第12話 箱庭遊戯⑪
結局、透は、爆発事件の詳細を何も知らされぬまま夜を迎えた。病棟の中を慌ただしく行き交う医師や看護師の足音や話し声が微かに聞こえては来るが、隔離室に至る通路のドアが閉ざされていることもあり、一体何が起こっているのか、透のいる部屋からは全く分からなかった。窓の外からはパトカーや消防車のサイレンが聞こえてくるので、事故か何かが起こったのは確かなようだが、具体的な状況に関しては皆目見当がつかなかった。そして、知る手立ても無かったので、透はそれ以上考えることを止めた。彼には今、他に気になっていたことがあったからである。
透はいつものように、特に何をする訳でもなくベッドに寝転びながら考え事をしていた。午前中のエディやダニエルとの面談が、未だに彼の心の中に引っかかっていたのだ。
彼らは、透や亜唯のことを必要としている、と言っていた。だが透には、どうしてもその言葉を額面通りに受け取ることができなった。どう考えてもおかしい。自分や亜唯は、紛れも無い危険人物であり、例え医学的に重要な症例であったとしても、歓迎すべき存在などでは、全く無いはずである。だが、面談の際のエディの態度は、少なくとも透が見る限りでは、嘘偽りなどは微塵も感じなかった。そしてそのことが逆に、彼の不信感を掻き立てた。透や亜唯のような危険人物を歓迎するなど、まともな人間のすることではない。まともな人間では無いとすれば、何か。
『少なくとも、治療が目的って訳じゃなさそうだよね。』
心の中で、闇虚が答えた。透も、その点に関しては彼女に同意見であった。
「ああ、俺もそう思う。それに……」
『あのペーターとかいう外国人だろ?』
透は頷いた。面談に同席していたあのペーターとかいう青年の異様極まりない視線が、透の心に今も裂傷のように残っていた。エディが語っていた「道下さんや景村さんと同じ」という言葉も、透にとって非常に気がかりなものであった。自分や亜唯と同じということは、彼もまた、ある種の危険人物なのではないだろうか? 透にはそのように思えてならなかった。
『ま、いずれ全部わかるよ。否が応でもね。』
「まあ、それもそうか……」
確かに、こうして寝転がって考えていたところで、今の透の疑念が氷解する訳はない。透は闇虚の言う通り、運を天に任せることに決め、今日はもう就寝しようと掛け布団の中に潜り込んだ。
奇妙な物音が聞こえてきたのはその時であった。
争うような声と、何かを引きずる音。やがて隔離室に続くドアが乱暴に開け放たれ、誰かが入ってくるのが分かった。
「オラッ、入れ!」
声の調子で、透にはそれが研修医の高崎だと分かった。透は扉の鉄格子に駆け寄ると、外の通路の様子を確かめた。
高崎は乱暴にドアを閉めると、隔離室に続く通路に何かを放り投げた。放り投げられた何かは、ちょうど透の部屋の扉の前に転がった。
「痛っ!」
倒れていたのは、亜唯だった。高崎は、まるでゴミ袋を扱うように彼女の首を掴み上げると、「止めてください!」と抵抗する彼女を無視し、そのまま透の隣の部屋――村川の隔離室の前まで引きずっていった。
突然の出来事に、透が言葉を失っていると、高崎は村川の隔離室のドアを開け放ち、先程と同様、放り投げるようにして彼女を隔離室の中に押し込んだ。
亜唯の「痛い!」という声と、村川の素っ頓狂な叫び声が同時に響いた。
「……何してるんですか? 一体。」
常軌を逸した行動をとる高崎に対し、透が鉄格子越しに冷たい口調で聞いた。
「うっせえ! 黙ってろ!」
高崎の顔は、怒りと憎悪で歪みきっていた。
「ちょっと優しくしたらつけ上がりやがって! 亜唯、テメエ最初から俺を嵌めるつもりだったな!」
高崎は村川の隔離室の中に倒れ込んだ亜唯に対し、口汚い罵倒の言葉を投げつけた。
「はぁ? 入院中の未成年者を勝手に夜の街に連れ出したのはアンタでしょ?」
透の位置からでは見えないが、どうやら亜唯の方は特に怪我なども無いようであった。憎たらしげな声が、隣の部屋の鉄格子の中から響いてくる。
「テメエが外に出かけたいっつーから、俺がわざわざ連れ行ってやったんだろうが! それをお前、途中で逃げ出して警察に駆け込みやがって! 何が未成年者略取だ!」
なるほどそういう事情か、と透は呆れると同時に納得した。今朝方から高崎の姿が見えなかったのも、病棟の様子が少しおかしかったのも、そういう事情があった訳だ。
「私は連れて行って欲しいなんて頼んでない。アンタが強引に連れ出しただけ。それで警察に捕まるのは自業自得でしょ。」
口の減らない亜唯に堪忍袋の緒が切れたのか、高崎は鉄の扉を力任せに殴りつけた。
「でも意外。こんなに早く自由の身になれるんだね。パパやママにいくらお金積んでもらったの?」
暴力的な威圧に対しても一向に物怖じしない亜唯に対し、高崎は不気味に顔を引きつらせて笑うと、最後通告のように喋り出した。
「泣いて謝れば許してやろうと思ったんだけどなぁ。もう無理だわ。あ、言っとくけど今更泣き喚いたって無駄だからな? 当直の連中はみんな金を掴ませて外してもらった。泣こうが叫ぼうが誰も助けちゃくれない。おい亜唯。お前と一緒に閉じ込められている奴が、どんな奴か知ってるかぁ?」
下品な含み笑いを漏らしながら、高崎が亜唯に語りかける。一方の亜唯は、極めて冷静な様子であった。
「うん、知ってるよ。村川孝信。年齢43歳。小学生の頃から、年少の児童に対する暴力事件を何件も起こしている生粋の異常者。それもただの暴力事件じゃない。人気のない所で子供を縛り上げてライターで乳首を焼いたり、安全ピンを全身に突き刺したり、拷問に等しいような凄惨な事件を何件も起こしている。成人後はそうした事件を起こしておらず、更生したように見えたけど、それはやり方を変えただけ。実際には何人もの女性、それも立場的に自分に逆らえない女性と関係を持ち、生まれた私生児を絞め殺してはホルマリンに漬けてコレクションしていた……」
亜唯が語る村川の過去に、透は戦慄した。ただの「ちょっと変な人」だと思っていた村川がそのような人物だとは、彼は想像だにしていなかった。
「え? お、俺は、ただの児童虐待の犯人だってしか……」
寝耳に水だったのは、高崎も同じようであった。そんなことも知らずに亜唯をここに連れてきたのかと透は呆れると同時に、亜唯の身を案じた。当直の医師や看護師が外していると言っても、透が大声で叫べば、少なくとも就寝中の患者は騒ぎ出す。他の病棟には医師か看護師がいるはずだから、騒ぎが大きくなれば、彼等も気づくはずだ。
『待って、透。』
心の中で、闇虚が透のそんな考えを制した。
『ここは、亜唯の出方を見よう。』
「しかし……」
『いや、その方がいい。あいつが本当に私達と同じなのかどうか、きちんと確かめたい。』
透は、不安感は拭えなかったものの、闇虚に心の中で同意した。
「あああ亜唯ちゃんひどいなあどうしてそんなこと言うのどうして僕のことをそんなに知ってるのなんでそんなこと人前で喋るのひどいよひどいよひどいよぉ」
先程からずっと黙っていた村川が、何時にも増して一直線な口調で喋り始めた。
「ひどい子だずるい子だ悪い子だそんな子はおしおきだ悪い子は痛くしないと分からない僕は悪くない悪い子がみんな悪い悪い子はぁ!」
突然、村川は声を張り上げると、亜唯に掴みかかった。村川はそのまま亜唯を床に押し倒すと、その上に馬乗りになり、抑えきれない情動に歪み切った顔で、彼女の細首を締めあげた。透の位置からはその状況は見えなかったが、鋭くも鈍い物音だけで、何が起こっているのか想像するには十分であった。
「さあ、泣こう、亜唯ちゃん。」
そう言って亜唯の顔を見降ろした村川は、そこにあるべき顔が無いことに困惑した。彼の経験上、この状態になれば、どんな子供も絶望と共に最後の無駄な抵抗を試み、最後は微かな涙と共に逝くはずであった。にも拘らず――
亜唯は、笑っていた。村川を、嘲笑っていた。
「アンタも私のお父さんと同じ。弱みのある人間相手なら優位に立てると思っている、ただの負け犬。」
恐怖の欠片すら見せず、自分を侮辱する亜唯に対し、逆に村川の方が恐怖の虜となった。
ひょっとしてこの子は、自分なんかが触れていい相手ではないのではないか。
そんな考えが頭の中に浮かんできた瞬間、村川の全身から力が抜けた。そしてその瞬間を、亜唯は見逃さなかった。亜唯は、素早く村川の股間に手をやると、一片の容赦も無く渾身の力で握りしめた。そして、悲鳴を上げて転げる村川の股間目掛けて、隠し持っていたカッターナイフを無慈悲に振り下ろした。
身も世も無い村川の悲鳴が、隔離室のあるエリアだけではなく、病棟全体に響き渡った。
「……医者を呼んできた方がいいんじゃないか? あ、アンタが医者か。」
目の前で起こっている事態がまるで飲み込めず、ただ茫然と立ち尽くす高崎に、透は冷然と言い放った。
一方の高崎は完全に混乱していた。鉄格子の向こうで村川が股間を血で濡らしながらネズミ花火のように床を転がっている。早急に処置しなければならない状況であるが、高崎には、今この隔離室に入る勇気はなかった。村川の傍らに立つ亜唯が、右手でカッターナイフを弄びながら、じっと高崎の方を見ていた。そう、今この隔離室に入れば、亜唯に何をされるか分からない。かといって、他の医師や看護師は彼が金を包んで追い払ったため、駆け付けられる者はいない。他の病棟から呼んでくるという手もあるが、そもそもこの状況をどう説明するのか? 高崎は、進むことも引くこともできず、完全に詰んだ状況になった。
「なに、今の声。」
「隔離室の方だぞ。」
「看護師さんはどこ? 当直のお医者さんは?」
村川の悲鳴を聞いて目を覚ました患者たちの声が、隔離室に続くドアの向こうから聞こえてきた。その声は、次第に大きくなる。
「村川さんが倒れて叫んでる! 血を流して叫んでる! 早く先生を呼んで! 早く!」
ここぞとばかりに、透は大声を張り上げた。
「開けて! 開けて! ここから出して!」
負けじとばかりに、亜唯も大声で助けを呼んだ。最も、実際に助けが必要なのは、村川の方であるのだが。
「ぐっ……」
高崎は、最早この場に留まることはできないと本能的に判断したのか、脱兎のごとく駆けだすと、隔離室に続く通路のドアを開け放ち、そのまま脇目も振らずに逃げ去った。まるで、いつかの藤堂のようだと透は思った。高崎もあの男と同じ、何の根拠も無い自信だけで世を渡ろうとする、ただの俗物にすぎなかったのだ。
「早く、早く先生を呼んで!」
ドアの向こうから、何が起こったのか分からないような顔でのぞき込む患者たちに、透と亜唯は声の限り叫んだ。
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