第7話 箱庭遊戯⑥
透は、眠れない夜を過ごしていた。朝方薬で眠らされたうえ、村川の無駄話から逃れるため昼寝までしてしまったため、消灯時間はとうに過ぎたにも拘らず全く寝付くことが出来なかったのだ。
『暇だぁ。なんか歌え、透。』
頭の中で気だるげに寝転がりながら、闇虚が透を小突いた。
「消灯後にそんなことしたら迷惑だろ。静かにしてろ。」
透は面倒くさそうに答えた。隔離室の中にはテレビはもちろんスマホやPCの持ち込みも禁止されており、娯楽と呼べるものは殆ど無かった。本ならば何冊か与えられているが、消灯後では読むこともできない。
「ん……?」
扉の鉄格子の向こうから、微かな金属音が聞こえた。隔離室に続く通路のドアを開ける時の音のような気がしたが、消灯後に隔離室へ職員が訪れることは基本的に無いはずであり、透は訝しんだ。
透は慎重に、足音を立てぬように、そっと扉の方へ近づいた。その時――
「おっす! オッサン!」
ばん、と勢いよく、鉄格子に小さな顔が押し付けられた。
透は突然のことに驚き、尻餅をつく形になってしまった。
「君は……」
鉄格子越しの顔に、透は見覚えがあった。朝方病棟で見かけた、中学生くらいの女の子。名前は確か――
「ああ、自己紹介がまだだったね。私は
「あ、ああ……」
取り敢えず姿勢を正したものの、全く状況が呑み込めない透は、生返事を返すだけで精一杯であった。
「ふーん。朝に見た時とは、ちょっと雰囲気が違うね。寝起きだから?」
「えーっと……」
透の困惑などお構いなしに話しかけてくる亜唯に対し、彼は返答に窮した。
「というか、どうやってここに入ったんだ。通路の扉には鍵がかかっていたはずだぞ。」
気を取り直して、透は根本的な疑問をぶつけてみた。隔離室に至る通路のドアは暗証番号入力の鍵で常時ロックされており、職員以外が入ることはできなかったはず。透にはまずその点が疑問であった。
「ああ、アレ? あんなのチョット盗み見れば簡単だよ。」
職員が開錠している時にこっそり盗み見て、番号を覚えたという訳である。透は得心した。それにしても、朝方見かけた時の大人しそうな印象とは全く異なる亜唯の様子に、透はまだ違和感を拭い切れずにいた。
「……ここに何しに来た?」
透の質問には答えず、亜唯はさも楽しそうにニヤつきながら、透の方を見ていた。見るというより、まるで檻の中の獣を観察しているようでもあった。
「そんな風に見るな。俺は動物園の珍獣じゃない。」
不快感を覚えた透が咎めるように言った。
「何言ってんの? 珍獣はお金になるけどオッサンはお金になんないじゃん。」
この野郎、と思ったが、ここで騒ぎを起こしてはまずいということも十分理解している透は、努めて冷静に対処しようとした。
「用がないなら病室に戻れ。見つかったら看護師さんに怒られるぞ。」
「うん。君がね。」
「何で俺が……」
「私が大声上げて泣き叫べば、取り敢えず君の立場がまず悪くなるから。」
透は絶句した。彼が想像していた以上に、亜唯は悪辣な少女であったのだ。ここで下手な対応をすれば、透の立場をより悪くしかねない。慎重に言葉を選んで対応しなければならなかった。
「あ、あれ亜唯ちゃん久しぶり本当に久しぶりだなあ何で最近来てくれなかったの」
透と亜唯のやり取りで目を覚ましたのか、隣室の村川が横から口を出した。
その言葉を聞いた透は、今度こそ本当に唖然となった。この亜唯という少女は、以前にも隠れてここに来たことがあるというのか?
「ねえ、オッサンの名前、道下だっけ? でも中に、もう一人いるんだよね?」
村川の問いかけを完全に無視し、亜唯が探るような口調で透に聞いた。
闇虚のことも知っているのか、と透が亜唯に対する警戒をより強めた刹那、突如として心の内側から這い出た闇虚が、透から身体の主導権を奪った。
『失せろ、クソガキ。』
突然、闇虚に身体の主導権を奪われた透は、心の中で抗議の声を上げたが、いつになく怒気のこもった闇虚の声がそれを制した。
『コイツの話を聞くな、透!』
「へぇ~、それが闇虚ちゃん?」
亜唯は、興味深そうに闇虚の様子を鉄格子越しに眺めた。
『何が「闇虚ちゃん」だ。えぇ⁉』
闇虚は立ち上がると、心の中で必死に制止しようとする透を無視し、鉄格子に掴みかかった。亜唯は、闇虚が鉄格子を掴もうとする刹那、ひょいと後ろに下がり、闇虚の手が届かない位置まで飛び退いた。
『自分の力に浮かれていい気になってんのかもしれないが、私らにそんな子供騙しは通じないからな? 分かったか、負け犬のクソガキ!』
鉄格子を揺すりながら、悪鬼の如き表情で亜唯を睨みつける闇虚に対し、安全圏にいる亜唯は余裕の表情を崩さず、そんな闇虚の様子を楽しげに見つめた。
一方の透は、闇虚が何を言っているのかまるで分からず、ただその気迫に気圧されるばかりであった。
「思った通りだ。やっぱり面白いよ、貴方たち。」
そう言った亜唯の表情は、透が今まで見てきたどんな人間の貌とも根本的に違うものであった。感情も理性も感じられない、それでいて、全ての感情が読み取れるような、どこまでも深い暗闇のような貌。不気味な引力を帯び、まるで引き込まれるような感覚を、透はその貌に抱いた。
「何してるの!」
騒ぎを聞きつけた当直の看護師が、通路の灯りを付けながら、亜唯の元へ駆け寄った。まずい、と透は思ったが、亜唯の口から出た言葉は意外なものであった。
「ごめんなさい。新しく来た人に、挨拶しなきゃいけないと思って……」
弱弱しく、たどたどしい口調で、亜唯が看護師達に詫びた。それは、透が朝方に見た亜唯の姿そのものであった。
看護師は「そんな必要は無いし、ここには入ってはいけない」と一応形だけ咎めると、亜唯を連れて病棟の方へと戻っていった。
「道下さん、彼女と何かありましたか?」
看護師の一人が、心配そうな様子で透に聞いた。
「いえ、急に現れて挨拶されたんで、びっくりしてました。」
何とか闇虚から身体を取り戻した透が、慎重に言葉を選びながら言った。
看護師は「分かりました。ではおやすみなさい。」とだけ言うと、再び通路の電気を消灯し、通路の扉を施錠すると、当直業務に戻っていった。
「亜唯ちゃんさよならまたね~」
村川の場違いなほど明るい声が、暗闇の隔離室に響いた。
「……しかし、凄い変わり身の早さだったな。」
亜唯の突然の変わりように、透は呆れたような感心したような妙な気分になっていた。
『変わり身が早いって訳じゃないと思うよ。アレ。』
闇虚が、吐き捨てるように言った。
「どういうことだ?」
透の質問には答えず、闇虚は、心の底へと消えていった。
「亜唯ちゃんは本当は優しい子なんですそうなんです本当なんですよ」
亜唯が看護師達と病室に戻った後も、村川はひたすら喋り続けていた。「もう真夜中ですよ」と透はやんわり諫めたが、村川はまるで聞く耳を持たなかった。自分は亜唯の友達であると、透に自慢したくて仕方がないようであった。先ほどの亜唯の態度を見る限り、本当に友達なのかどうかは極めて怪しいように透には思えたが。
村川の長々と分かりにくい説明を要約すると、以下のとおりであった。
亜唯は、1か月ほど前に、この精神科病棟に入院してきたのだという。なんでも、亜唯が通っていた中学校で集団自殺事件が発生し、彼女はその事件の関係者であり、唯一の生き証人なのだそうだ。この中学生の集団自殺と、一人生き残ったという少女に関しては、透も報道などを見ていて知っていたため、すぐに「ああ、あの事件の関係者か」と納得できた。この集団自殺事件に関してはその背景から何から不明瞭な点が多く、ワイドショーなどでも連日、極めて興味本位の報道が連日繰り広げられていたからである。警察は唯一の証人である亜唯の事情聴取を行おうと試みたが、彼女の精神状態は極めて不安定で、供述も全く要領を得ない有様であった(自分の名前や生年月日すら満足に答えられなかったという)。結局、亜唯はこの病院に入院させられて、経過観察を行うことになったのだそうだ。
「け警察もひどいんですよ亜唯ちゃんを犯人扱いして無理矢理話をさせようとして彼女を閉じ込めて……」
村川は、まるで自分が見てきたかのように興奮して喋り続けている。
先ほどの亜唯の態度を見る限り、亜唯が集団自殺事件の犯人というのは本当なのでは? と透は訝しんだが、あえて口には出さなかった。
『多分、それで間違いない。あのガキが、集団自殺事件の犯人だ。』
いつの間にか透の傍らに現れた闇虚が、心の中で相槌を打った。
「俺にも、何となくそう思える。あの子は、明らかに普通の感じじゃなかった。」
透も、心の中で闇虚の意見に同意した。先ほどの会話で亜唯が最後に見せた、あの異様な貌が、透は忘れられなかった。他人の心を引きずり込むかのような、あの深い暗闇の如き貌。透は引き込まれることはなかったが、もし引き込まれてしまった人間がいたとしたら、一体どうなるのか? 透には考えることすら恐ろしかった。
『珍しく意見が一致したね。まあ、でもそれも当然か。アンタの嗅覚は、普通の人間より「怪物」に対して敏感だ。あのガキと同じような怪物が、アンタの中にいるんだから。』
「お前のことか?」
闇虚が自分をそんな風に卑下するのは珍しかったため、透が意外そうに聞いた。
『まあね。でも、私とあのガキじゃあ絶対的に違うところがある。』
「何が?」
『私には透、アンタがいる。』
いつになく一本気な口調で、闇虚が言った。透は何と言っていいか分からず、押し黙ってしまった。
隣の隔離室では、村川が延々としゃべり続けていた。亜唯が初めて自分の隔離室の前にやって来た時のことから、彼女がどれほど悲惨な身の上であるか、彼女がどれほど自分に優しく接してくれたかなど、透が聞いているかどうかなどお構いなしに、彼はマシンガンのように捲し立てた。最も、透の耳はもう、村川の声を無視できる雑音と認識するレベルに達しており、彼の声は苦にならなくなっていた。
『あのガキはここのアイドルみたいだね。』
茶化すように闇虚が言った。
「笑えねぇよ。」
透は村川に声もかけずそのまま目を閉じると、静かに眠りに落ちていった。
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