第21話 箱庭遊戯⑳

 精神科の病棟に駆け込んだ亜唯は、すぐにナースステーションに飛び込み、奥にあるロッカーから、目当ての鍵を取り出そうとした。毎日のように看護師の動きを観察していた亜唯は、そこに病棟各所の鍵があることを事前に知っていた。

「無い⁉」

 ロッカーをこじ開けた亜唯は、そこにあるはずの隔離室の鍵が無くなっていることに気付いた。彼女にとっては、完全に想定外の状況であった。隔離室を開けることが出来なければ、透と闇虚の助力をすることが出来ない。

「誰か! 誰かいないの⁉」

 病棟全体に響くほどの大声で亜唯が叫んでも、答える者はいなかった。見渡してみても、人の影すら見えない。もう既に全員避難したのか、あるいは全員ペーターの毒牙にかかったのかは分からないが、いずれにせよ、この病棟で彼女の力になれる者は一人もいない状況であることは明らかであった。

 亜唯は舌打ちすると、そのまま隔離室の方へ走った。とにかく今は、考えている時間すら惜しかったのだ。事態は、一刻を争う状況であった。

「亜唯さん。」

 突然、背後から声をかけられて、亜唯は驚いて振り返った。いつの間にか、エディが彼女の背後に現れていた。

「ちょ、びっくりさせないでよ!」

 足音どころか気配すら感じさせず自分の背後に現れたエディに対し、亜唯は驚きのあまり非難するような口調で言った。

「先程、亜唯さんの声が聞こえたので、戻ってまいりました。何かありましたか?」

 先の面談の時同様、エディは亜唯の非難するような声にも全く動じず、淡々と語った。亜唯はそんな彼女の様子に呆れながら、兎にも角にも自分の成すべき目的を果たそうと考えた。

「隔離室の鍵を開けたい。でも病棟には誰もいないし、鍵も見つからない。」

 エディにそんな話をして何になるのかと思いながらも、亜唯は、どんな小さな可能性でも事態が好転することに賭けたかった。

「ああ、そんなことでしたか。では、病棟のマスターキーをお渡しします。」

「えっ?」

 懐から事も無げにマスターキーを取り出すエディに、亜唯は完全に面食らった。

「なんでアンタがこれを……」

「先程、闇虚さんを解放するために拝借させていただきました。医療従事者の方々は既に避難したのか、どなたもいらっしゃらなかったので、悪いとは思いましたが勝手に拝借させていただきました。」

 言葉とは裏腹に、全く悪びれない態度でエディが言った。亜唯はここにきてようやく、闇虚がどうやって隔離室から出たのかを理解した。と同時に、エディに対する不信感もより増大した。

「へぇ、随分と好き勝手にやってくれたんだね。ペーターをけしかけたのも、アンタの仕業?」

「彼は亜唯さんに誘われたと言っていましたが?」

 エディがわざとらしく小首を傾げ、不思議そうに聞く。本人が意図しているのかは分からないが、亜唯にとっては完全な挑発行為であった。

 これ以上話していても不快になるだけだと判断した亜唯は、エディに背を向け、隔離室に向けて走り出した。

「亜唯さん、一つお伺いしていいですか?」

 走り去ろうとする亜唯の背に、エディが言葉を投げかける。

「なに?」

 エディの方を振り向くことなく、亜唯が聞く。

「ペーターをどうなさるおつもりですか?」

 挑発のつもりなのか、あるいは純粋な疑問なのかまるで分からない質問。だが亜唯の心は決まっていたし、それを隠す理由も無かった。

「ブッ倒す。それだけ。」

 最後までエディの方を見ることなくそう答えると、亜唯は隔離室に向けて走り去った。

「成程、分かりました。」

 独り言のようにそう呟くと、エディは踵を返し、闇に包まれた通路の向こうへ再び去っていった。

 隔離室に至る通路のドアロックを解除した亜唯は、ドアから入って最初の隔離室――透が隔離されていた部屋の隣室――の扉に鍵を刺し込み、開錠した。入室してすぐ、部屋の主がまだベッドの上に拘束されていることを確認した彼女は、彼を縛める拘束衣の留め金やベルトを次々に外すと、叫ぶようにして語りかけた。

「立花さん! 起きて!」


 暗闇の中、ペーターを追った闇虚は、半ば迷い込むような形で、手術室が並ぶ区画へと入り込んだ。通常であれば、部外者が入り込めないように自動扉でロックされているはずのその区画は、院内の混乱と集団ヒステリーにより施錠等もされないまま放棄されており、さながら廃墟の様であった。

「よう、遅かったな。」

 医療機器の残骸が転がる通路の向こうの暗闇から、ペーターがその姿を現した。暗がりのため表情は読み取れなかったが、やはりその鋭い眼光は、閉ざされた暗闇の中でも一際異様に輝いていた。

「気を付けろ、闇虚。何を考えているか分からないが、奴は明らかに俺達を誘い込んでいる。」

 ペーターの何らかの思惑を察した透が心の中で警告した。闇虚は一言『分かっている』とだけ彼に返答した。

『鬼ゴッコはあんまり好きじゃないんだよね。いい加減飽きてきたからさ、そろそろ決めよ?』

 挑発するような口調で、闇虚がペーターに語りかける。ペーターはそんな闇虚の言葉には答えず、ただ口端を引き攣らせた。先程も彼が見せた、あの凶刃の如き笑みであった。

 次の瞬間、ペーターは床を蹴ると、そのまま闇虚に向けて突進した。そして、闇虚が鉄棒を構えるのと同時に90度身体を転回すると、彼女のちょうど真横の手術室のドアを蹴破り、その闇の中に姿を消した。

『⁉』

 闇虚と透が同時に「しまった」と思った時にはもう遅かった。手術室の闇の中に消えたペーターの姿を一瞬見失った彼等は、その闇の中から突進するペーターの体当たりへの対応が遅れ、躱すことも防御することも出来なかった。

 ペーターのタックルをまともに受けて吹き飛ばされた闇虚は、そのまま反対側の手術室のドアを突き破り、手術台に激突してようやく止まった。

『いっつ……』

 身体が破裂するような激痛に顔を歪めながらも、闇虚は自分の敵の姿を見失うまいと苦痛を押し殺し、ペーターを睨みつけた。

「お前の望み通り、ここで終わらせる。俺達二人の夜は、ここで終わりだ。」

 そう言うと、ペーターは奇妙な行動をとった。彼はおもむろに懐からマスクを取り出すと、それを顔に装着した。自分の獲物を目の前にして、それは明らかに場違いの行動であった。

 ペーターの行動を訝しがる闇虚よりも先に、透の方が異常に気付いた。

「痛みが、消えてる⁉」

 先程ペーターに吹き飛ばされ、手術台に叩きつけられた時の激痛が、いつの間にか全く消えてしまっていることに、透は気付いた。回復したのではない。闇虚の身体の至る所は擦り切れ、流血し、打撲痕なども明確に見て取れる。ただ、痛みだけが全く感じられないのだ。

『なに……!』

 闇虚の方も、自分の身体の異常に気付いた。痛みだけではなく、今や身体の感覚そのものが消えつつあった。そして身体の感覚が消えていくのと並行して、意識も次第に遠のいていく。闇虚は自分の身体を支えることすらできなくなり、そのまま地面に倒れ伏した。

「ようやく気付いたようだな。」

 地面に倒れ伏す闇虚を見下ろし、勝ち誇ったような口調でペーターが言った。意識を失いつつある闇虚の中で、透は異音を上げながら霧のようなものを吹き出し続けている医療機器が室内に転がっていることに気付いた。

「まさか、麻酔ガス……!」

 手術に使われる麻酔ガスが、噴霧状態のまま放置されてることに、彼はようやく気付いた。やはり、ペーターがこの手術室のある区画に闇虚を誘い込んだのは罠だったのだ。先の攻撃も、麻酔ガスが充満するこの部屋に闇虚を放り入れるため、完全に計算されたものであったのだ。透は改めて、ペーターの残忍なまでの計算高さに恐怖した。

「ようやく気付いたか。だが、もう遅い。」

 ペーターはそう言うと、片手で軽々と闇虚の身体を抱え上げ、そのまま手術台の上に乱暴に投げ落とした。そして、最早身体全体が弛緩して悪態をつくことすらできない彼女を、手術台の上で組み伏せた。

『……!』

 唯一自由になる目を動かし、闇虚はペーターを睨みつけたが、そんなものは彼に対して威圧にすらならなかった。

「さて、さっきも言ったとおり、俺達の夜はここで終わりとしよう。」

 ペーターは闇虚を手術台の上で俯せにすると、その身体をベルトで次々に固定していった。

『コイツ、何するつもりだ? まさか……』

 闇虚は心の中で、最悪の可能性に思い至り、顔面蒼白となった。

「Everything I want to the world to be. Is now coming true especially for me ~♪」

 鼻歌を歌いながら、ペーターは闇虚の病院着の下半身部分を引き裂くと、自分もスラックスをずり下げ、下半身を露出した。

「And the reason is clear. It’s because you’re here~♪」

 歌いながら、ペーターは闇虚の身体に覆いかぶさると、自身の下半身を闇虚の下半身に押し付けた。

『冗談じゃねー! 透、お前代われ!』

「は⁉」

 闇虚からの突然の選手交代宣言に、透は返事をすることもできないまま、人格の表面に無理やり引き出された。

「……おい、何をやっている。」

 透の方が人格の前面に出てきたことにペーターも気付いたのか、露骨に不快そうな表情で彼の方を見下ろした。

「貴様じゃない! アコの方を出せ!」

 楽しみを邪魔された形になったペーターは、怒りのままに透を殴りつけた。そしてその時、透は自分の身体に微かではあるが「痛み」の感覚が戻りつつあることに気付いた。闇虚から透に意識が変わったことにより、若干ではあるが、感覚が本来の機能を取り戻したのだ。

 透は、この機を逃すまいと、渾身の力で自分を拘束するベルトから手を引き抜いた。金具で手の肉が抉れたが、今この状況では痛みを感じることが逆に嬉しかった。透は全身全霊の力で腕を振るい、怒りのままに自分を殴り続けているペーターを手術台から床へ振り落とした。

 床に叩きつけられたペーターは腰を強かに打ち付け、僅かの間ではあるが、動きが完全に止まった。その隙に、透は自分を拘束するベルトを全て取り払うと、逃げるようにして手術台から飛び降り、ペーターから距離を取った。

 ペーターは、完全に怒りを宿した瞳で、透を睨みつけていた。一方の透は、辛くも危機を脱したものの、ここからどう動くべきか、考えあぐねていた。非常に危険な賭けであるが、今危機を脱せそうな突破口はあるにはある。だがそれは、彼自身で行うには危険度が高すぎた。

 ペーターは無言でナイフを構えた。透に対する殺意は完全に剥き出しで、その殺気だけでも、透を委縮させるに十分であった。

『透、ビビるな。本気で行け。』

 透の頭の中で、闇虚が彼を叱咤した。

『今、動けるのはお前だけだ。お前がやるしかない。心配するな。私に出来てお前に出来ないことなんてない!』

 闇虚が頭の中で語り終わると同時に、ペーターが床を蹴り、透に向けて飛んだ。

『行け!』

 闇虚の合図と同時に、透は突進してくるペーターを躱し、横に飛んだ。

「⁉」

 ペーターは、透が自分の動きを躱したことに驚愕すると同時に、自分の動きが明らかに鈍っていることに気付いた。彼はハッとして自分の顔に触れ、装着したはずのマスクが無いことに気付いた。先程、透に手術台から振り落とされた際に、マスクが外れてしまっていたことに彼は気付かずにいたのだ。それは取りも直さず、ペーター自身も麻酔ガスを吸い込んでしまったことを示していた。そして、彼がその事実に気付き、一瞬動きを止めてしまったことが、図らずも透の優位を生んだ。

 透は床に転がる麻酔ガス噴霧装置を持ち上げると、噴霧口をペーターの顔面に思い切り晒した。マスクが外れた状態でガスを至近距離から吸い込んだ彼は、悲鳴とも怒号ともつかない声を張り上げると、ナイフを振り回しながら床に転がった。

 透は、足を引きずるようにして手術室から逃げ出し、手術室のある区画を抜け出すと、そのまま待合室のソファーに倒れ込んだ。麻酔の影響はまだ残っていたうえ、全身の負傷のダメージも大きかった。だがとにかく今は、身体の感覚を取り戻せたことだけが、彼にとって救いであった。

『グッジョブだよ、透。』

 頭の中で、闇虚が珍しく彼を称賛した。

『アイツのマスクが外れていることに気付いてすぐ、麻酔ガスを逆用するってのを思いつけたのは本当に見事だった。ま、最後の一押しをしたのは私だけどね。』

「何だよお前、いきなり逃げたくせに……」

 したり顔で語る闇虚に対し、苦笑しながら透が答えた。

『結果として上手くいったんだから、別にいいじゃん。』

「その代わり俺は犯されそうになったけどな。」

 寒気がするような先程の体験を思い出し、透は身震いした。

『身体は同じなんだから、実質的にはあんまり変わんないよ。まあでも、アイツがあそこまでイカレてるとは私も……』

 闇虚が言い終わらぬうちに、爆発するような音が、手術室のある区画から響いてきた。ドアが蹴破られる音だ、と透が気付いた時にはもう、通路の向こうの暗闇から、ペーターが幽鬼のような姿を現した。

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