第18話 箱庭遊戯⑰

 患者やその家族が逃げ惑い、それを必死に宥めようとする医療従事者や逃げ遅れた人々が押し倒され、踏みにじられ、暴徒と化した人々によって破砕されたガラスや医療機器の破片が散らばる中を、亜唯は必死に目当ての人物を探していた。院内の惨状は、彼女の想定を遥かに超えていた。今まで多くの人間の人生を翻弄し、破滅させてきた彼女が敗北感すら感じるような、惨憺たる有様であった。

「Hey, girl.」

 突然背後から声をかけられ、亜唯は驚いて振り返った。人の気配など、微塵も感じなかったからだ。

 背後の外来診察室のドアがゆっくりと開き、ペーターが音も無く、ゆらりと現れた。返り血を目立たなくするためであろうか、あるいは暗闇に身を隠すためであろうか。彼の服も手袋も、全て黒一色であった。ただ、その瞳だけが、暗闇に包まれた中でも分かるほど血走り、先日の面談の時以上に異様な色を帯びているのが分かった。

「あんた……」

 目当ての人物を見つけたはいいが、その尋常ならざる威容に気圧された亜唯は、次の言葉が見つからず、言葉を飲み込んだ。

「ちょうどいい。少し飽きてきたんだ。トールの前にお前と遊ぶ。」

 言い終わるが早いか、ペーターは床を蹴り、亜唯に向かって飛んだ。そう、それは走るなどという表現では足りないほどの俊足であった。ペーターは弾丸の如きスピードで亜唯に迫り、右手に隠し持ったナイフを突き出した。

「ちょっ……!」

 身構える暇も無く殺意の刃を向けたペーターに対し、反応が遅れた亜唯は、体勢を崩して床に転がることで、すんでのところでその刃を躱した。だがペーターは動きを止めるどころか、そのスピードを減じることすらなく、床に転がった亜唯に対し、追い打ちの連撃を浴びせた。振り下ろされるナイフの連撃に心臓が凍り付くような思いをしながらも、亜唯は、床を転がり、薄氷を踏む思いでそれを躱していった。

「待て! 待てって! 話を聞いて!」

 必死に叫びながら、亜唯はペーターに静止を呼び掛けた。半分は打算、半分は本気であった。ペーターの異常さは、この数秒だけでも彼女には理解するに十分であった。

「……」

 ペーターは無言で亜唯を見つめながら、攻撃の手を止めた。まるで機械が停止するかのように人間味をまるで感じない、硬直と言ってもいい止まり方であった。

「……私たちが争う理由なんてないでしょ? ねえ? アンタの力はよく分かったよ。このくらいにしとこう? これから長い付き合いになるんだからさ。」

 我ながら無様な命乞いであると、亜唯自身にも分かっていたし、彼女は実際、内心悔しさに舌打ちして歯噛みしていた。だが、それ以外に方法が無いことは自明であった。それ程、ペーターの殺意は圧倒的で、亜唯一人で太刀打ちできる代物ではなかった。

「理由はある。」

 ペーターは、身体を静止したまま、唇だけを動かして亜唯に返答した。

「俺は、女が嫌いだ。」

 そう言うと、彼は静止した状態のまま、一瞬で距離を詰め、亜唯の眼前に現れた。現実的に、そんなことはあり得ないはずなのだが、少なくとも亜唯の眼にはそんな風にしか見えなかった。

「特にお前みたいな、自分の全能感を信じて疑わないガキは、この世に存在する価値すらないゴミだ。今すぐに消してやる。」

 何の感情もこもっていない処刑宣告であった。ペーターはその言葉と同時にナイフを振り上げ、獲物を狩る蟷螂の如く亜唯に向けて切りつけた。

 亜唯は、振り下ろされるナイフを躱そうと後ろに飛んだが、動揺により判断が一瞬遅れたため、ナイフの切っ先が左頬から右脇腹にかけて斜め一文字に掠め、病院着が切り裂かれると同時に鮮血が飛び散った。

「つっ……!」

 悲鳴を噛み殺しながら、亜唯は床に転がった。転がりながらも逃げ道を探そうと、彼女は首を曲げて後ろ確認したが、そこはもう、窓やドアすらない完全な行き止まりであった。ペーターは無軌道に亜唯を攻撃していた訳ではなく、彼女を巧妙にこの袋小路へ追い込んでいたのである。亜唯は今更ながら、ペーターに院内の配置図を渡してしまったことを完全に後悔した。何の気なしに行った自分の行動が、結果として自分を死地に追いやっているのだ。自分の馬鹿さ加減に、彼女は心の中で地団太を踏んだ。

 ペーターは、最早急がなかった。ゆっくりと、床に転がる亜唯を見降ろしながら、じりじりとその距離を詰めていく。獲物にはもう逃げ場など無いし、仮に逃げおおせたとしても、実力の差は歴然。すぐに追いついて狩り立てる。そんな余裕からくる行動であることは明らかであった。彼は、手に持ったナイフを弄ぶ余裕すら見せていた。

 殺される。初めて感じる死の恐怖が、亜唯の心をじわじわと浸食し、黴のように汚染していくようであった。亜唯は、床を血で濡らしながら、地を這うようにして必死に逃げようとした。無駄な行為であることは彼女自身にも十分に分かっていたが、死を目前にした最後の生存本能の希求に抗うことは不可能であった。

「所詮はただのガキか。つまらん。だが女は殺す。例外は無い。」

 無慈悲に言い放つと、ペーターはゆっくりとナイフを握る手に力を込めていく。亜唯との距離は、後1m弱。ほんの一瞬でカタが付く距離であった。

 床に転がる亜唯は、ゆっくりと振り向き、ペーターの方を見た。それは、無意識的な行動であった。後ろから刺されて死ぬような、自分の命の終りすら分からない最期は嫌だ、という生存本能がそうさせたのかもしれない。そうして亜唯は、今まさに自分に止めを刺そうとしているペーターの顔を見た。そして、彼の瞳に映る、自分自身の姿を見た。そこには、今まさに命の終わりを迎えようとしている少女の姿があった。理不尽な暴力に抗う術すらない、無力な少女の姿が、そこにあった。

 

 それは、死の恐怖すら払拭してしまう、強烈な違和感であった。あの瞳に映っているのは、自分ではない。少なくとも、亜唯自身が認める景村亜唯ではない。そう考えた時、彼女は、自分の心の中に確固たる何かが生まれたのを感じた。死の恐怖も、血に濡れた屈辱も、弱者としての羞恥も、全て飲み込み、引きずり込んで無に帰してしまう漆黒の深淵。つい先ほど、闇虚の瞳に映っていた「怪物の自分」。その「自分」が、亜唯自身の中に、確固たる自己として、産声を上げた。

 次の瞬間何が起こったのか、ペーター自身にも分からなかった。亜唯の命を完全に奪うはずであったナイフの切っ先は空を切り、哀れな獲物に過ぎなかった彼女は、ペーターの眼をもってしても一瞬その姿を見失ってしまうほどの速度で、身体を回転させ、あろうことか彼の背後を取った。

 ペーターは振り向きざまに、ナイフを真一文字に切りつけた。だがその刃は、またしても空を切った。亜唯は、ペーターが振り向くよりも早く、背後に飛び退いていたのだ。

「お前、一体何が起こった?」

 無感情に、ペーターが聞いた。だが、その表情には明らかに困惑の色が浮かんでいた。彼は、亜唯の突然の変化に、明らかに戸惑っていた。

「さあね。でもアンタのおかげで、またちょっと、自分ってものが分かった気がする。」

 そう言う亜唯の貌は、先程までとはまるで変っていた。少なくとも、ペーターの目にはそう映った。深淵。どこまでも深く渦を巻く底無しの漆黒。人の皮を被った闇黒の怪物が、彼の瞳には映っていた。

「成程。エディの言う通り、お前も俺達と同じ怪人アウトサイダーという訳か。」

 そう言うと、ペーターは亜唯と出会って初めて、笑みを浮かべた。だがそれは、笑みと呼ぶにはあまりにも邪悪な表情であった。吊り上がった口端そのものが凶器を思わせる、天性の殺し屋の表情であった。

「ゴメン。何を期待してるのか分かんないけどさ、猛獣と戯れる趣味は無いんだよね。」

 そう軽口を叩くと、亜唯は通路に設置してあった消火器をおもむろに取り上げ、安全ピンを引き抜いて消火剤を一気に噴霧した。一瞬にして、亜唯とペーターの間の空間が白く染まった。それと同時に、彼女は踵を返すと、精神科の病棟に向けて一途駆けだした。腹立たしいことであったが、ペーターの相手をするには、亜唯一人では明らかに力不足であった。この状況を切り抜けるには、どうしても、助力が必要であった。

「待て! 逃がさん!」

 ペーターが亜唯の背後から叫んだ。停電による暗闇も意に介さず、消火剤の噴霧による視界不良にも全く動じず、彼は弾丸のように駆け抜け、自分の獲物を追った。


「おい! 誰かいないのか! 開けてくれ!」

 透は鉄格子を掴み、必死に叫んだ。だが、不気味なほどの静寂が漂う精神科の病棟には、彼の声を聞いて駆けつける者はおろか、返事を返す者すらいなかった。

「おい! 誰か返事くらいしろ!」

 透は鉄格子を殴りつけ、苛立たしげに叫んだ。院内の異常事態がのっぴきならない状況になっているということは、隔離室にいる彼にすら分かるほどであった。遠くから響いてくる悲鳴、絶叫、怒号。そして窓の外からは、パトカー、救急車、消防車のサイレンが幾重にも折り重なった、けたたましい警笛の重奏。パニックなどというレベルではない、ただならぬ事態が起こっているということは明らかであった。

「クソっ! おい! 誰でもいいから開けてくれ!」

 透は異常事態そのものより、ペーターと亜唯の動向が気になって仕方が無かった。この異常事態がペーターの手によって引き起こされたのは、亜唯の言葉からして間違いない。そして亜唯は、そんな彼を「止める」と言って出ていったが、透には、ペーターがそんな簡単に止められる相手とはとても思えなかったし、亜唯と対峙することにより、余計に事態が混迷するのではないかという、確信にも似た危惧があった。

『透、ちょっと待て。何か聞こえないか?』

 闇虚が、隔離室に続く通路の奥から聞こえてくる「何か」に気付いた。透が耳を澄ますと、確かに、誰かがゆっくりと隔離室に近づいてくる足音が聞こえた。しかも、病棟には全く似つかわしくない、ヒールの足音であった。

 やがてその足音は、透がいる隔離室の前まで来て、そこで止まった。

「あんたは……」

 鉄格子の向こうに現れた人物。それはあのエディであった。エディは、無言で懐から鍵を取り出すと、隔離室の扉を開錠した。

 鉄の扉が、軋みを上げながら開き、透はエディと対面した。

「……一体何のつもりです? その鍵は?」

「非常事態の様ですので、私自身の判断でお借りしました。職員の方も誰もいない状況でしたので。」

 先日の面談の時と同様、エディは何の感情も見せず、事務的な口調で言った。

『非常事態も何も、あのペーターとかいう外人の仕業なんだけどね、これ。完っ全に責任問題だよ、アンタ達の。飼い主なら飼い犬の首に紐でも括っとけよ。』

 人格の表層に出てきた闇虚が、皮肉を込めてエディに言った。

「把握しております。だからこそ、貴方の、いえ、貴方達の力をお借りしたいのです。」

『力をお借りしたい、ねぇ。』

 闇虚は、挑発するような目で、エディを見据えて言った。

『猿芝居は止めない? 本当はアンタ達もグルなんでしょ? 私達の力を借りたいんじゃなく、私達の力を「試したい」ってのが本当なんじゃないの?』

「どのように受け取られても構いませんし、どのように行動されても構いません。闇虚さんの、心のままに。」

 エディは、芝居がかった調子で、深々と闇虚に向かって頭を下げた。

『話になんないね。でも……』

 これ以上エディと話しても無駄だと悟ったのか、闇虚は通路の先にある出口の方を見た。

『お望み通り、自由にさせてもらう。』

 そう言うが早いか、闇虚は駆けだした。隔離室に続く通路を抜け、停電の闇に包まれた病棟を駆け抜ける。病棟には、患者も医療従事者の姿も見えなかった。避難したのか、あるいはパニックを抑えきれず皆逃げ出したのかは分からなかったが、闇虚は一顧だにしなかった。彼女にとっては、この異常事態やパニックの動向そのものよりも、自身のターゲットを見つけ出すことが、何よりも優先されるべき事柄であった。

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