第6話 箱庭遊戯⑤

 午前中の診療を終えた真壁は、診察室の椅子に腰かけたまま一息つくと、今日何度見返したか分からない透のカルテに、再び目を通した。

 朝方の騒ぎ自体はすぐに収まったものの、入院患者の中には不安を覚えた者が何人かおり、苦情を言う者もあれば、転院を申し出る者もいて、真壁はその対応にも時間を割かれることとなった。結果として彼は、本来の午前中の診療時間を大幅に超過して、昼休みへと入っていた。

「まあ、いずれにせよ、もうすぐ終わりかな……」

 透のカルテを捲りながら、真壁は誰に言う訳でもなく呟いた。そう、もうすぐ終わりなのだ。透の処置に関しては、もう一つの厄介ごとと一緒に、間もなく真壁の手から離れることとなる予定である。そうなれば、この病棟もまた以前の閑静な状態に戻ることであろう。だが――

「真壁先生、すみません。警察の方が……」

 自分の胸に渦巻く何とも言えぬ感情を解きほぐせず悶々としていた真壁に、その様子に気付くこともなく、看護師が声をかけた。

「ああ、お通しして。」

 若干うんざりしたような口調で、真壁が返した。自分の時間を邪魔されたことに対する軽い憤りだけでない。彼は、もう何度目になるかも分からない、あの山形とかいう刑事とのやり取りに完全に辟易していたのだ。

 診察室に通された山形は真壁に軽く挨拶すると、早速用件を切り出した。即ち、透を刑事事件の被告人として起訴したいので、精神科医としての所見をいただきたい、とのことであった。

「その件に関しましては、先に診断書も提出しておりますし、刑事さんご本人にも申し上げた通りです。道下さんは極めて重篤な精神疾患を患っており、訴訟に耐えうるような状態ではありません。彼に必要なのは、断罪ではなく治療であるというのが、医師としての私の判断です。」

 何度目になるかも分からない、山形とのやり取り。真壁は努めて平静を装い、以前と同じ返答を繰り返した。

「奴は紛れもない凶悪犯です。起訴するにはどうしても先生の診断が必要なんです。」

 この男が必要としているのは真実ではなく、ただ単に自分にとって都合のいい言葉だけ。何度か会話を重ねていくうち、真壁にはそのことがはっきりと分かった。こういった手合いに対して、取るべき行動はただ一つであると彼は知っていた。すなわち、同じ答えを繰り返すことである。

「ですから、診断結果は先ほど申しあげたとおりです。」

 軽蔑の気持ちを隠すことなく、真壁は答えた。

「私は、精神的な疾患を理由として犯罪者が断罪を逃れるようなことはあってはならないと考えています。」

 山形は揺ぎ無い表情で、真壁に迫るように言った。

「それは刑事さんの信条ですね。それはそれで尊重すべきものかと思いますが、法の番人である以上、その手続きは法に則ったものであるべきだと思いますが。精神鑑定を行った医師の判断を覆すように強要するのは法の番人として正しい行いなんですか?」

 あくまで自分の要望を貫き通そうとする山形に対し、真壁は皮肉で返した。

「あの男は2件の殺人未遂と1件の殺人を行った凶悪な犯罪者です。そんな人間を庇うんですか?」

「言葉を返すようですが、最初の2件の殺人未遂は正当防衛が十分成立する案件のように思いますし、最後の殺人も事故である可能性を否定できない。道下さんが『警察に追いかけられ錯乱して海に飛び込んだ』と主張されたらどうなさるんですか?」

「私が悪いとでもいうんですか⁉」

 まるで自分に非があるかのように言う真壁に対し、山形は気色ばんだ。真壁はそれには答えず、ただ沈黙で返した。

「……先生個人はどう思うんですか? 医者ではなく人間として、あの男が許せますか?」

 埒が明かないと思ったのか、山形は別の方向から真壁を攻めることにした。

「私個人として、ですか。では率直に申し上げましょう。私は彼を、司法の場も含めて、衆目に晒される場所に置くべきではないと考えています。彼のような人間は――周りの人間を感化してしまう危険性がある。」

 自分もその一人である、ということを悟られぬように、真壁はじっと山形の目を見据えるようにして答えた。

「感化、ですか?」

 真壁の言わんとしていることが理解できず、山形は思わず聞き返した。

「ええ、そうです。彼のような人格異常を極めた人間は、常識の枠から外れた存在であるが故に、人々の心に恐怖を植え付け、時に魅了してしまう危険性がある。失礼ながら刑事さん、貴方もその一人であるように、私には思えます。」

「私が?」

 いよいよもって分からない、といった様子で、山形はさらに聞き返した。

「ええ。私個人の感想ですが、貴方はあの道下さんに少々執着しすぎているように見受けられます。率直に申し上げて、私は貴方が彼に感化され、魅了されているのではないかと危惧しています。」

 山形は、無言になった。表情が強張り、次第にそこには、怒り、困惑、羞恥など様々な感情がないまぜに湛えられていった。

「山形さんは道下さんの起訴にご執心のようですが、それは警察として統一された方針なのでしょうか? ひょっとして、山形さん個人が一人で突っ走っているだけではないですか? もしそうだとすれば、それは危険な兆候であると思います。貴方は彼に執着するあまり、正常な判断を……」

「申し訳ございません。今日はこれで失礼します。」

 これ以上は耐えられない、とばかりに山形は席を立ち、怒気のこもった足取りで、そのまま診察室を出て行った。

 真壁は溜息をつくと、再び透のカルテに目を落とした。先ほど、山形に話したのは、本当に偽らざる、真壁自身の本音であった。道下透は、他人を感化し、深淵に引きずり込みかねない危険な人間であることは、精神科医の直感で分かっていた。そして、他ならぬ自分自身も、その深淵に引きずり込まれかけていることも――

「忘れよう。そう、忘れるべきだ。」

 真壁は、自分に言い聞かせるように独り言ちた。そう、忘れるべきなのだ。透の処置は、もうすぐ自分とは別の人間、文字通り、住む世界すら違う人間に託されるのだから――


 山形は、怒気のこもった足取りで病院内の廊下を歩いていた。とにかく、先程の真壁との会話は、彼にとって不快の度が過ぎた。

 あなたは、道下透の魅力に取り憑かれ、執着しているのではないか。

 真壁の言葉が、再び山形の脳内に木霊する。見当外れな世迷いごとだ、と一蹴したかったが、山形の心の奥底には、同時に明らかな動揺が生じていた。

 実際のところ透の起訴については、山形個人が頑強に主張しているだけで、検察は慎重な姿勢を崩しておらず、警察内部でも消極的な見方が大勢であったからだ。山形は、その点に関しては真壁に図星を当てられていた。そのことが彼のやり場のない怒りを惹起し、極めて感情的な態度に駆り立てたのだ。

「……馬鹿馬鹿しい。道下透は凶悪な犯罪者だ。だから起訴まで持ち込む。それだけのことだ。」

 自分に言い聞かせるようにそう言うと、山形は外来患者で込み合う総合待合室を足早に通り過ぎようとした。さっさと自分の車に戻って一服して、乱れた気分を落ち着けたかったからだ。

 その時、山形は自分の方を見る視線に気づいた。

 外来患者が行き交う総合待合室の向こう側、大勢の患者やその家族が座っている椅子の列を挟んで、ちょうど山形と反対の位置に、外国人と思われる青年が立っていた。金髪の縮れ毛の奥に光る灰色の瞳が、10m以上離れた位置にいる山形にも分かるほど、強く、冷たく、山形を見据えていた。

「……?」

 得体の知れない悪寒を感じた山形は、その場に立ち尽くした。

「あの、すみません。」

 山形の背後から、車椅子の患者が申し訳なさそうに声をかけた。立ち尽くす彼の身体が、通路を塞ぐような形になっていたからだ。

「ああ、すみません。」

 山形は慌てて道を開けた。そしてすぐ、視線を先ほどの外国人青年に戻そうとしたが、既にその時、青年の姿は消えていた。周囲を見渡してみたが、影すらも見えなかった。

「何だったんだ……」

 外国人の患者など、今のご時勢では珍しくもない。だが、先程の青年が山形を見る視線は、明らかに異様であった。

 釈然としないものを感じながら、山形は病院を出た。

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