第14話 箱庭遊戯⑬

 精神科病棟における警察の現場検証は午前0時頃に終了し、病棟は取り敢えず、落ち着きを取り戻した。不安を訴える患者も何名かいたが、駆け付けた看護師と医師が何とか落ち着かせ、病棟内は再び、眠りの夜を迎えた。

 その一方で、騒動の当事者の一人である亜唯は、全く眠れない夜を過ごしていた。とにかく彼女にとって、先程の闇虚との会話は不愉快極まりなかった。

 お前には「自分」がない。

 闇虚の侮蔑的な言葉が頭の中にこだまし、亜唯の心を暗い怒りの色に染め上げる。

 そして彼女の心の中では、その怒りと同じくらい冷めたもう一人の亜唯が、怒り狂う亜唯を遠くから冷笑している。

 そしてそんな引き裂かれた亜唯の心を見て、嘲笑うもう一人の亜唯がいる。

 そしてそんな3人の亜唯を見て、そのあまりの醜態に絶望する亜唯がいる。

 そしてそんな4人の亜唯を蔑み、ひたすら自傷に走ろうとする亜唯がいる。

 闇虚の言う通り、亜唯には「自分」というものが無かった。厳密に言えば、彼女は自分自身というものがまるで分からなかった。

 亜唯は、母親の胎内にいる時から、愛情を受けたことが無かった。母親はまだ自分のお腹の中にいる亜唯を「寄生虫」「私の身体を削り取る癌細胞」と呼んで憚らなかった。父親に捨てられた恨みなのか、そもそも彼女自身の気質によるものであったのかは分からないが、とにかく亜唯は、生まれる前から母親のそんな言葉を聞かされて育った。亜唯は長じた後、そのことを周りの大人に話したことがあったが、誰も信じる者はいなかった。「胎児にそんなことが分かるわけがない」として、誰も真面目に受け取る者はいなかった。実際のところ、亜唯自身にも信じられなかった。だがその記憶は、紛れも無く亜唯の人格形成の根幹となっていた。

 亜唯が生まれた後も、母親は全く変わらなかった。母親は一応、亜唯と同居し、育児を行っているようなそぶりを見せていたが、それはあくまで別れた父親から養育費を引き出し、役所から母子手当をもらうことが目的であり、亜唯に対する愛情は一欠片も無かった。家庭の中で、亜唯は母親から「いないもの」として扱われた。物置のような部屋に閉じ込められ、必要最低限の世話しかされず、自他の区別すら殆どつかないまま、亜唯は育っていった。亜唯が最初に保育園に通うこととなった日、自分を「いるもの」として扱う「他人」の存在がまるで理解できず、恐怖のあまり一日中ヒステリーを起こしたように泣き喚いたことを、彼女は今でもよく覚えている。そして家に帰った後「私に恥をかかせた」と母親に張り倒されたことも。

 こんな状況であったので、児童相談所の職員が亜唯の自宅に訪れたことも何度もあった。だがそのたびに母親は「訴訟を起こす」と喚き散らして、彼等を追い払った(実際、児童相談所職員を相手に転び公妨のような真似をして訴訟を起こしたことも何度かあった)。そうして亜唯は、母親の言う通り自分を「いないもの」として振舞うようになった。保育園でも、児童相談所の職員が来ている前でも、亜唯は「いないもの」であった。感情も表情も動かさず、ただ、空気のように生きること。それが、亜唯にとっての絶対者である母親に受け入れられる唯一の方法だったからである。

 やがて亜唯が小学校に上がった時、ある出来事が起こった。

 学校からの帰り道、亜唯に声をかける者がいた。何度か自分の家に訪れたことのある児童相談所の職員で、まだ若い女性であった。

「亜唯ちゃん、お腹すいてない? どこか怪我してるところはない? お母さんに見つかっちゃうと大変だけど、内緒で、少しだけ力になることもできるよ。」

 女性の言葉は、亜唯を救うことができない不甲斐なさからくる、本当の親切心であったのかもしれないが、亜唯にとってはいつも母親に追い払われている弱い連中の戯言でしかなかった。こんな奴の言葉を聞けば、後で母に怒られる。そう思った亜唯は、女性の横を素通りしようとした。その時――

「お母さん、いつも私の食べ物を取って、自分だけ食べて……」

 嗚咽し、涙をこぼしながら、亜唯は児童相談所職員に語りかけた。

 自分自身の口から出た言葉も、その表情や涙も、亜唯には全く理解できなかった。そもそも彼女の語ったことは、まるっきり出鱈目であったからだ。食事はいつも、母親がドアの下の隙間から無言で差し入れていた。彼女と母親は同じテーブルで食事をしたことすらないのだから「食事を取られる」も何も無いのだ。

「お姉さん、お腹すいた。お腹すいた……」

 亜唯は、児童相談所の女性の脚にしがみつき、必死に訴えた。

 今度こそ、亜唯は自分が何をしているのか全く分からず、困惑に心が大きく揺らいだ。一体自分は何をしているのか、もしこんな所を母親に見つかったらどうなるのか。だが、彼女の体の表面に浮かんだその「貌」は、そんな内心の困惑などよそに、ひたすら哀れな自分を演じていた。

「分かった。それじゃあこのお金で、好きな食べ物を買いなさい。くれぐれも、お母さんには見つからないようにね。お姉さんと亜唯ちゃんの秘密だよ。」

 そう言うと、児童相談所の女性は500円玉を亜唯に手渡し、そそくさとその場を立ち去った。

 亜唯は一人、その場に立ち尽くした。彼女にはつい先ほどの自分自身の行為が、全く理解不能であった。母親を絶対者として恐れる気持ちがありながら、その一方で、嘘で母親を貶めるような行為に何の躊躇いも無い自分。何とも得体の知れない気持ち悪さが、彼女の胸の中に充満した。ドブ川の様に黒く濁った感情の汚泥が、自分の心に渦を巻くその感覚を、亜唯は今でも覚えている。

「早くそのお金でアイス買いに行こうよ。」

 先程、嘘泣きでお金をせしめたもう一人の亜唯が、心の中で悪びれもせずそういった。

「いけないんだ、お母さんに言ってやろ。」

 また別の亜唯が、今度は心の中で他の2人を非難した。

「これをネタにあの女を脅かせばもっとお金もらえるんじゃない?」

 邪悪に捻じ曲がった心の亜唯が現れ、心の中でそう嘯いた。

「私が「あたしの「わたしを「私に「私の……」」」」」

 様々な「亜唯」が心の中に現れ、春先の蝶のように乱舞した。

 「いないもの」である亜唯は、次第に冷静に、自分の中に現れては消える「亜唯」を受け入れていった。自分は「いないもの」なのだから、自分の中に現れる別の「亜唯」もまたいないもの。でも、そんな別の「亜唯」のおかげで今、自分は、500円というお金を手にしている。「いないもの」のままでは、手にすることも出来なかった物が、別の「亜唯」なら手に入れることが出来る。そうだ、自分は「いないもの」なのだから、何にだってなれるし、何だってできる。

 そう考えると、亜唯は自分が何だか翼を手に入れた湯な気分になって、そのままの軽やかな足取りで、近所のアイス屋さんに行った。そのお店は、亜唯の部屋の窓からいつも見えていたお店で、彼女は叶わないと思いながらも、いつか来てみたいと思っていたお店だった。

「すみません、このアイスくださ~い!」

 亜唯は「普通の小学生」の貌で店員に呼びかけ、そして生まれて初めて、買い物という行為を行った。彼女には初めてのことであったが、緊張も心配も無かった。自分には「普通の小学生」の貌もあるからだ。

 母親がいる家にアイスを持って帰ることはできないので、亜唯は、公園のベンチで誰にも見つからないようにこっそりとアイスを食べようとした。だが、蓋を開けて一口食べてみて、彼女はそのアイスの美味しさはおろか味すらも満足に感じられないことに気付いた。自分の舌がおかしいのかと思ってもう一口食べてみたが、やはり味がしないというか、はっきり言って不味かった。亜唯はがっかりすると、食べかけのアイスをゴミ箱に投げ捨て、そのまま帰宅した。

 家に帰ると、亜唯はいつもの「いないもの」に戻っていた。まったく淀みなく、「いないもの」になっていたので、母親は怪しむどころか違和感すら抱いていない様子であった。部屋の中に一人で座り、亜唯は、改めて今日自分の身に起こったことを思い出していた。

 自分は、何にでもなれる。

 特に何の感慨も無く、亜唯は、自分の特質を受け入れていた。心の中で騒ぎ出す無数の自分を、客観的に眺める余裕すらこの時には生まれていた。だがその一方で、あの全く味のしないアイスが、心のしこりになってどうしても消えなかった。

 その日を境に、亜唯は変わった。正確に言えば、周りの人たちから「変わった」と受け止められるようになった。授業で指されても返事すらしなかった彼女が、積極的に発言するようになり、クラスメイトとも雑談して笑い合うようになった。周囲の大人たちは皆、そんな彼女を見て「やっと普通の子になってくれた」と胸を撫で下ろした。

 最も、それは、彼女の「貌」に過ぎなかった。亜唯は、自分の貌を巧みに使い分け、他人を翻弄する術を自分自身で収得したのである。彼女は小学校低学年にして、普通の子からかけ離れた怪物として萌芽したのであった。

 やがて亜唯は、自分のその力を用いて他人の人生を弄ぶ術を覚えた。気に入らない生徒の家庭内問題を巧みに聞き出して拡散したり、戯れに年配の教員をセクハラの加害者に仕立て上げたりもした。だが、そうやって他人の人生を弄んだ後も、彼女の心には充足感も達成感も無かった。あの日食べた味のしないアイスのように、どこまでも虚しい、ぽっかりと穴の開いたような感覚が、心に染みのように広がっていくだけであった。

 その虚しさを埋めるように、亜唯は自分の「貌」を用いてひたすら他人を翻弄し、その人生を狂わせることに力を注いでいった。ヤクザや夜の街の人間と懇意になり、彼等を使ってクラスメイトを恫喝し、締め上げさせた。教師と生徒の恋愛の現場を押さえ、それを暴露すると彼らを脅して水商売の世界に引き込み、性病に感染させたりもした。あまつさえ、亜唯を恐れてグループを作っていた生徒たちの心理を巧みに操り、集団自殺事件を引き起こしてみたり……

 だが結局、そんな遊びの結末はいつも同じであった。あの日のアイスと同じ、無味無益で、ひたすら虚しさと哀しさが心の中に広がっていくだけの、美味しさの欠片も無いデザート。亜唯が手に入れられるのは、それだけであった。

 そんなことを繰り返すうち、亜唯には自分自身が分からなくなっていた。果たして、本当の自分は何なのか。自分の本当の意思はどこにあるのか。彼女には全く分からなくなっていた。自分について深く考えれば考えるほど、心の中は混迷を極めていった。そもそも、最初の亜唯である「いないもの」である自分というのが、母親に順応するために彼女が作り出した偽りの自分なのだ。だとすれば、本当の自分とは?

 結局彼女は、答えを出せないままここにいる。そして、そんな自分の弱さを、こともあろうにあの憎たらしい闇虚とかいう女(身体は男だが)に指摘されてしまったのだ。自分と同じ怪物でありながら、あの女は亜唯と違い、どこまでも自分の人生を楽しんでいるようであった。ひょっとしたら、透と闇虚ならば、自分が探し出せない答えを知っているかもしれない。そう思って、亜唯は彼等に色々とちょっかいをかけてみたが、結果は自分の弱さをただ彼等に露呈してしまっただけだった。

 怒りと情けなさと悔しさで、亜唯はベッドのシーツを破れんばかりに握りしめた。

「絶対に、目にもの見せてやる……!」

 自分を侮辱した闇虚に対する復讐を心に誓いながら、同時に亜唯の心は、先程以上に冷めていた。彼女には予感というより確信があった。仮に、闇虚への復讐を遂げたとしても、自分が得られるのは結局、あの味のしないアイスでしかない。ただ、今以上の虚しさと、哀しさに心を蝕まれるだけだということを、彼女は経験から知っていた。

「バーカ、何回同じ間違いしてんだよ、お前。」

 頭の中で、亜唯の一人が冷笑した。

「早く寝ようよ。眠い……」

 子供そのものの、もう一人の亜唯が、目を擦りながら言う。

「もう止めようよ。辛いよ、怖いよ……」

 目を腫らしながら、泣き虫な亜唯が心の中で他の亜唯に縋った。

「闇虚ちゃんのああいうハッキリした所、好きだなぁ~。」

 喧々諤々な他の亜唯を無視して、他人事のようにそう言う亜唯もいる。

「いいからもう死ねよ、お前ら。」

 全ての事物に対して敵対的な亜唯が、そう言って自傷行為を促す……

 そんな心の中の無数の声を聴きながらも、亜唯は、特に心が揺らぐことはなかった。揺らぎようが無かったのだ。何を考え、何を思おうと、自分にできることは、ただ一つだけ。亜唯自身にすら分からないこの無数の自分自身を縦横無尽に使い分け、他人の人生を翻弄し、破滅に落とし込むだけ。ただ、それだけなのだ。そんなことを行うたびに、心に空洞が広がるとしても、彼女にできるのは、ただそれだけなのだ。

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