第17話 箱庭遊戯⑯

 病棟へと飛び出した亜唯は、まず、先程とは打って変わってまるで真夜中の森の如く静まり返った病棟の様子に驚いた。先程まで泣き喚き、悲鳴と絶叫を繰り返していた患者も、それを宥めていた看護師達も、皆一様に、何かに怯えるように、口を噤んでいた。

「ねぇ、どうしたの?」

 亜唯は、床に座り込んだ患者を抱きかかえる様にして介抱していた看護師に、この状況について尋ねた。

「……叫びが、聞こえる。」

 どう話してよいか、逡巡していた看護師に代わって、頭を抱えて蹲っていた患者が、ゆっくりと口を開いた。

「病院中から、叫びが、悲鳴が聞こえるんだ……。」

 その患者の言うことは、本当であった。しんと静まり返った病棟に、絶叫と悲鳴が、遠くからこだましているのが亜唯にも分かった。そしてその叫びは、精神科病棟に続く通路の向こう、他の診療科の病棟や外来のある方向から響いてきていた。

「亜唯ちゃん、危ないから病室に戻っていて。今、他の人たちが、院内の状況を……」

 看護師が言い終わる前に、亜唯は駆けだしていた。引き留める看護師の声が背後から投げつけられたが、彼女は一顧だにせず、そのまま、病棟と病棟を繋ぐ通路を駆け抜けた。亜唯が患者を操って騒ぎを起こしたのは、精神科病棟の中だけであったはずであった。その混乱が他の病棟までこんな短時間で伝播するのはありえない。つまり、この病院内を揺るがすような騒乱は、別の誰かが引き起こしている。それが誰なのかは、彼女には考えるまでも無く分かっていた。

 外来棟に走り出た亜唯は、床を濡らす何かに足を滑らせ、尻餅をつくような形で転倒した。

「いっつ……」

 すぐに立ち上がろうとして床に手をついたとき、彼女は、自分の手を濡らす生暖かい感覚に気付き、慌てて手を引っ込めた。

 床一面に、血だまりと、得体の知れない生肉の欠片のようなものが散らばっていた。

 驚いた亜唯が天井を見上げると、2階に続く階段の手すりから、まるで鶏を絞める時のように、原形を留めない人間の死骸が吊るされていた。死骸は明らかに人の手によって損壊された跡があり、何者かの手によって生きたまま解体されたのは明らかであった。

「あいつ……!」

 ペーター。あの外国人の青年の仕業に違いなかった。自分自身にもよく分からない怒りに突き動かされ、亜唯は、自分の身体を汚す鮮血を振り払うと、再び駆けだした。


「一体何が起こっているんですか⁉」

 脳神経外科の病棟では、入院患者の家族が、突然の事態に完全に動揺し、ナースステーションにいる病棟看護師に食って掛かっていた。

「申し訳ありません。只今、施設担当の職員が原因を調べています。」

 もう何度目になるかも分からない回答を、看護師は入院患者の家族に返した。

「さっきからそんなこと言って、全然復旧しないじゃないの! それに、さっきから病院の至る所で物凄い叫び声とかが聞こえているけど、一体どういうことなんです⁉」

「申し訳ありません。復旧が遅れていて、他の患者さんも不安に思われている方が多いのだと思います。施設担当には、復旧を急ぐように連絡を……」

 他の病棟から漏れ聞こえてくる絶叫や悲鳴が、患者やその家族を不安に駆り立てていた。看護師達も、自分たちにすら何が起こっているのか分かっていない状況で、患者やその家族への返答に窮する状況が続いていた。

 その時、看護師の一人が、自分たちに詰め寄る患者家族の後ろに、奇妙な人影を認めた。その人物は、上下ともジャージ姿で、肩まで伸びた黒髪、そして病院にはまるで似つかわしくない野球帽を眼深にかぶっていた。

「げ」

 カエルの鳴き声のような濁った声を出し、患者家族の一人が、床に倒れ込んだ。その背中は鮮血に染まっており、彼が倒れ込んだ床には、見る間に血だまりが広がっていった。

 その場にいた全員が、目の前で起こっていることがまるで理解できず、数瞬の間、完全に硬直した。

 背後にいたジャージの人物は、手に持っていたボール状のものを、ナースステーションの中に放り投げた。べしゃり、という肉を叩きつけるような音がして、そのボール状のものが、ナースステーション内のデスクの上に落ちた。それは、切り落とされた人間の生首(後に判ったことであるが、行方不明になっていた研修医の高崎の首であった)であった。

 度を越した異常事態に見舞われた場合、殆どの人は何も考えることが出来ず、思考を放棄して硬直することしかできない。今の状況がまさにそれであった。患者家族も看護師も、誰一人として状況が理解できず、逃げることはおろか、声を出すことすらできなかった。ただ一人、彼らの背後にいたジャージの人物を除いては。

 ジャージの人物は、疾風の如き速度で、呆然と立ち尽くす患者家族を次々に刺し貫くと、踵を返し、闇の中へと走り去った。一早くこの異常事態を飲み込み、逃げ去るその人物を止めようとした看護師が一人いたが、彼はジャージの人物に追い縋ろうとした次の瞬間、振り向きざま振るわれたナイフに喉笛を掻き切られ、鮮血を吹き散らしながら床に転がった。

 件の犯人が走り去ってから数秒遅れて、看護師と患者家族の空を切り裂くような悲鳴が病棟全体に響き渡った。その悲鳴と絶叫を背に浴びながら、ジャージの人物は、野球帽と黒髪の鬘、そしてジャージを脱ぎ捨て、元のペーターの姿に戻った。

 ペーターは次の病棟に着くと、予めトイレの用具入れの中に隠していた変装着に着替え、次の「遊び」に向かった。


 病院内は、文字通りの地獄絵図と化していた。ペーターの変幻自在かつ一切の容赦がない殺戮行為により、院内の至る所は鮮血と肉片が飛び散り、それにパニックを起こした患者とその家族が我先に逃げまどい、その逃げまどう患者の中に紛れ込んだペーターがさらなる殺戮行為を行い、混乱と騒乱は最早収集不可能なレベルにまで拡大していた。

 必死の思いで、出口である外来ホールまで辿り着いた患者たちもいたが、そんな彼等を待ち受けていたのは、さらなる恐怖であった。

 患者が外来ホールに殺到すると同時に、吹き抜けとなっている3階付近の窓がパリンと割れ、次々と何かが下の外来ホールに向けて投げ捨てられた。それは、ロープで吊るされた無数の死体であった。先程亜唯が見たものと同様、拷問され、いたずらに損壊された、人の尊厳など完全に踏みにじる、死骸の吊るし柿であった。

 精神的に限界に達しつつあった患者やその家族は、この光景に心の平衡を完全に失い、院内のパニックは誰にも止めることのできない集団ヒステリーにその姿を変えた。


病院の外には、施設担当職員の通報により警察や消防、電力会社職員も駆けつけていたが、停電による暗闇に加え、院内で何が起こっているのか、その具体的な状況がまるで分らず対応に苦慮していた。

「中で人が沢山死んでいる。」

 必死の思いで病院内から逃げ出してきた患者がそう訴えた。

「停電で、みんなパニックを起こして暴動が起こっている。」

 別の患者が、蔑むような口調でそう吐き捨てた。

「殺人犯を見た。ジャージ姿で野球帽を被っていた。」

「いや、明らかに外国人だった。」

「若い女性の姿だった。いきなり包丁のような物を振りかざして、看護師さんを刺した。」

 病院内の殺人犯を見た、という証言もあったが、その証言はてんでバラバラであった。仮に殺人犯がいたとして、単独犯なのか、複数犯なのか、警察にもまるで分からなかった。そしてそれが分からない限り、警察としても迂闊な行動はとれなかった。そもそも、犯人の目的も全く不明なうえ、先程の2つ目の証言のように、パニックを起こした患者がありもしない「犯人」を誤認している可能性すらあるのだ。もしそうであった場合、警察の介入でよりパニックが拡大してしまう危険性もあった。

 ペーターが各階で変装して殺戮を行ったため、警察は襲撃犯の実像すら掴めない状況であった。これこそが、彼の狙いだったのだ。

「どうにかならないんですか? 重油が漏れているという連絡も入っているんです!」

 駐車場で警察と消防、そして電力会社の到着を待っていた施設担当職員が縋るように言った。その言葉に、その場にいた全員が顔面蒼白になった。事態は、刻一刻と悪化の一途を辿っているのは明らかであった。

 その時、病院駐車場に面した外来棟の窓が割れ、そこから外に、何かが投げ落とされた。

 先程、外来ホールに投げ落とされたのと同じ、死骸の吊るし柿であった。一つや二つではない。次々と窓が中から割られ、そこから矢継ぎ早に死骸が吊るされていく。

 最早、一刻の猶予も無い。警官はパトカーの無線に飛びついた。

「こちらT大学病院前。通報を受けて駆け付けましたが、院内で複数の殺人事件が発生している模様。犯人の数、その目的、ともに不明。至急応援願います。とにかく回せる人員を可能な限りこちらに回してください!」

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