第15話 箱庭遊戯⑭
結局亜唯は、殆ど眠ることもできないまま、朝を迎えた。昨日の事件のショックが酷く、今日は院内学級を休む旨、看護師に伝えると、亜唯はそのまま院内の散歩に出かけた。看護師はいい顔をしなかったが、彼女は無理やり押し切った。特に行く当ても無いし、病院内は既に何度も散策して知らない場所など無かったが、とにかく今の亜唯は、ただ病室でじっとしていたくなかったのだ。
昨日の爆発事件と、昨夜の高崎が起こしたトラブルもあってか、病院内はまだ診療が始まる前だというのに職員が慌ただしく行き交っていた。外来ホールの総合待合室の椅子に座り、その様子を漫然と見つめていた亜唯は、ふと、見知った顔を見つけた。
「あいつ、ペーター……」
外来患者に交じって、昨日出会った金髪の青年、ペーターが院内に入って来ていた。どう見ても、外来受診のようには見えなかった。
亜唯は意を決し、彼に近づいた。
「Hello.」
拙い英語で、亜唯はペーターに挨拶した。
「昨日トールと一緒にいたアバズレ女か。何の用だ?」
ペーター自身も英語が母国語ではないのか、どこか拙い英語で返答した。そしてその内容も、結構な挨拶であったが、同様に拙い英語力の亜唯は細かい部分は聞き流していた。
「昨日の駐車場の爆発、やったのアンタでしょ?」
亜唯はもったいぶらず、率直に訊いた。昨日の爆発事件の際、現場にいたペーターの態度から、亜唯は彼が犯人であるとほぼ確信していた。
「それが?」
「まだ足りない。そんな感じだね、君。」
否定しないことが、何より雄弁な答えであると受け取った亜唯は、さらに踏み込んで訊いた。昨日のペーターの表情には充足感が無く、そして今朝のペーターの表情には、飢えにも似た感情が、亜唯には見て取れた。彼は、昨日の惨劇だけではまだ満足していない。彼女はそう踏んでいた。
「何が言いたい? 俺は女が嫌いだ。用件は簡潔に言え。」
苛立たし気にペーターが言った。
「アンタがいいのであれば、協力してもいいよ。」
ペーターは亜唯の言葉に、無言で彼女を見つめた。その目はまるで、彼女を品定めしているようであった。
「……この病院の見取り図が欲しい。持っているか?」
試すような口調で、ペーターが亜唯に聞いた。
「あるよ。スマホ持ってる? じゃあそれにデータ転送しとく。」
もし何か不測の事態が起こり、この病院から逃げ出さなければならない事態に備えて、亜唯は、病院の院内配置図を秘かにコピーし、データ保存していた。
亜唯は、院内配置図のデータをペーターのスマホに転送すると、不敵に笑いながら、その場を後にした。
「お互い頑張ろ。じゃあね~。」
余裕ありげに手を振りながらその場を去る亜唯を、ペーターは疎まし気に眼を眇めながら見送った。
ペーターの邪悪さに、この時の亜唯はまだ気付いてもいなかった。
「ペーターから連絡がありました。道下透、景村亜唯と、今日遊ぶ予定だと。私も今から現場に出向きます。」
ホテルの部屋で外着に着替えながら、エディがダニエルに告げた。
「今日、かね?」
椅子に腰かけたダニエルが、眉を顰めながら答えた。
「ええ。私は特に問題ないかと考えています。あの二人の転院に関する諸手続きは既に完了しておりますので。」
「君に任せていいかね?」
ダニエルは少し出不精なところがあり、外出を要する用務はエディに任せることが多かった。そしてエディも、そのような渉外業務に特に文句はなかった。
「問題ございません。」
手早く着替え終えたエディは、ダニエルに軽く一礼すると、そのまま部屋を出ていこうとした。
「ああ、エディ。ペーターにはくれぐれも穏便にやれと伝えておいてくれ。」
去り際のエディの背中に、半ば諦めた様な口調で、ダニエルがそう告げた。実際、ペーターがそんなこちらの要望を受け入れることなどないことを、彼は経験から知っていた。
「了解しました。」
エディはそれだけ答えると、足早にホテルの部屋を後にした。
「ペーター、エディよ。連絡ありがとう。ダニエルから伝言。「なるべく穏便に頼む」だそうよ。」
エレベーターに乗り込みながら、エディはペーターに電話で連絡した。彼はメールやアプリによる連絡を忌避しており、連絡を取る際は必ず電話であった。
「了解。派手にやる。」
ペーターの返答は単純かつ、臆面も無いものであったが、彼の気質を理解しているエディは苦笑するだけで受け流した。
その日は診察も面談も無く、透は何もすることがないまま、夜を迎えた。朝方、隔離室に真壁が現れて透に語ったところによると、既に透と亜唯の転院に係る諸手続きは完了し、後はもう、この病院での診療は行わない予定であるとのことであった。透としては有難かったが、その一方で何もすることが無いので、完全に暇を持て余した状態であった。
『身体、休めておいた方がいいよ、透。』
何かを期待しているかのような口調で、闇虚が言った。闇虚がこのような態度をとるのは、決まって厄介事が起こる前触れであることを、透は知っていた。
「お前も気になってるのか、昨日の、爆発のこと。」
『当然。』
昨日の夜、高崎の事件で駆け付けた警察官たちの言っていた「病院駐車場の爆発事件」のことが、彼には高崎の件以上に気になって仕方が無かった。例の面談で、ペーターに出会った直後に起こった爆発事件。そして死んだのは、病院を訪れていた刑事。根拠も理由も全く薄弱であったが、透はペーターが爆発事件に何か絡んでいるのではないかという疑念を拭いきれなかった。昨日の面談の際にエディが語っていた「道下さんや景村さんと同じ」という言葉。そしてペーターが見せた、あの尋常ならざる瞳。闇虚のものとも、亜唯のものとも違った、また別の怪物の眼。人間的な良識や常識など一切存在しない、純然たる殺意の塊であるように、透には思えた。
「考えすぎじゃなければいいけど……。」
『薄々気付いているだろうけど、考えすぎじゃないよ。間違いない。アイツはそのうち、私達に何かするつもりだ。』
透は、気が滅入る想いだった。亜唯だけでなく、また別の厄介な人間に目を付けられつつあるという事実が、彼を暗澹とした気分に沈めた。
その時、彼の暗い気持ちに呼応するかのように、部屋の電気が何の前触れもなく消えた。
「あれ……?」
消灯時間にはまだ早いはずであった。透は不思議に思い、鉄格子の向こうの通路を見たが、そちらの電気も消えていた。非常灯の灯りすら、完全に消えてしまっている。
「停電か?」
困惑していたのは、透だけではなかった。患者も、職員も、皆がこの突然の停電に困惑していた。こういう場合、病院では非常用電源にすぐに切り替わるはずであるが、いつまで待っても電源が回復する気配すら見せないことが、彼等をさらに不安にさせた。それでなくても、昨日の駐車場の爆発事件や、精神科病棟における傷害事件などで、患者の不安は増大していた所に、この異常事態はパニックの引き金となりかねなかった。
口々に不安を訴える患者と、それに対応する医師と看護師。そんな中、苦情や確認の連絡が殺到していた病院施設担当の職員は、すぐにでも電源を回復させるべく、病院に電力を供給する送電線の確認と非常用電源である発電機の確認に向かった。
「送電線が完全に破断しています。我々だけで修理は難しいので、電力会社に修理を要請してください。」
送電線の状態を確認に向かった職員から、切羽詰まった内容の連絡が届き、施設担当の係長はすぐに電力会社に応援を要請すると、非常用電源の確認に向かった職員に連絡を取った。送電線が完全に破断しているとなれば、下手をすると明日の朝まで送電設備の復旧はできないかもしれなかった。そうなると、すぐにでも非常用電源への切り替えを行わなければならない。
「発電機の所に来ているんですが、停止しているというか、明らかに壊されています。」
発電機の確認に向かった職員が、困惑した様子で係長に連絡した。
「壊されている? 誰かが意図的に壊したっていうのか。」
「どうもそんな感じです。それに何か、この臭い……。重油が漏れて、う、うわっ! 助け……」
突然、職員の悲鳴と共に、電話がぶつりと切れた。係長は最悪の想定をはるかに超えた事態に、しばし言葉を失った。破断した送電線。壊された非常用電源。漏れた重油。何者かに襲われた職員。誰かが、意図的にこの病院に破壊行為を行っているとしか考えられなかった。
施設担当の係長は、気を取り直すと、病院長と事務部長に電話し、停電に関して現在得られた状況を簡潔に報告した。そして、部下の施設担当職員に警察や消防への連絡を手早く指示し、自身も非常用電源がある部屋へと向かった。とにかく今は、この病院に何が起こっているのか確かめるのが先決であった。
そしてそれが、施設担当職員が係長を見た最後の姿であった。
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