第8話 箱庭遊戯⑦

 翌朝、透が遅めの朝食をとっていると、鉄の扉をノックするものがあった。

 昨日の今日なので、透は警戒したが、意外にも入室してきたのは、主治医の真壁であった。他に看護師の姿はなく、彼一人である。

「どうされたんです? まだ診察の時間じゃないですよね?」

 食事をとる手を止めずに、透が聞いた。

「いえ、すみません。実は道下さんにお伝えしなければならないことがありまして。」

 妙に遜ったような態度で、真壁が言った。

「道下さんには、転院していただくこととなりました。」

「転院、ですか?」

 思いもよらぬ真壁の言葉に、透は条件反射的に聞き返した。

「ええ。道下さんの症例は精神医学分野において極めて稀な例であり、より設備や診療体制の充実した環境で治療いただくべきという判断になりました。」

「ずいぶんと急な話ですね。」

 急な話は急な話であるが、透としてはこの病院や真壁の診療に対して不満しかなかったため、よりよい場所に転院するという話だけであれば、歓迎すべきもののように思えた。

 透は姿勢を正すと、真壁に向き直り、話を続けた。

「転院はいつ頃になるんですか?」

「その件に関してですが……」

 真壁は、言いにくそうに、一旦言葉を切った。

「本日、転院先の院長であるダニエル・ノリス先生がお見えになっているので、これから道下さんと面談をしていただきます。ダニエル先生は、私が若い頃、アメリカの病院で医師をしていた時にお世話になった方で、精神医学分野では世界的な権威です。診療体制に関しては、ご心配には及びません。」

 一気に話が前のめりに進んだため、透は若干困惑した。

「今日ですか? それに、その人アメリカ人なんですか?」

「いえ、ダニエル先生のご出身はイスラエルです。現在はイスラエルで精神医学系の医療ベンチャーを立ち上げ、イスラエル政府の支援のもと、そこの代表を務めておいでです。」

 真壁は、どこか観念したような様子で、訥々と語った。

「えっと、じゃあ、そうすると、俺は外国に移送されるんですか?」

「そうなります。」

「はあ……」

 話が急に想像の斜め上に飛んで行ってしまったため、透は椅子にもたれかかり、天を仰いだ。

「あの、ちなみに質問なんですけど、渡航費用とか入院費用とかどうするんです? 俺は会社を解雇されて、両親にも絶縁されたんで、払える金なんてないですよ?」

「そちらについてはご安心ください。費用については全額、向こうのベンチャー企業の方で持ちます。」

 真壁はあっさりと答えた。

「道下さんの症例は、精神医学分野においてそれほど貴重で、かつ今後の精神科医療の発展のために、極めて重要なものなのです。そういった点も考慮して、私も道下さんと景村さんの転院に関して、先方に了承しました。」

「ちょっと待ってください。今なんて言いました?」

 突然、不穏な名前が聞こえてきたため、透は驚いて聞いた。

「ああ、言い忘れていました。景村亜唯さん。こちらの病棟に入院されている方なのですが、彼女も精神医学的に極めて奇特な症例の持ち主でして、その方も道下さんとご一緒にダニエル先生の元へ転院されることになりました。景村さんをご存知で?」

 透は頭を抱えた。よりによって、あんな訳の分からない女と一緒に……

「昨日の夜、そこの通路の鍵を勝手に開けて入って来てましたよ。なんか俺に挨拶していきました。」

 透は投げやりに答えた。

「あ、ああ、そうなんですね。申し訳ありません。色々と、難しい子ですので……」

 言葉を濁しながら、真壁が苦笑した。ここの責任者なのにきちんと連絡も受けていないのか、と皮肉も言いたかったが、今の透にそんな気力は無かった。

「ダニエル先生との面談は、9時頃に行います。看護師を迎えに来させますので、よろしくお願いします。」

「はい……」

 透の返事を確認すると、真壁はそそくさと隔離室を後にした。

「あ、亜唯ちゃんいなくなっちゃうの本当なの嫌だいやだいやだぁ~」

 透と真壁の会話が聞こえていたのか、隣室の村川が大声で騒ぎ出した。だが、あまりにも急な事態に放心した透の耳には、村川の大声は雑音程度にも響かなかった。


 朝食を食べ終えた透がベッドに寝転がっていると、扉をノックする者があった。扉を開けて入って来たのは、いつも診察の際に透を搬送していた、あの朗らかな看護師であった。

「おはようございます、道下さん。真壁先生からお聞きかと思いますが、これから転院先の院長先生との面談になります。」

 ベッドから体を起こした透は、看護師が一人だけなのがまず気になった。いつもならば、医師や看護師が数名で透の搬送を行うはずなのだが……。

「ええ、聞いています。ところで、今日は他の皆さんは?」

 よく見ると、今日はストレッチャーも準備されていないことに、透は気づいた。

「今日は、私一人です。着替えも、ストレッチャーに乗っていただく必要もありません。そのままの格好で大丈夫です。では、こちらにいらしてください。」

 看護師は隔離室の扉を開けると、透に外に出るよう促した。

「このままの格好でいいんですか?」

 いつも診察の際は拘束衣を着せられていたため、てっきり今日の面談も同様だと思ったのだが、看護師の意外な答えに透は驚いた。

「ええ。面談されるダニエル先生から、そのままで構わないとのお話があったそうです。」

 朝方から続く、昨日までとは全く違う状況の数々に透は困惑したが、取り敢えず看護師の後に続いて、隔離室を出ることにした。

 この病院に来て初めて、透は自分の足で病棟の中を歩いた。病棟の中はいつも診察の際に通っていたが、実際に自分の足で歩いてみると、見えるもの感じるもの全てが彼には新鮮であった。

「では、こちらにおかけになって、少々お待ちください。」

 看護師は透に、患者の交流スペースの端にある椅子に座って待つよう促すと、一礼して足早にその場を後にした。一人になった透は、特に何もすることが無いため、漫然と病棟内を見渡した。

 周囲を見回していた透は、病棟の雰囲気がいつもと少し違っていることに気付いた。ナースステーションでも、通路でも、医師や看護師が慌ただしく動き回り、どこかピリピリとした雰囲気であった。透が耳をそばだてると「電話が来たら全部広報担当に回して」「マスコミの対応は~」といった言葉が漏れ聞こえてきた。

『何か不祥事でもあったのかね?』

 闇虚が、興味深そうに呟いた。看護師達の疲れたような、呆れたような表情を見るに、透にも何となく、そんな感じがした。

「おはよう、オッサン。」

 急に後ろから声をかけられ、透は驚いて背後を振り返った。何の気配も感じさせず、制服姿の亜唯がそこに立っていた。

「聞いたよ。一緒に転院することになったんだってね。これからもよろしくね。」

 悪戯っぽい表情で、亜唯が言った。どうやら彼女の方も、真壁から転院についてのことは聞いているようであった。

 透は、自分の中で再び猛り出した闇虚を必死に抑えながら、なるべく亜唯のペースに巻き込まれないように、話を逸らし続けることに決めた。

「学校に行かなくていいのか。」

 亜唯が話しかけた内容と全く別の話題に、透は話を振った。

「別にいいよ。院内学級だし。」

「院内学級?」

 院内学級とは、怪我や病気により入院しなければならない児童・生徒のために病院内に設置される特別支援学級である。亜唯の場合、彼女自身の病気の状態と、彼女が関与した事件の重大性に鑑みて、特別に院内学級での講習が認められていた。以前透が病棟の入り口で見かけた、登校に向かう亜唯の姿は、院内学級に向かう途中であったのだ。

「だからってサボっていい訳じゃないだろ。」

「サボっている訳じゃないよ。私もオッサンと同じ。今日、転院先のダニエル先生とかいう人の面談があるの。」

「お前もかよ。」

 結局、話は元の場所に戻ってきてしまった。透は墓穴を掘ってしまったことを後悔した。

 亜唯は、透の隣の椅子に臆することなく座った。看護師や他の患者が遠巻きにその様子を見て何か噂し合っているようだったが、彼女はそんな様子など気にも留めていないようであった。

 透は、改めて亜唯の顔を見た。昨日は暗がりの中でよく見えなかったが、明るい照明の下で改めてその顔を見ると、本当に、その辺にいるただの中学生であった。昨日、最後に見たあの貌は、ひょっとして自分の心が創った幻だったのでは? と透が疑念を抱いてしまうほど、近くで見る彼女はごく普通の女の子であった。

『誑かされてんだよ、お前。アイツの目、よく見てみろ。』

 日和りかけた透を、闇虚が心の中で引っぱたいた。

 透は闇虚に言われるまま亜唯の目を見て、そして慄然となった。

 その瞳には、何も映っていなかった。周りの風景も、周囲にいる患者や看護師も、透も、そして亜唯自身も、何も映っていなかった。どす黒い暗闇が「景村亜唯」という皮を被っている、そんな印象であった。

「ところでさ」

 透が自分を見る目に気付いているのかいないのか、唐突に亜唯が話を振った。

「今日のここ、何かちょっと騒がしいと思わない?」

 透の心を見透かしているかのように、亜唯が試すように聞いた。

「なんか、みんな忙しそうだな。いつものことかもしれないけど。」

 透はさも興味なさそうに答えた。病棟の異変を気にしているそぶりを見せれば、そこに亜唯はつけ込んでくる。何故か彼には、そんな確信があった。

「誰か見かけないのに気付かない?」

「誰か?」

 透は思わず聞き返した。

「高崎だよ。」

 言われてみて初めて、透は気付いた。あの傲慢極まりない態度の研修医、高崎の姿が、今日は全く見えなかった。

「そういえば、確かに……」

 亜唯は、困惑する透の様子を見て不気味な忍び笑いを漏らした。

「……お前、何かしたのか?」

 透は睨みつけるようにして、亜唯に訊いた。

「何も? 私はむしろ被害者だし。」

 事も無げにそう言い放つ亜唯の姿を見て、透は確信した。こいつが、あの高崎という研修医に何かをしたのだ。

「道下さん、景村さん。お待たせしました、こちらへどうぞ。」

 診察室から顔を出した真壁が、透たちに手招きをした。

「え、一緒に、ですか?」

 透は、思わず聞き返した。精神科の面談なので、当然個別に行うものであると彼は思いこんでいたからである。

「はい。ご一緒にどうぞ。お二人にとって大事なお話となりますので。」

 真壁はさも当然のようにそう言うと、二人に入室するよう促した。

 透は釈然としないものを感じながらも、亜唯の動向に注意しながら、一緒に診察室へと入っていった。

「そんな怖い顔しないでさ、仲良くしようよ、透。」

 亜唯が透のことを呼び捨てにした刹那、闇虚が激昂して表に出かけたが、透はすんでのところで彼女を抑えこんだ。透としては、大事な面談の前に厄介ごとを起こされては叶わなかったからだ。

「ああ、景村さん。面談が終わった後で、少し時間をください。昨日の件で。」

 透が無理矢理闇虚を抑え込み、ぎくしゃくとした動きで診察室の椅子に座ろうとしている隣で、そんな彼の様子に全く気付いていない真壁が、亜唯に語りかけていた。

「分かりました。先生。」

 物分かりよさそうに、亜唯が答えた。

 横目で見ながら、透は改めて、亜唯の変わり身の早さに驚いた。そして以前闇虚が言っていた『変わり身が早いってわけじゃない』という言葉の意味が、おぼろげながら分かったような気がした。

 二人が診察室の椅子に座ったのを確認すると、真壁は「それではダニエル先生を読んできます」とだけ言うと、診察室の奥に引っ込んで行った。二人から逃げようとしているように、透には見えた。

「昨日の件って、隔離室の通路に勝手に入ったことか?」

 身体の中で暴れる闇虚を悟られまいと、透は無駄口をきいた。

「違うよ。もうちょっと大事。」

 亜唯が不敵に笑った。先程真壁に見せた大人し気な表情から打って変わり、透と話していた時の顔に一瞬で戻っていた。

「……高崎の件か。」

「さあね。」

 わざとらしく、亜唯ははぐらかした。

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