第24話 パンデモニウム②

「う~ん……」

 微睡みの海の中から、亜唯はゆっくりと覚醒していった。

「……?」

 瞼が持ち上がり、次第に周囲の風景が、彼女の視界の中に飛び込んでくる。だがそれは、普通の目覚めとは明らかに異なり、亜唯の心を当惑で満たした。

 最初、亜唯は自分が体育館にいると思った。ニスが塗られてうっすらと輝く板張りの床。そして、鉄骨が剥き出しでスポットライト状の照明がそこかしこにあるドーム状の天井。楽しさの欠片も無かった学校生活で見慣れた様な風景が、彼女の寝ぼけ眼に映った。だが彼女は、そこが体育館などではないということは、すぐに気付いた。

 靄に包まれていた、目を覚ますまでの記憶が次第に彼女の脳裏に蘇ってきた。殺戮の舞台と化した病院内で、闇虚と一緒にペーターを叩きのめしたこと。そして、その直後に現れたエディに奇妙なガスを浴びせられ、眠らされたこと。そして……

「……!」

 亜唯は、電撃に撃たれたように飛び起きると、慌てて周囲を見渡した。彼女が横たわっていたのは、確かに体育館かアリーナのようなドーム状の施設の中であったが、その内装は明らかにスポーツ施設や娯楽施設などではなかった。なにしろ、何も無いのだ。観客席はおろか、演台やステージも無い。窓や出入り口のような場所さえ、全く見えなかった。まるで体育館に似せた牢獄だ、と亜唯は思った。

「ようやくお目覚めか、Japanese girl.」

 突然背後から声をかけられ、亜唯は驚いてそちらを振り向いた。銀髪で、スーツを着込んだ白人男性が、何の気配も感じさせず、そこに立っていた。

「……」

 亜唯は、何も言わずにじっと相手を見た。彼女は、見ず知らずの相手に対しては、ほぼ例外なく同様の態度を取っていた。無言の自分に対してどういった態度をとるのか、それにより相手に対峙する貌を、彼女は選別するのだ。

「失敬。急に声をかけてしまってすまなかった。」

 流暢な日本語で、その白人青年は詫びた。物腰は穏やかで、亜唯の緊張を緩和しようという意図が読み取れた。

「私の名前はイアン・ブレイクニー。情報関連の仕事をしている者だ。君の名前は?」

「名前よりも先に、聞きたいことがあります。」

 イアンと名乗った青年に対し、亜唯は硬い表情で返答した。彼の口調や物腰は極めて紳士的で好意的なものであったが、亜唯はそこに、微かな作為、微かな違和感を抱いた。この男は、何かを誤魔化している。そう感じた彼女は、彼に対して「堅物で警戒心の強い女」の貌で対峙することに決めた。

「まず、ここはどこなんですか? どうして私はここにいるんですか? そして何故、貴方と一緒にいるんですか?」

 詰問するような口調で、亜唯はイアンに訊いた。

「では、お答えしよう。」

 芝居がかった口調でイアンが返答し、そのまま言葉を続けた。

「ここがどこか? 失礼ながら私にも分からない。なぜ我々がここにいるのか? 失礼ながらこれも分からない。私の覚えている範囲では、私はどこかの医療施設にいた筈なのだが、気が付くとこの場所にいた。そして、何故私が君と一緒にいるのか? ここまで聞いてもらえれば分かってもらえると思うが、これも分からない。そもそも私自身、何故こんな所にいるのか分からない訳だからね。」

「要するに、何も分からないということですか。」

 失望感も露に、亜唯は溜息をついた。と同時に、そんな状況で余裕たっぷりに振舞うこのイアンという人物に対する不信感をより強めた。

「何も分からないところから、情報の断片を拾い集め、真実へと辿り着く。それができることこそ、人の人たる所以だよ、Japanese girl。おっと、まだ名前を聞いていなかったね。」

「景村亜唯です。どうぞよろしく。」

 本気で言っているのか、それとも煙に巻こうとしているのかまるで分からないイアンの言葉に対し、亜唯は会話を断ち切る様な口調で答えた。

「カゲムラアイか。これからもよろしく。ちなみに、これからは君を何と呼べばいい?」

「カゲでいいです。」

 亜唯はそっけなく答えた。「カゲ」という呼び名はあんまりな気もしたが、得体の知れない男に名前を呼ばれるよりはましだと考え、彼女は自分の呼び名を指定した。

「よろしく、カゲ。」

 ニコリと微笑むと、イアンは右手を差し出し、亜唯に握手を求めた。

「私の国では、挨拶の時に握手する習慣はありません。」

 亜唯はそっけなく答えると、握手の申し出を拒否するようにイアンから視線を外し、改めて自分がいるドーム状の建物内を見渡した。改めて確認しても、室内には出入口らしきものが一つも見当たらなかった。唯一目を引いたのは、壁に埋め込まれるような形で設置された巨大なモニターであったが、電源が入っていないのか真っ暗なままであった。その他には、先程見回した時同様、彼女は何も見つけられなかった。

「ん?」

 亜唯はふと、広い空間の片隅に目を止めた。ドーム状の部屋の隅で、黒い何かが微かに動いているのが分かった。彼女は最初、それがあまりに小さかったので、影が映り込んだものと錯覚していたが、よく見るとその黒い「何か」は、身体を縮めて蹲っている黒衣の人間らしいことが分かった。

「ああ、彼か。」

 黒い人影を見つめる亜唯の様子に気付いたのか、イアンが語りかけてきた。

「彼はハンス・シュタイナー。ドイツ出身の気象学者だ。」

「気象学者? なんでそんな人が……」

「さあ、それは私にも分からない。だが彼は、少し変わったところがあるようでね。ここに来てからずっとああしているんだ。おおい、ハンス!」

 イアンの呼びかけに、黒い人影がビクッと動いた。亜唯の目には、動いたというより飛び跳ねたようにも見えた。

「ずっと眠っていた子が目を覚ましたぞ。君も挨拶すると良い。」

 気さくに話しかけながら、イアンは墨の黒い人影――ハンスの方に近づいていった。

 黒い人影は、ゆっくりと顔を上げ、イアン達の方を見た。初老の、極めて弱々しい印象の男性であった。まるで、気弱という言葉に服を着せた様な男だ、と亜唯は思った。

「す、すまない。私は、ここから離れたくないんだ。ほ、本当にすまない……」

 たどたどしい口調で、ハンスが返答する。若干距離が離れていることもあってか、亜唯の耳には殆ど彼の言葉は聞き取れなかった。

「分かった。こちらからそっちに行こう。」

 そう言うと、イアンはハンスの方に歩き始めた。亜唯も、彼の数歩後ろから、ゆっくりとその後に従った。

「ま、待ってくれ!」

 ハンスが、慌てた様子で自分に近づく彼等二人を静止した。

「そ、それ以上いけない! それ以上、こちらには近づかないでくれ!」

「ああ、失礼。済まなかった。」

 イアンはまるでホールドアップするかのようなポーズで足を止めると、ハンスに詫びた。

「影が、影が……」

 ハンスは意味不明な言葉を呟きながらその場に座り込んだ。

「影?」

「ハンスは、奇妙な強迫観念に取りつかれているんだ。「影が自分を乗っ取ろうとしている」ってね。」

 亜唯の疑問に対し、イアンが淡々と答えた。

「影が? 乗っ取る?」

「ち、違う! 私の影は、アイツは決して、精神的な疾患などではない! 本当なんだ!本当に私の肉体を乗っ取ろうとしているんだ! 私を完全に支配して、悪事を行う機会を虎視眈々と狙っているんだ! 本当なんだ!」

「あー、成程。理解した。」

 イアンの言うことがよく分からなかった亜唯だが、ハンスの様子を見て、その発言の意味を深く実感できた。ようするに彼は「そういう病気」なのだ。

「そういえば、日本語でshadowを表す言葉といえば「カゲ」だったね。面白い偶然だ。君の名前と同じだね。」

「漢字が違う。私のカゲはshadowじゃなくて風景landscapeって意味の言葉。」

「やはり日本語は難しいな。」

 イアンは肩を竦めると、おどける様に笑った。亜唯は、そんな彼の様子を見ても、まだ警戒を解く気にはならなかった。ハンスといい、イアンといい、ここに閉じ込められている者たちは、自分も含めて明らかに異様な雰囲気を湛えていた。一体彼らは何者なのか? 何故自分たちはこんな場所に集められているのか? それが分からない内は、彼等に対し警戒を解くことなど、彼女には出来そうも無かった。

「おや、何か始まるようだ。」

 イアンが何かに気付き、中央の巨大モニターに目を向けた。亜唯もまたモニターに目を向けてみると、ちょうど電源ランプが点灯し、スピーカーから微かな雑音が響いているのが分かった。

 イアンと亜唯は、モニターに次に映し出されるものを見極めるべく、画面を凝視していた。一方のハンスは先程同様、縮こまったまま、顔を上げようともしなかった。

 やがて、モニター画面に、一人の女性が映し出された。

「エディ……!」

 忘れもしない、ダニエルの秘書であるエディが、いつもと変わらぬ様子でそこに映っていた。先のT大学病院内で彼女に受けた屈辱を思い出し、亜唯は画面を睨みつけた。

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