯との会話で、彼は「CIAやモサドに潜入した」と語っていたが、厳密に言うとこれは正しくはない。彼は、その高い能力を買われてCIAやモサドに正規職員として雇用されていたのである。これらの情報機関への採用にあたり、当然であるが彼の来歴や交友関係、心理テスト等、徹底的な事前調査が行われたが、彼を妄想狂の病人であると見抜くことはおろか、その経歴自体が偽造(大学データベースの学籍登録や学位授与記録の改竄すら行っていた。偽名で大学職員として雇用されていた際に不正アクセスを行って書き換えていたことが後に判明している)であると見抜かれることすらなかった。実際の所、彼はスパイとして極めて優秀であったのだ。ただ一つ至らぬ点があったとすれば、それは彼が完全に妄想の世界に生きているということであった。

 そんなイアンが、病人として精神医療施設に入れられることとなった経緯は、何とも締まらないものであった。

 CIAやモサドの秘密情報を手に入れた彼は、あろうことかそのデータをUSBメモリ(しかもパスワード設定すらしていない)に格納し、ロンドンはヴォクソールのSIS英国秘密情報部ビルまで持参したのである。彼は、受付の職員に秘密情報部への取次ぎを申し出たのだが、当然、秘密情報部にイアンなどという人物はいない。ただの悪戯の類だと思った受付職員は彼に立ち去るよう促した。実際、こういった妄想狂がSISビルを訪れることは珍しくはなかった。今回もそういった類の人間なのだろうと思った受付職員は、慣れた調子で目の前の病人を追い払おうとした。

 イアンはそんな職員達に対し、「分かった。今はそういう情報の受け取り方法に変わったんだね。」と言うと、受付のカウンターに持参したUSBメモリを置き、忘れ物だと引き留める受付職員の方を振り返りもせず、そのまま建物から姿を消した。

 コンピュータウイルスによるテロ等の危険性もあることから、ネットワークから隔絶されたPCでSIS職員がUSBメモリの中身を確認した。そして、そこに格納されていたデータのあまりの重大性に、SIS内部は蜂の巣をつついたような大騒動となった。国際問題になりかねない大問題であったため、その日のうちにイギリス政府からアメリカとイスラエルに対し秘密裏に情報の提供があり、事後処理について各国間で神経質なやり取りこそ生じたものの、事の重大性に比べれば、極めて穏便に本件を収めることが出来たのであった。情報機関としての面子に泥を塗られる形となったモサドとCIAは己の威信をかけてイアンを探し出し、そして彼が完全な妄想狂であることを知ると、治療という名目で精神病院に厳重に隔離した。その後、どういった経緯かダニエルとエディの目に留まった彼は、このパンデモニウムという名の魔窟に連れてこられたという訳である。

 全くの余談であるが、イアンが引き起こしたこの事件は、イギリス情報部において「アメリカやイスラエルの情報機関より、パラノイアの方が優秀」という冗談として長く語り継がれることとなった。そして、恥をかかされた形となったアメリカやイスラエルの情報機関では、「イアン」「ブレイクニー」という名は絶対の禁句となっており、同名の人物の採用は今後20年は不可能であろうという噂も、まことしやかに囁かれていた。

「……」

 亜唯は、そんなイアンの素性を聞かされて、呆れていいのか感心していいのか全く分からなかった。話を聞く限りでは、彼は完全な病人である。否、完全無欠な病人と言い換えた方が良い。自分が耽溺する妄想の世界に、完璧なまでに合致する人間であった。そして恐らく、妄想の世界に自分を合致させるため、他の追随を許さぬほどの努力と精進を続けてきたのであろう。筋金入りの妄想狂と言えた。

「びっくりさせてしまったかい?」

 どこかおどけた様な調子で、イアンが聞く。

「率直に言って、混乱しています。取り敢えず貴方の話を信じるとして、スパイとしての実力自体はあると考えていいってことですか? いや、最後の話を聞く限り、それも怪しいか……」

 亜唯は目の前の人物をどう評価してよいか分からず、言い淀んだ。率直に言って、彼女にはイアンという人物の実相を測りかねていた。彼の芝居がかった立ち振る舞いや、意味不明としか言いようがない来歴は、単純な印象だけで言ってしまえば、単なる詐欺師のようにしか見えなかった。だがその一方で、この常軌を逸した事態にも一切動じない芯の強さや、(彼の言葉を信じるのであれば)各国の情報機関を翻弄する能力など、底知れぬ実力を感じさせるのも確かであった。

「それを評価するのは他人であり、私自身ではない。とは言うものの、私がスパイであるということ自体が妄想である以上、評価してくれる人はいない訳だがね。だからその点に関しては、カゲ、これから先君が自分自身の目で確かめてくれればいい。」

「あまり期待していないけど、楽しみにしておきます。」

 不信感を払拭できない様子を隠すことなく、亜唯が答えた。イアンは、本心によるものかは分からないが、満足げに微笑むと、今度はハンスの方に声をかけた。

「ハンス! 我々はそろそろ出立しようと思うが、君はどうする?」

 エディからの通達の際もずっとホールの隅でぶるぶると震えていたハンスは、その声にびくりと身体を振るわせると、病人の様に震えながら、イアン達の方を見た。

「わ、私は、ここにいる……。と、とても一緒には行けない……。」

 声を出すのもやっと、といった調子で、彼は答えた。

「そうか。そうすると君は失格、ということになるのだろうが、失格となった者がどうなるのかについては、エディは何も言っていなかったな。」

 イアンがそう言い終えるかどうかのタイミングで、モニターが再度点灯し、エディの姿が画面上に現れた。

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