第11話 箱庭遊戯⑩

 真壁の所へ山形が怒鳴り込みに来たのは、その日の昼近くであった。

「道下透を国外に転院させるというのはどういうことなんですか⁉」

 扉を開けるなり、挨拶も無く山形は真壁に叫んだ。今にも真壁に掴みかからんばかりの勢いであった。

「今朝方、警察の方から連絡がありました。道下さんの不起訴ですが、正式に決定したそうですね。」

 真壁は山形の怒りにも全く動じることなく、淡々と事実のみを返した。

「それとこれとは話が別です!」

 余計なことをしやがって、と、山形は心の中で警察署の同僚に舌打ちをした。

「あんな危険な男を野放しになんてできません。不起訴を決定した検察の方針は、是が非でも撤回させます。先生、貴方もあの男の転院について考え直してください。」

「道下さんの不起訴は、検察が様々な証拠や資料を総合的に判断した結果と捉えています。山形さん個人がどう思うという話は、少し違うのではないかと思いますが。」

 真壁には、最早山形に対し真摯に接しようという気持ちは皆無であった。ひたすら揚げ足を取り、話を逸らし、うんざりして帰ってもらうことだけを、彼は考えていた。

「私は納得していません!」

 眼を血走らせながら、今にも真壁に殴り掛かりそうな勢いで山形が叫んだ。

「ここは病院ですので、お静かに願います。」

 聞き分けの無い子供を諫めるような口調で、真壁が言った。

「私は医師ですので、患者さんの治療を最優先に考えます。そして様々な事情を勘案し、彼を転院させることに決めました。それだけのことです。」

 山形は、沸騰して爆発しそうになっている自分の頭を必死に落ち着けながら、何とか真壁から譲歩を引き出そうと、形振り構わず言葉を続けた。

「聞きましたよ。ここの研修医が、昨日の夜、未成年者略取まがいの事件を起こしたそうですね? そんな病院に犯罪者の精神鑑定を任せたのがそもそもの間違いでした。私はこれから上層部に掛け合い、貴方を今回の事件担当から外してもらうようにします。」

 山形の言い分は最早ただの恫喝であった。そして、そんなことにも気付けないほど、彼は、道下透という人間に取り憑かれていた。

「その件と道下さんの件とがどう関係するのか、私には分かりかねますが……いずれにせよ、検察の決定を覆すということであれば、すぐお戻りになって然るべき手続きを行った方がよろしいのではないですか? 道下さんの転院は近日中には行われる予定ですので。」

 山形の恫喝にも、真壁は身じろぎひとつしなかった。今朝方の警察からの電話の際、真壁は透が近日中に国外へ転院する予定であることを念のため伝えていたが、警察の担当者の返事は「分かりました」という極めてそっけないものであった。透の起訴について、警察内部でも消極的姿勢であるのは、真壁の目にも明らかであった。今更山形が何か騒いだところで、何か変わるようには到底思えなかった。

「ええ、言われずともそのつもりです!」

 山形は捨て台詞を残すと、怒りのままに診察室のドアを開け放ち、憤激を隠そうともしない足取りで、病棟を後にした。

「やれやれ……」

 呆れたように言いながらも、真壁はこれであの山形とかいう刑事に煩わされることも無くなると思うと、僅かばかりであるが気持ちが軽くなった。

「それにしても、酷い執着ぶりだ。自分では気付いていないというのも、また恐ろしい。」

 道下透、そして景村亜唯。やはり彼等のような人間達は危険である、と真壁は改めて感じた。本人達にその気がなくとも、彼等の存在そのものが、周りの人間を、引いては社会全体を惑わし、翻弄してしまう。邪悪で危険な負の要素の塊であるほど、人々はそれを恐れながら、同時に惹かれてしまう。そして、それは間違いなく、真壁自身にも当てはまることであった。

「そう、彼らの処遇は、ダニエル先生に任せる。それでいいんだ。」

 自分自身に言い聞かせるように、真壁は誰に言う訳でもなく、そう呟いた。


 怒りの収まらない山形は、駐車場の自分の車に戻ると、ドアを開けるなり座席を蹴りつけた。

「クソっ!」

 周囲の目など、今の山形には全く気にならなかった。自分が追い詰め、ようやく確保した凶悪犯にまんまと逃げおおせられた悔しさと怒りが、今の彼の全てであった。

 どっかりと運転席に腰を下ろした山形は、いかにしてこの状況を打開すべきか、考えを巡らせた。だが、検察が不起訴を決定した以上、それを覆すのは並大抵のことではない。おまけに警察内部でも、道下透の不起訴は「止むを得ない」という諦めのムードが充満している。一刑事に過ぎない山形が、この状況をひっくり返すには、どうしても「道下透は訴訟に耐えうる状態である」という精神科医の診断書が必要であった。

「……ダメもとで、精神科医の変更を申し出てみるか。」

 山形自身も、その可能性が極めて低く、また無茶な理屈であることは十分に理解していた。だが彼の心は、「道下透を犯罪者として断罪すべきである」という脅迫観念に近い想いに支配され、突き動かされていた。

「ん……?」

 車を発進させようとした山形は、ふと、駐車場の向こう、ちょうど病院玄関前に立つ人物に気が付いた。

「あいつ……」

 金髪の縮れ毛。灰色の瞳。遠くからでも分かるほど、鋭い視線。間違いない。この前にこの病院の総合待合室で見かけた青年であった。

 金髪の青年が、うっすらと、山形に微笑みかけた。双方の距離は50メートル以上離れているにもかかわらず、山形は確かに「微笑みかけられた」と感じた。

 そしてそれが、彼が感じた人生最後の感情であった。

 爆発。爆音。爆炎。

 山形の車は車体そのものが吹き飛ぶほどの凄まじい爆発を起こし、彼の人生だけでなく肉体の痕跡すら跡形も無く焼き尽くすと、患者やその家族でごったがえす病院駐車場を阿鼻叫喚の地獄絵図に変えた。

「なんだ……?」

 隔離室で漫然と寝転んでいた透は、突然の爆発音に飛び起きた。だが、鉄格子付きの窓は覗き込める高さではないし、他の患者の話も、隔離室の中では聞くこともできない。

『よく分かんないけど、色々と何か始まったみたいだね。』

 闇虚が、心の中でほくそ笑んだ。こういう時の闇虚の勘は、概ね正しいことが多い。透は、不吉な運命が動き出しているような、漠然とした不安感を感じた。

 一方の亜唯は、病棟と外来の連絡通路の窓から、爆発事件後の駐車場の様子を見降ろしていた。

「へぇ……」

 彼女が見ていたのは、爆発で起こる混乱などではなかった。突然の出来事に慌てふためく者、逃げまどう者、スマホで写真撮影などをしている者。その中に、一人だけ微動だにせず、事態の成り行きを見守っている者がいた。

「あの金髪、ペーターとか言ったっけ?」

 先ほどの面談の際に同席していた、あの不気味な外国人青年――ペーターが病院玄関前に石像のように佇立していた。逃げ惑う人々も、燃え盛る車も、まるで彼の瞳には映ってなどいないかのように、彼は一人、混乱して行き交う人々をただ見つめていた。

「なかなか面白いじゃん、あいつ。」

 亜唯がそのまま観察を続けていると、ペーターはゆっくりと身体の向きを変え、病院内へとその姿を消していった。彼が背後を振り返る瞬間、一瞬だけ自分と目が合ったように、亜唯は感じた。

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