第16話 箱庭遊戯⑮
暗闇の中、患者の困惑する声と悲鳴、怒号、絶叫、そしてそれを必死に宥める医療従事者たちの声が、透のいる隔離室にも響いてきた。
「クソッ! 何が起こってるんだ⁉」
状況がまるで分からず、透は思わず鉄格子を殴りつけた。得体の知れない悪寒が、身体の内側からじわじわと浸食してくるのを、彼は感じた。一方の闇虚は、どうやらこの状況に歓びを感じているらしく、心の中で歓喜に震えているようだった。
その時、隔離室に続く通路のドアがゆっくりと開く音が、透に耳に聞こえた。やがて、小さな足音がヒタヒタと透がいる隔離室に近づき、そして、金属製のドアの前で止まった。
「亜唯か……」
暗闇の中でも、彼女の貌と瞳は見間違えようがなかった。その貌と瞳は、まるで周囲を染める暗闇すら飲み込んでしまうほどの深淵であった。
「こんばんは。どうしたの? 暗いのは嫌?」
「これはお前の仕業か?」
透は亜唯に、直球の質問をぶつけた。彼には、この状況で彼女ただ無駄話に来たとは思えなかったし、実際そんな様子にも見えなかった。
「半分間違いで半分正解。この停電は多分、あのペーターとかいう外人がやったことだよ。」
「お前、アイツに何か言ったのか⁉」
透は鉄格子を掴み、亜唯を詰問したが、彼女は事も無げに答えた。
「彼、何か色々と欲求不満みたいだったから? ちょっとお願いを聞いてあげただけ。この病院の院内配置図を彼にあげたの。まさかこんなにすぐ動いてくれるとは思わなかったけど。」
そう言うと、亜唯は不気味に笑った。口の端が吊り上がる、というより、裂けて切り上がるような、恐ろしい笑顔であった。
だが透には、そんな恐ろしいはずの笑顔が、どこか哀れなもののように見えた。
「アイツと一体何をするつもりだ?」
「昨日の今日で、この病院の連中は精神的にかなり参っている。そして暗闇は、そんな不安を恐怖に変える。恐怖に駆られた人間は、簡単に暴走する。今のこの病棟の連中みたいにね。本当に簡単だったよ。私はちょっとした刺激を与えただけだったのに。」
恐ろしげな言葉を、次々と紡ぐ亜唯。その瞳の中で、どす黒い深淵が相も変わらず渦を巻いていた。
だが、今の透は、そんな亜唯の深淵をじっと見据えることが出来るようになっていた。目を逸らしてはいけない、そんな使命感すら、彼は感じていた。
患者の絶叫が一段と高くなり、その数を増し、病棟全体でコーラスを奏でるかのように響き渡る。そして、病棟の至る所で物が壊れ、投げつけられる音と、傷つけられた者たちの悲鳴と嗚咽が、絶叫のコーラスの間に間奏の如く併せて響いた。
「分かる? 私には他人を操り、支配できるだけの才能がある。アンタ達がどんなに侮辱しようと、覆せないような差が、私とアンタ達の間にはある。ねえどうする? 患者の連中を操ってココを襲わせてみようか? 簡単だよ。アンタも村川みたいな変態性癖の異常者だって吹聴して回れば、今の連中ならなんでもする。早いところ私に土下座でも何でもして許しを乞う方がいいんじゃない?」
早口で、捲し立てるように透を恫喝する亜唯を、透は何も言わずに見ていた。そして、ここは闇虚に話をさせた方がいいだろうと直感的に理解した彼は、無言で心の中に引っ込んだ。
『言うべきことが違うんじゃないの、亜唯ちゃん。』
馬鹿にしくさった口調で、闇虚が答えた。
『アンタが本当に言いたいのは「助けてください、お願いします」だろ?』
「はぁ?」
闇虚の言わんとするところがまるで理解できず、亜唯は挑発的に返した。
『私の言葉に逆上してこんな真似をしたんだろうが、そういう所はしっかりとガキっぽいんだね。まあ、アンタの年じゃあそれも仕方ないか。』
売り言葉に買い言葉のような言葉の応酬であった。透は心の中で、闇虚に代わったのはひょっとして失敗だったかと今更ながら後悔し始めた。
「口の減らない女だね。いいよ、そんなに言うんなら、望み通り……」
『それでお前が得られるのは、何もない。本当はもう分かっているんだろ? そんなことをしたって、お前が得られるのは空っぽの勝利だけだ。決して消すことのできない苛立ちと虚しさと絶望がいつまでも続くだけだって。』
「なっ……」
決して誰にも明かしたことのなかった、自分自身の心の内奥。それを全くの他人に見透かされ、亜唯は今まで抱いたことも無いような困惑を覚えた。
『お前の態度を見ていて気付いたよ。コイツは今までの人生でただの一度でも、勝利や充足を得たことが無い奴だってね。でも、それは当然だ。お前には、心の充足を得られるような「自分」がない。厳密に言えば、自分が何なのか、お前自身にもが分かっていない。そんなことも分からない奴に、心の平穏なんてあるわけがない。』
亜唯は俯きながら、微かに肩を震わせていた。誰が見ても、屈辱に身を震わせていることは明らかであった。
「……くだらない。アンタの言うことなんか、本当にくだらない。」
絞り出すようにして、亜唯が必死に反駁しようとするが、まともな反論をすることができるような精神状態ではないのは、透にすらはっきりと分かった。
亜唯の中では、無数の「亜唯」が騒めき立っていた。闇虚を殺せと吠える亜唯、それとは逆に、闇虚に手を伸ばそうとする亜唯、すぐにこの場から逃げようという亜唯、何が起こっているのか理解すらしていない亜唯、ひたすら自死の念に捉われる亜唯……。彼女は心の平衡どころか、意識自体を失ってしまいかねないような状態であった。
『そんなくだらない奴の言葉に震えているのはどこの誰だ? さっきまでの虚勢が一気に消えたぞ?』
「……」
亜唯は、黙りこくってしまった。今この状況で何を言おうと、闇虚の手玉に取られてしまう。それに加えて、自分の中で騒めき立つ亜唯たちを、彼女自身も制御できなくなっていた。そんな焦燥感から、彼女はどうすることもできなかったのだ。
亜唯は踵を返し、闇虚のいる隔離室の前から立ち去ろうとした。敗走のような屈辱感があったが、これ以上、闇虚の前にいることに彼女は耐えられそうも無かった。
『亜唯、お前の救いは目の前にある。お前自身が気付いていないだけだ。』
背後から投げかけられた闇虚の言葉に、亜唯はその足を止めた。
「なによ、急に…」
『言葉の通りさ。お前は自分自身が何なのか、本当は気づいている。ただ、それから目を背け続けているだけだ。』
闇虚の言葉の意味が分からず、亜唯は困惑した表情を向けた。
『来い。』
鉄格子越しに、闇虚が亜唯に目で合図した。亜唯は訳が分からなかったが、何故か従った方がいい気がして、闇虚がいる隔離室の前まで戻った。
「アンタの言っていること、意味が分かんないんだけど。」
『お前、この前の面談の時、透にこう聞かれたよな。「お前はどんな人間なんだ」って。その時お前はどう答えた?』
亜唯は、その時の自分の答えを思い出した。そう、確か彼女はこう答えた。「好きに考えてくれていいよ。どれも全部、私なんだから」と。
「……それが何? まさかそれが答えだっていうの?」
『その通り。それが答えだ。お前自身も、自分が何者なのかとっくの昔に気付いている。ただそれに目を向けていないだけだ。』
「くだらない! 私はただ、事実を答えただけ……」
そこまで言って、亜唯は自分の言葉の意味に気付いた。事実。そう、彼女は紛れも無い自分自身について、事実を答えたのだ。
『ようやく、自分の言葉の意味に気付いたみたいだな。』
闇虚がニヤリと笑った。
「私の中の全部が、私。自分自身が無い私が、本当の私……」
『そう。他の人間みたいな確固たる「自分」なんてものが無いのが、本当のお前だ。空っぽであると同時に、数限りが無い。お前をどう捉えるのか、どの貌が見えるのかは、受け取る人間次第だ。』
亜唯は、闇虚の瞳に映る自分の姿を見た。まるで、渦を巻く暗闇の深淵が、人の皮を被っているかのような、おぞましい怪物が、そこには映っていた。亜唯が始めて見る、他人の瞳に映る自分であった。
「……怪物、いや、怪人か。」
力なく、亜唯の口から、先日エディが自分たちを指して言った言葉がこぼれる。
『人は、他人との繋がりの中で、自分自身を確立する。怪物である私たちも同じだ。私には透がいたが、亜唯、お前には誰もいなかった。そして逆にそのことが、お前に他の誰にもない人格の特性を与えた。だがその孤独ゆえに、お前は自分自身と向き合う機会が無いまま、ここまで来てしまった。』
闇虚は、鉄格子に顔が張り付いてしまうほどに、近づいて続けた。
『お前は、昨日の私の挑発なんか、本当は鼻で笑えばよかったんだ。「それがどうした? お前の言う通り、自分が無いのが私自身だ」ってね。だがお前は、そうしなかった。自分自身の本当の姿から逃げるように、私の言葉に沈黙して、逃げた。それでハッキリと感じたんだ。コイツには、自分の前に立ってくれる奴が必要なんだって。』
鉄格子越しに、闇虚と亜唯が対峙する。
『亜唯、お前には私がいる。お前は私の、仲間だ。』
信じられないような言葉が、闇虚の口から出た。透は闇虚の言葉を俄かには信じられなかったが、彼女の心に嘘はなかった。闇虚と透は、自我は違えど同じ人間。心の根底では同じ感情を共有している。お互いの言っていることが真実か嘘かは、直感で分かるのだ。
「なによ、私のこと、あんなに酷く言ってたくせに……」
睨みつけるような目で、亜唯が答える。その瞳には、微かに涙が浮かんでいた。
『率直に言うと、私もお前が怖かった。初めて会う、自分以外の怪物だったからね。でも、同時に思った。自分と同じ怪物なら、本性を包み隠した化かし合いじゃなく、腹を割った付き合いがしたいって。亜唯、お前はどうする?』
亜唯は改めて、闇虚の瞳に映る自分を見た。先ほど見た時は、あれほど恐ろしげに見えた怪物は、その深い暗闇のような瞳も含めて、どこか寂しげに見えた。そんな自分の姿を見るうち、亜唯は、かつて自分が口にしたアイスが、どうして全く味のしないものであったのか、何となく分かった気がした。空っぽな自分にすら気付けぬままアイスを食べたところで、美味しさなど分かるはずが無かったのだ。だが、その空っぽさを、自分が認識し、受け入れたとしたら? 怪人としての自分を受け入れ、その事実すら、己の誇りに変えることが出来たとしたら?
亜唯の中で声を上げていた、無数の「亜唯」達が、一斉に沈黙していた。彼女の心から、沈鬱な暗雲が晴れつつあった。
亜唯は一歩踏み出し、闇虚に対峙すると、こう告げた。
「アンタの思惑になんか、乗ってあげない。」
『ほほう?』
どこか嬉しそうに、闇虚が笑った。
「私の行く道は、私が決める。アンタを仲間と認めるかどうかも、私が決める。私は自分が手に入れたこの力で、自分自身を、そして自分の周りの世界を変えてみせる。」
決然と、亜唯が自分自身の言葉を紡いでいく。
「でも、私が自分自身を見つける手助けをしてくれたことには、本当に感謝している。それだけは、本当に、ありがとう。」
そう言うと、彼女は闇虚に背を向け、隔離室に至る通路のドアに向けて走り出した。
『どこに行く?』
「あいつを、ペーターを止めてくる!」
それは、人道主義的な理由からなどでは勿論無い。亜唯は、自分の子供っぽい感情の乱れから引き起こしてしまったこの事態を、自分自身の手で収めたかった。そしてそこから、新しい自分の全てを始めていきたかった。
「マズい! 危険すぎる!」
心の中で、透が叫んだ。彼には、ペーターが危険人物などというカテゴリーには収まりきらない怪物であるという本能的な直観があった。
『戻れ、亜唯! あの男に近づくのはヤバい!』
同様の危惧を闇虚も抱いていた。鉄格子に顔を押し付けるようにして、彼女は亜唯の背中に叫んだ。
そんな声を背に受けながらも、亜唯は、足を止めようとはしなかった。ようやく見つけた自分自身、自分というものが「ない」私。それはある意味で救いのないものであったけれど、彼女はそんな何者でもない自分を、既に心の中で受け入れつつあった。
亜唯の口の中に、微かに、アイスクリームの甘い味が広がっていった。
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