第22話 箱庭遊戯(終)
『もう出てきたか。意外と早かったな。』
軽口を叩きながらも、闇虚は冷静にペーターの様子を観察していた。眼光こそ衰えていないものの、彼の様子は先程からは明らかに変わっていた。両腕をだらりと垂らし、口は半開きで、足を引き摺るようにして歩いている。麻酔ガスの影響を闇虚以上に受けているのは明らかであった。
『私の方も大分回復してきた。透、もういいよ。ここからは、私が代わる。』
透の方も、先程の一戦だけで、心身ともに限界に達していた。闇虚の申し出に無言で頷くと、彼は心の奥底に沈んでいった。
闇虚はゆっくりと立ち上がると、ペーターを睨みつけながら対峙した。ペーターは先程から明らかに弱体化しているとはいえ、闇虚自身も相当なダメージを負っている。おまけに、得物であった鉄棒は、手術室に落としたままであり、事実上今の彼女は丸腰であった。最もそれはペーターも同様であり、彼はナイフも何も持たず、素手のまま闇虚と対峙していた。麻酔で弛緩した腕では、満足に刃物を振るうこともできないという判断なのかもしれなかった。
「Let’s fuck…」
唇を震わせながら、ペーターが言った。
『御免だね。』
彼の言葉に嘘は無く、文字通りの意味であるということを嫌というほど理解した闇虚は、嫌悪感も露にそう返した。
ペーターの顔から、一瞬、生気のようなものが消えうせた。恐らくそれが、彼なりの攻撃のスイッチだったのであろう。次の瞬間、彼は床を蹴り、弾丸の如きスピードで闇虚に迫った。
『こいつ……!』
まだこんな力が残っていたのか、と闇虚が驚く暇すら与えず、彼は猛烈なタックルで彼女を吹き飛ばした。床に転がる闇虚に対し、彼はなおも執拗な追撃を加えた。最早それは人体の挙動には全く見えなかった。麻酔で身体が満足に動かせない分、動かせる場所はとにかく動かして攻撃を加える、という異常極まりない執念が透けて見えるような、人体の狂気的乱舞であった。
闇虚は、ペーターの攻撃を紙一重の所で躱しながら、何とか勝機を掴もうと懸命であった。だが、彼の攻撃は相手に考える暇など全く与えてくれないほど苛烈であった。彼が受けた麻酔の影響は闇虚よりも大きかったが、闇虚自身も負傷しているため、結局のところ彼我の戦力差は殆ど変わっていなかったのだ。
何度か攻撃を躱し続けるうち限界が来たのか、ついにペーターの手が、闇虚の首を捕らえた。
『ぐうっ……!』
ペーターは闇虚の身体に馬乗りになり、全身の体重をかけて、彼女の首を締めあげた。彼の全身全霊を込めた、最後の攻撃であることが、その気迫だけでも見て取れた。
「闇虚!」
危機的な状況に、透が心の中で叫んだ。闇虚の意識が薄れつつあるのが、彼自身にも分かった。
『ハハ、御免、透。コイツ、ヤバいくらい強いわ……』
どこか諦めたような口調で、闇虚は心の中でそう答えた。あの時と同じだ、と透は思った。藤堂を巻き込んで、車で東京湾に飛び込んだあの時。あの時も、闇虚はあっさりと自分の死を受け入れようとしていた。そういう変な諦めの良さが、彼女にはあった。
「しっかりしろ! そんな奴に殺されるなんて俺は御免だぞ!」
心の中で叱咤する透の声にも答えられない程、闇虚の意識は消えかけていた。このままでは明らかに不味い。透がそう考えたその時であった。
「こっち、こっちだよ!」
聞き覚えのある声が、闇の中から聞こえてくるのが、透には分かった。
『亜唯……?』
闇虚も、薄れゆく意識の中でその声の主に気付いたようであった。闇に包まれた通路の向こう側から、覚束ない足取りの中年男性を連れた亜唯が、その姿を現した。
亜唯の存在に気付いたペーターは、忌々しげな眼で彼女を睨みつけた。そして、その隙に生じた僅かな力の緩みにより、闇虚は意識を取り戻した。
闇虚が亜唯に下がるように叫ぼうとするよりも早く、亜唯が隣の中年男性に大声で語りかけた。
「立花さん! 立花さん、分かる⁉ 息子さんね、生きていたんだよ! 貴方の息子さん、生きていたんだよ!」
まるで看護師のような口調で、亜唯は隣の中年男性に話しかけていた。立花、という名を聞いて、透は以前村川に聞かされた話を思い出した。無理心中事件を起こして自分の隣の隔離室で拘束されているという、あの人物であった。だが、何故亜唯がそんな人物を連れているのか、透は状況がまるで飲み込めず、困惑した。
『アイツ、何を……?』
亜唯の意図するところを図りかね、闇虚も困惑していた。
「立花さん、ほら、あの金髪の人が、貴方の息子さんだよ!」
亜唯が、ペーターの方を指さして言った。闇虚も透も、彼女が何を言っているのかまるで分からず、ただ唖然としてその様子を見ていた。
「雄一……」
立花は、焦点の定まらない眼でペーターの方を見つめていた。身体が震え、呂律も回っていない。薬により眠らされ続けた影響か、普通の状態でないのは誰の目にも明らかであった。
「雄一……パパと一緒に、ママの所に行こう……」
立花は、完全に正気を失っていた。彼には、目の前にいる息子とは似ても似つかぬ外国人が、かつて自分の手で殺めてしまった息子に見えているのだ。そしてその手には、どこから持ち出したのか、鋏が握られていた。
「Papa…?」
立花の言葉を聞いたペーターは、喪心したような表情で目の前の中年男性を見つめた。そして彼は、ゆっくりと立ち上がると、床に転がる闇虚の身体から離れた。これ幸いとばかりに体勢を立て直し、ふらつきながらもペーターの背後に立った闇虚だったが、彼はそんな闇虚の様子を一顧だにしなかった。ペーターの視線はただ、目の前に立つ立花に対してのみ注がれていた。
「パパと、一緒に死のう……」
正気を失いながらも、立花の家族に対する執着だけは、絡みついた蜘蛛の糸の如く、彼の心を縛り上げていた。そして、そんな立花を前にして、ペーターは石の如く硬直していた。
立花の隣に立つ亜唯は、自分の予測が功を奏したことに、一先ず安堵した。ペーターと何度か会話した亜唯は、彼が女性に対して異常な敵意を抱いていることに、まず注目した。こういった女性への敵意は、殆どの場合、幼少期の母親との関係に起因するものが多い。以前読んだ本にそう書かれていたことを、彼女はペーターとの会話で思い出した。だが、本人にとって自覚のある敵意や執着は、実は大して重要な要素ではない。むしろ、本人が自覚することも無く心の奥底に隠し続けているものこそが、人心を操るうえで最も重要な要素であると、亜唯は経験的に知っていた。ペーターの場合、それが何かと考えた時、亜唯はそれが「父親」であろうと予測した。彼の女性嫌悪が母親に起因するものだとすれば、もう一方の「父親」に関しても、精神的にマイナスの影響を受けている可能性は高い。だがペーターとの会話で、「父親」に関する要素を亜唯は見つけられなかった。そしてそのことが逆に、「ペーターは父親に関する自分の感情を意図的に押し殺し、心の奥底に封じている」ということを彼女に確信させた。そして、その点を突けば、彼に必ず隙が生じるであろうことも、彼女はほぼ確信していた。
ペーターのそんな心の内奥の弱点を付ける人間が誰かいるかと考えた時、この状況では立花しかいないと亜唯は考えていた。立花は、一家無理心中を図り、自分一人生き残った後は何度も自殺を図った。彼の「家族」というものに対する異常なまでの執着。そしてその家族と共に命を絶つことが出来なかったという取り返しのつかない悔恨。ペーターの心の隙を突けるとしたら、立花のそんな屈折した感情しかないと、亜唯は踏んでいた。些か無謀な賭けとは思いながら、亜唯は、薬で意識が朦朧となっていた立花を「息子が生きている」という一言で、ここまで誘導してきたのだ。
そして今、立花とペーターは対峙し、立花の言葉にペーターは完全に固まっていた。感情というものが、全て抜け落ちてしまったような表情で、彼は自分に歩み寄る立花を見つめていた。
「雄一……パパと一緒に、ママの所に行こう……」
立花の眦から、一筋の涙が零れ落ちた。雄一、というのが、彼の息子の名前だったのだろうか。だがそんな言葉は、既にペーターの耳には入って来ていないようであった。
立花は、ペーターまであと一歩の距離まで近づいた。亜唯と闇虚は、共に固唾を飲んで、その様子を見守った。立花は、ペーターのすぐ目と鼻の先に立つと、ゆっくりと手に持った鋏を振りかぶった。
その時、ペーターの表情が一変した。その顔はもう、人間のそれではなかった。殺意や憎悪はおろか、悪意すら微塵も感じられない。ただ純粋に相手を苛み、打ち滅ぼすことのみに特化した顔。獣と呼ぶことすら憚られる、怪物の表情であった。
ペーターは立花が鋏を振り下ろすよりも早く、彼の身体に飛びつき、そのまま体重をかけて押し倒した。突然の出来事に全く対処できず、立花はそのまま仰向けに倒れ込むと、後頭部を強かに打ち付け、悶絶した。
ペーターは立花の顔面を鷲掴みにすると、万力のような握力でそのまま握り潰した。まるでクズ紙を丸めるように、立花の顔面の皮膚が皺くちゃに丸め込まれ、そして破裂した。飛び散る血しぶきを顔面いっぱいに浴びながら、ペーターは今度は彼の首筋に食らいついた。この世の終わりのような立花の悲鳴が、病棟全体を揺るがした。
千載一遇のチャンスである。闇虚と亜唯は、そう確信した。
「闇虚!」
亜唯は、先程闇虚が手放したまま放置してきた鉄棒を、彼女に向けて放った。
闇虚は鉄棒を手にすると、立花への攻撃に夢中になっているペーターの後頭部目掛けて思い切りそれを振るった。
「があっ!」
不意を突かれたペーターは、くぐもった悲鳴を上げると、吹き飛ばされるような格好で前面に倒れ込んだ。
亜唯は、通路に設置されていた血圧測定器の電源コードを無理矢理引き抜くと、そのまま剥き出しの電線を、慌てて姿勢を立て直しつつあるペーターの首筋に押し付けた。
高圧電流のスパークする音と同時に、ペーターの首筋から煙が立ち上った。半分意識を失った彼は、今度は闇虚のいる方へふらつく様に倒れ込んだ。
闇虚は倒れ込んでくるペーターに向けて、渾身のフルスイングを放った。殺さないように手加減することなど、彼女は全く考えなかった。この男に手加減などすれば、自分が殺されかねない。今日の今日で、闇虚はそのことを身に染みて理解していた。
生肉が破裂するような音が響き、ペーターは鼻血と血反吐を吹き散らしながら床に倒れ、そして動かなくなった。そしてその様子を見た闇虚と亜唯も、糸が切れた人形のように脱力して床に座り込んだ。暗闇の通路にはただ、痛みを訴える立花の声のみが小さく響いていた。
『……ナイスアシストだったよ、亜唯。』
息も切れ切れになりながら、闇虚が亜唯を労った。
「別にいいよ。私もそいつを止めるつもりだったし。」
亜唯も、あまりに多くのことが起こりすぎて心身ともに限界が来たのか、力なく答えた。だが、その表情には、どこか安らかな色が浮かんでいた。
『……見つけられたのか、お前の、生きる道、だっけ?』
「さあね……」
亜唯は、足を引き摺るようにして、闇虚の隣までやって来た。
「でも今は、ちょっと、休みたいかな……」
そう言うと、亜唯は少しだけ、闇虚の方にもたれかかる様にして、静かに瞳を閉じた。
「そうですね。お二人とも、少し休まれた方がいいかと思います。」
不意に、隣から聞こえてきた声に驚いた二人が横を見ると、いつの間にか、彼等の傍らに音も無くエディが現れていた。
『お前……!』
闇虚が身構えるよりも早く、エディは手に持ったスプレー缶を彼等に向けた。真っ白いガスが噴霧され、闇虚も亜唯も、それを直に吸い込んでしまった。
『ぐ……!』
「な、に……?」
ガスを吸い込んだ瞬間、猛烈な眠気が彼等を襲い、そして二人とも床に倒れ伏してしまった。
床に倒れる闇虚と亜唯の脈拍と呼吸を確認し、麻酔ガスが正常に作用していることを確認したエディは、血まみれで昏倒しているペーターを揺すり起こした。
「ペーター、起きてください。私です。エディです。」
ペーターは、顔面を血だらけにしながら、ゆっくりと起き上がった。闇虚に叩き割られた後頭部と鼻筋からは、止めどなく鮮血が流れ落ちていたが、彼はそれを拭うことすらしなかった。
「貴方がそれほど手傷を負うというのも珍しいですね。頭の方を大分怪我しているようですが、大丈夫ですか?」
「頭ならとうの昔に壊れている。問題ない。」
相変わらず、相手を心配しているのかそうでないのか分からない口調で聞くエディに対し、ペーターもまた冗談なのかそうでないのか分からないような返事を返した。
「安心しました。では、この二人を運び出しましょう。顔を拭いてから、これに着替えてください。」
エディはフェイスタオルと一緒に変装用の鬘と服をペーターに差し出すと、床に倒れ伏している亜唯を担ぎ上げた。
「貴方は、道下さんの方を頼みます。」
そう言うと、彼女は亜唯を抱えたまま足早に去っていった。それはペーターに対して「貴方も早く続いてください」という無言の合図であった。
ペーターは顔の血を拭き取り、変装を終えると、改めて床に横たわる闇虚を見た。先程まで、本気の殺し合いをしていたとは思えないような、清涼に澄んだような感情を、彼は闇虚に対して抱いていた。
「俺と同じ怪人、か。」
初めて抱いた同族意識が、自分をして戦いに駆り立て、今は心の裡を清澄にしているのだろうか、とペーターは黙考した。だがいくら考えたところで、答えになど辿り着けないことも、彼はよく知っていた。自分の頭はとうの昔に壊れていて、まともにものを考えることなどできないことは、彼自身が一番よく知っていた。
ペーターはゆっくりと闇虚の傍らに膝をつくと、お互いの息がかかる程の距離で、その顔を覗き込んだ。自分が知る、どんな男とも、女とも違う顔が、そこにあった。自分が初めて見る人間の顔が、そこにあった。そして彼は、もっと深く、この顔とその中身のことを知りたいと思った。
ペーターは闇虚の身体を担ぎ上げると、エディの後を追って、闇の中を駆けて行った。闇虚の存在が、自分にどんな影響をもたらすのか、それは彼自身にも分からない。だが、その影響とやらがどんなものであるのか、突き詰めて見てみたいという強い気持ちが、彼の中に生まれていた。そのためには、今はまず、エディの策に乗ることが賢明であると彼は判断した。
闇の中、邂逅を果たした怪人達。彼等の物語が、大きく動き出そうとしていた。
T大学病院における大量殺人・死体遺棄事件並びに患者暴動事件は、その直前に発生した警察車両の爆発事件、精神科病棟における傷害事件(この事件に関与した研修医は、その後院内から損壊した遺体で発見された)との繋がりは結局不明のまま、迷宮入りした。複数の警官が死亡した上、犯人の確保はおろかその実像すら掴めないまま未解決事件となるという大失態に、警察に対しては強い非難の声が寄せられたことは言うまでもない。なお、道下透並びに景村亜唯の2名については、公的な記録においては、本事件により死亡した扱いとなっている。
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