第19話 箱庭遊戯⑱
病棟内を逃げ回りながら、亜唯は舌打ちしていた。彼女の後ろを追うペーターは、障害物にも、フェイントにも、あらゆる反撃にも一切動じず、機械的な無慈悲さと無感情さで、ただひたすら亜唯を追い詰めて来ていた。
自分や透と同じ、怪人。亜唯は今更ながら、先の面談の際、ペーターが同席した意味をもっと深く考えるべきであったと後悔した。あれは、具体的な目的は分からないが、なんらかの試験であったのだ。怪人たる人間たちを集め、彼等がお互いに対し、どう反応し、どういった結論を導くか――。ペーターにとってその結論は(彼の中で如何なる論理的帰結があったのかは、亜唯には全く分からないが)、今のこの惨劇であったという訳である。
「あの男に、もっと警戒するべきだった――!」
思えば、透と闇虚の方は、面談の時からずっとペーターのことを警戒している様子であった。怪人に対する嗅覚は、亜唯よりも彼等の方が上であったという訳である。亜唯は自嘲気味に笑うと、それでもなお、自分の背後に迫りくる怪物から活路を見出すことを諦めていなかった。
もぬけの殻となったナースステーションに飛び込んだ亜唯は、そこに置かれていたファイル類や無数のアンプルを、手当たり次第にペーターに向けて投げつけた。流石に何が封入されているのか分からないアンプル類を身体に直撃させることは本能が忌避したのか、ペーターは身体を捩り、投擲物から身を躱した。亜唯はその隙を突き、ナースステーションの受付台を飛び越えると、精神科の病棟に向けて再び走り出した。
だが、ペーターの注意を逸らせたのは、ほんの一瞬だけであった。彼は再び床を蹴ると、亜唯に向けて飛んだ。比喩表現ではなく、それは本当に「飛ぶ」といってよい程の挙動であった。床を蹴り、壁を蹴り、天井を蹴り、院内の通路を文字通り飛蝗の如く飛び跳ねながら、ペーターは亜唯の背に迫った。
「化け物――!」
その人間離れした身体能力を目の当たりにし、亜唯は思わず悪態をついた。だが、当の本人はそんな罵倒など露程も意に介さず、その手に握ったナイフを今度こそ獲物の背に突き立てるべく、全身のバネを利用した渾身の一撃を彼女の背に向けて放った。
やられる。前を向いて走ったままでも分かるほどの強烈な殺意。そして、銃声の如き破裂音に、亜唯は一瞬、自分の死を覚悟した。だが――
『あんまり遅いんでこっちから出て来てやったよ。』
思いもよらぬ声が、真横の通路の向こう側から聞こえてきた。亜唯が恐る恐る振り向くと、床に倒れて呻き声を上げるペーター、その傍らに転がる鉛筆削り、そして暗闇の中からその姿を現す闇虚が目に入った。
ペーターのナイフが亜唯の背を抉る瞬間、横から闇虚が投擲した鉛筆削りが、ペーターの頭を直撃し、紙一重の所で彼の身体を吹き飛ばしていたのだ。
「心臓に悪いっての。来るならもっと早く……」
力なく笑いながら、亜唯は一気に緊張の糸が切れたのか、その場に座り込んだ。
『馬鹿言うな。隔離室から出られたのだって偶然みたいなものなんだから。』
彼等が会話していた僅かな時間で回復したのか、ペーターは頭から血を流しながら再び幽鬼のように立ち上がると、二人を睨みつけた。
『お喋りはまた今度だね。どうする? 逃げるなり加勢するなり好きにしな。』
亜唯は一瞬、逡巡する様子を見せたが、すぐに踵を返すと、精神科の病棟の方に駆けて行った。彼女が精神科の病棟に向かっていたのは、透と闇虚を隔離室から解放し、助力を仰ぐことだけが目的ではなかった。先程のペーターとの会話で、亜唯には朧気ながら、彼の心の陥穽のようなものが見えた気がしたからだ。そして、その陥穽を的確に抉れそうな人物が、病棟内にいることを、亜唯は知っていた。
『ま、当然逃げるよね。』
亜唯の意図を知らない闇虚は、逃げ去る彼女の後姿をただ見送ると、ペーターの方に向き直った。
『さて、こっちもそろそろ始めよっか。ずいぶんと派手に暴れまわったようだけど、本当の目的は私でしょ? この前の面談の時からもう気付いていたよ。アンタがどれだけ私を殺したがっているかね。』
ペーターは顔を汚す鮮血を拭うことなくニヤリと笑うと、ナイフを逆手に持ち、蟷螂の如き表情で闇虚を見据えた。
「Let’s fuck. Mr and Mrs.」
『……趣味悪いなぁ、お前。』
冗談なのか本気なのか分からないペーターの発言に苦笑しながらも、闇虚は戦闘態勢に入った。
拡声器による外からの呼びかけにも全く反応しない犯人に対し、警官隊は意を決し、病院内への突入を決行した。
病院玄関から入ってすぐ、外来ホールに吊るされている無数の死体に、彼等は絶句した。外に吊るされている死体の、ゆうに倍近い数であった。殺害されてからまだ殆ど時間が経っていないのか、吊るし上げられた死体からは鮮血が滴り、外来ホール一面が文字通り血の海になっていた。
「尋常じゃないぞ、これ!」
警官の一人が、悲鳴のような声を上げた。その気持ちは、その場にいた全員が同じであった。これは殺人事件などという生易しいものではなかった。前例がないレベルの惨劇が、この闇に包まれた病院の中で起こっていることは誰の眼にも明らかであった。
警官隊がハンディライトで周囲を照らすと、外来ホールの片隅に、集団でうずくまっている人影が見えた。警官の一人が声をかけてみると、異常事態に怯え、どうしてよいのか分からず動けずにいた患者とその家族、そして医療従事者たちであることが分かった。警官たちはすぐさま、自分達が院内で逃げ遅れた人達を救助する目的でやって来た警官隊である旨を彼等に伝えて安心させると、数人の警官を付き添わせ、院外に誘導していった。
「三島と大沢は本庁にこの状況を連絡し、さらに応援を頼め。残りの者は病棟と外来棟に分かれて、逃げ遅れた人達を誘導する。犯人は何人いて、その目的すらも分からん。くれぐれも注意するように!」
リーダーと思わしき警官が指示を出すと、残りの警官たちはそれぞれ散らばり、実像すら分からない犯人に警戒しながら、凄惨な惨劇の爪痕が残る院内を進んでいった。
病院内の状況は、外来ホール以上に陰惨なものであった。暴徒と化した人々による破壊の爪痕だけではない。暗闇を照らすライトの光輪の中には、まるで子供の悪戯のように、鮮血と肉片が至る所に飛び散り、切り落とされた首や手足が転がっている悪夢の如き光景が、次々と照らし出された。殺人の現場など見慣れたはずの警官達ですら息を飲み、我が目を疑ってしまうほどの惨状が、目くるめくパノラマのように、次々と広がっていく。警官たちは次第に、自分が現実の世界にいるのか、それとも夢の世界にいるのか、判別がつかなくなっていくのを感じた。それでも、逃げ場を見失い、通路の隅にうずくまる患者やその家族、医療従事者の姿を見つけると、警察官としての職責を思い出し、彼等を外の、安全な場所へと誘導していった。逆に言えば、そういった守るべき人々の存在が無ければ、警官と言えど、自身を正気の世界に繋ぎ止めることなど全くできないような状況であった。
「山形さんの車が爆発した事件と、何か関係があるんですかね?」
このままでは耐えきれないと感じたのか、警官の一人が無駄口を叩いた。
「分からん。それをこれから調べるんだ。」
冷静そうな警官が、「職務中の私語は慎め」とばかりに諫めるように言った。実際、警察には今まさに起こっている事件の全貌すら掴めていないのだから、他の事件との関連性などその後に調べるしかないのだ。
「……何か、変な音が聞こえませんか?」
また警官の一人が、独り言のように呟いた。
「集団ヒステリーを起こしている者たちもいるって話だ。とにかく慎重に行こう。」
院内には悲鳴や絶叫が、まるでお化け屋敷のようにこだましていた。逃げ出した患者の一人が言っていた「パニックを起こした集団が暴れている」という証言は、どうやら本当の様であった。
「いや、そうじゃないんです。何かこう、チャンバラみたいな、金属と金属がぶつかるような……」
その言葉を聞いた警官隊が耳を澄ますと、なるほど確かに、人の声とは全く違う、鉄の棒同士がぶつかり合うような奇妙な音が聞こえてきた。
「まさか、パニックが高じて患者同士で争っているんじゃ……?」
最悪の予想に、その場にいた全員が凍り付いた。
「……いずれにせよ、慎重に進む必要が」
その場を何とか収めようとした警官の一人がそう言い終わらないうちに、通路の遥か向こう側から、獣の咆哮の様な、凄まじい絶叫が響いてきた。それも、一つではない。まるで獣同士が争っているかのような、咆哮の二重奏であった。
「こっちだ! 急げ!」
異様な気配を感じ取った警官隊は気を引き締めると、一路、声の聞こえた方角に向けて走り出した。
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