第20話 箱庭遊戯⑲

 縦横無尽に病院内を駆け抜けながら、闇虚とペーターは、場違い極まりない攻防を繰り広げていた。点滴スタンドからもぎ取った鉄棒を振り回す闇虚と、それをナイフ1本で全て捌き切るペーターの一進一退の闘争に、闇虚の中でただ傍観するしかない透は、目が回るような思いであった。ジェットコースターに素手でしがみ付いているかのような、命の危険すら感じる不安定感であった

 途中、逃げ惑う者や、異常事態にどうしてよいのか分からず蹲る者、ひたすら怒号や悲鳴を上げ続ける者たちとすれ違ったが、闇虚もペーターも彼等には既に何の関心も無かった。二人の凄まじい争いを見て、身も世も無い悲鳴を上げて逃げ去る者たちもいたが、彼等は最早そんな人々に一瞥をくれることも無かった。

『ハハハ、面白いじゃん。面白いよ、コイツ!』

 ペーターと打ち合いながら、闇虚は心の底から嬉しそうに笑っていいた。この病院の隔離室に入れられてからずっと、自由に動き回ることすらできなかったので、思う存分自由に暴れまわれる今の状況は、彼女にとっては願っても無いものであった。それに加えて、ペーターが院内で引き起こした数々の惨劇の爪痕――壁という壁に残る、彼岸花のような鮮血の跡。至る所に転がる死体や、損壊された肉片。吊るされた死骸。そして、命を救う場所である病院が暗闇に包まれ、無残に蹂躙されているという現実そのもの――が、彼女の残虐な本能を刺激し、異常な興奮状態に駆り立てていた。

 一方の透は、この異常な現実に圧倒され、意識を保つだけでも精一杯であった。目に映る院内の惨状だけでも耐えがたいものであったのに、それに加えて、対峙するペーターの異常さは、彼の想像を遥かに超えるものであったからだ。彼の身体能力は、常識的な範疇を遥かに超えていた。それも、アスリート的な身体能力ではない。人を責め苛み、追い詰め、殺害することにのみ異常特化したような、本能的な恐怖すら感じるような身体の挙動であった。

「闇虚、気を付けろ! コイツ、殺しに慣れているなんてものじゃないぞ!」

 透は必死に意識を繋ぎ止めながら、興奮状態の闇虚を諫めるように心の中で叫んだ。

『分かってる分かってる。私にとっても、願っても無い大物だ。』

 闇虚は、透の言うペーターの危険性そのものを楽しんでいた。二人とも、ペーターの危険性は認識しながら、その理解は根本的なところで全く異なっているようであった。

「なるべく早めに決着を付けよう。長引くとどう考えてもこっちが不利だ。」

 闇虚に自制を促すことが不可能だと悟った透は、危険な賭けとは思ったが、闇虚の望むまま、早急にペーターを打ち負かすことで何とかこの事態を収めようと考えた。この惨劇がペーター一人で引き起こされたものだとすると、彼の体力というか殺戮に関するスタミナは、透や闇虚のそれとは比較にならないレベルであることが類推された。実際、先程ペーターに喰らわせた鉛筆削りの投擲も、普通の人間であれば昏倒して意識を失っておかしくない威力であった。それを受けてなお、ここまで人間離れした動きができるほどの耐久力・持久力があるということであれば、闘争が長引けば長引くほど、透たちが体力的に不利になるであろうことは明らかであった。

『私としてもそのつもりなんだけどねぇ。どうにも難しいと言うか。』

 闇虚が泰然とした様子で答えた。無論、彼女はペーターを相手に余裕綽々などでは決してなかった。そうやって心と身体に余裕を持たせておかなければ全く対処できないほど、ペーターの攻撃は苛烈極まりないものであったのだ。それはつまり、透が提案した「早急な幕引き」など到底不可能な状況であることを示していた。

「どうする? どうすれば……」

 ペーターの振るうナイフが闇虚の右頬を掠め、背後の壁を斜め一文字に切り裂いた。鉄棒とナイフではリーチからして大分違うはずなのだが、彼は何度か打ち合ううち、闇虚の動作の癖のようなものを覚えたのか、間合いを詰めて攻撃する回数が次第に増えていた。

「まずい……」

 透はじわじわと押し寄せる不安感に歯噛みした。このままでは、闇虚の方が明らかに不利であった。そんな透の不安感を見透かしたのか、ペーターは先程以上に邪悪で凶悪な笑みを浮かべ、刺し貫くような視線で闇虚を見据えた。

『今日一日だけでも随分働いているだろうに、元気でいいね。ちょっと羨ましい。』

「セックスと同じさ。俺は自分の快楽のためなら苦労は厭わない。」

 闇虚の軽口に対し、ペーターは冗談なのか本気なのか分からない下品な答えを真顔で返した。

「最初にエディから話を聞かされた時から、お前にはずっと興味を持っていた。異常犯罪者の男の身体に宿る女の魂。いや、男の身体に宿る異常犯罪者の女の魂か。そいつをこの手で抉ってやりたいってね。」

 欲情に歪んだ表情を浮かべ、ペーターが闇虚に笑いかける。先程とは打って変わって大仰な身振り手振りで、彼は闇虚に対する自身の倒錯した感情を語った。ひょっとすると、それが彼なりの愛情表現なのかもしれなかった。

「邪魔な連中は始末した。俺達にお誂え向きの舞台も用意した。後は踊り狂って、ヤルことヤって、朝を待つだけさ!」

『きっしょ。』

 興奮して捲し立てるペーターを軽蔑した目で見下しながら、闇虚は遠くから自分たちの方に駆けてくる足音に気付いた。

「あの足音は……」

 闇虚の中で、手を拱いて見ていることしかできなかった透も、その足音に気付いた。その足取りはどこか整然としていて、患者や医療従事者の者とは明らかに違っていた。

「警察だ! おい、何があった!」

 暗闇の通路の向こう側から、幾条ものライトの光が、闇虚とペーターを照らした。突入してきた警官隊が、自分達の争う声に気付いてやって来たのだということを、その瞬間に透は悟った。

「しめた! ここは彼等を利用して……」

 警官隊の姿を見た瞬間、透の頭の中にはある考えが浮かんだ。完全な犯罪行為であると頭の中では理解していたが、この異常事態では自分が生き残る方が何よりも優先されるという思いが、そんな透の懸念を吹き飛ばした。

『うん。分かってるよ、透。』

 透の考えは闇虚にも伝わっており、そして彼女も、彼の案に賛成した。ペーターとの小競り合いをこれ以上長引かせるのは得策ではないことは、彼女自身も十分理解していたからだ。

『助け……』

 自分たちの方へ向かってくる警官隊に対し、闇虚は声の限りに助けを叫ぼうとした。だが、ペーターの行動の方が、彼女より一歩早かった。

「Help! Help! Help!」

 闇虚の声をかき消すほどの大声で叫びながら、ペーターは警官隊の方に駆けて行った。足を縺れさせ、床に転びながら、さも凶悪な犯罪者から逃げてきたように、彼は警官隊に助けを求めた。

「しまっ……」

 行動を読まれた。透がそう思った時には、もう既に遅かった。

 警官隊は、助けを求めて縋ってくるペーターを庇うようにその前に立つと、警棒を構えたまま闇虚に対峙した。

「手に持っている物を置いて、手を上げろ。」

 警官の一人が闇虚に対し、鉄棒を手放し投降するように呼び掛ける。無理からぬことであるが、彼等は闇虚がこの惨劇の犯人であると誤認していた。自分達にとって明らかに不味い状況に、透は心の中で舌打ちした。警官隊が闇虚を犯人と誤認していることではない。彼等が、ペーターに対して背を向けてしまったことが、何より問題であった。もしペーターが、透が考えていた通りの行動をとるとすれば、次は――

「! な、何を⁉」

 ペーターは自分を庇う様に立つ警官の腰から銃を引き抜くと、何の躊躇いも無く安全装置を解除し、呆気にとられる警官隊をものの数秒で全員射殺した。乾いた銃声が、暗闇に包まれた病院内全体を揺るがした。

『マズい……』

 自分がペーターに対して行おうとした行動――犯人から逃げる被害者を装って警官を盾にし、隙を見て銃を奪い、ペーターを射殺する――を全て先読みされ、潰された挙句、相手に銃という優位すら与えてしまったことに、流石の闇虚も動揺を隠せなかった。

 だがペーターは、そんな闇虚の危惧をよそに、手にした短銃を床に放り捨てると、そのまま闇虚に背を向け、暗闇の中へ駆けて行った。

「あいつ、何を……?」

 透は困惑した。今のペーターは、圧倒的に優位な状況であった筈である。闇虚を殺そうと思えば、いくらでも出来た筈だ。彼が逃げる理由など、一つも無い。

『いや、ある。アイツの言葉通り、アイツは私達と遊びたいんだ。ただ殺したい訳じゃない。』

 透とは逆に、闇虚が得心したように言った。

「銃なんか無くても、俺達を殺せるってか?」

『少し違う。多分アイツは、もっとじっくりと、私達の命の終りを見たいんだと思う。』

 闇虚の推理に、透は背筋が寒くなる思いをした。

「おい、銃声が聞こえたぞ!」

「犯人と銃撃戦をしているのか⁉」

 遠くから、警官のものと思われる話し声と足音が聞こえてきた。

『私達もずらかろう。この状態で見つかったら、どう考えてもヤバい。』

「同感だ。」

 闇虚と透は、近付いてくる警官隊の足音に追い立てられるように、その場を後にした。透は一瞬、床に倒れる警官の銃を拝借しようかとも考えたが、この状況ではどう考えても自分の立場を悪くするだけだと思い止まり、何も持たぬまま、暗闇の中へ駆けて行った。

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