第5話 箱庭遊戯④
二日酔いのような状態で、透は目を覚ました。重い首を何とか動かし、自分の身体を見やると、拘束衣は既に外され、取り敢えず身体だけは自由に動ける状態になっていた。恐らく眠っているうちに、看護師の人たちがそっと外してくれたのだろう。
透は上体をもたげると、まだ重い頭を片手で支えながら、周りを見た。鉄格子の窓から射し込む光の傾きを見るに、どうやら5~6時間は眠り続けていたらしい。
透は特に何の感慨も無く、再びベッドに倒れ込んだ。昼食は扉の配膳口にまだ残っていたが、口にする気分にはならなかった。
これは、本当に現実なのだろうか。現実逃避でも何でもなく、透は純粋にそんな疑問を感じた。こんな監獄のような場所にいる自分というのが、透にはどうしても受け入れ難かった。全て自分の夢なのではないか、ひょっとして今も自分はあの懐かしいアパートの自室にいて、闇虚と一緒に益体の無い妄想に耽っているだけではないのだろうか。透はそんな感覚が拭い切れずにいた。
だが――この肌に感じる不自然なまでに乾いたベッドのシーツと、頭の中にまだ残る薬の残渣が、透を現実の感覚へと引き戻した。『都合のいいことばっかり考えてんじゃねーよ、お前。』。朝方闇虚に言われた言葉が、頭の中に鳴り響き、透の心をさらに、現実の方向へと押しやった。
「これが現実、か……」
ぼんやりと、透は誰に言う訳でもなく呟いた。
「お隣さん?」
突然、扉の鉄格子の外から声をかけられ、透は今度こそ完全に現実に引き戻された。
「お隣さんどうも隣の部屋の村川と言います」
突然のことに驚いた透が返事に窮していると、声の主は勝手に名乗りを上げた。どうやら、透の隣の隔離室から声をかけているらしい。
「あ、ああ、ええ。」
何と言ってよいのか分からない透は、生返事を返した。
「お名前何と言うんですか」
「えっと、道下と言います。」
顔も見えず、素性も知れない相手が、鉄格子の向こうから自分の名前を聞いてくるという状況は、率直に言って気味が悪かったが、透は取り敢えず自分の名字だけは答えた。
「どうも道下さんご挨拶が遅れてすみません村川と言いますいつかきちんとご挨拶しなければいけないと思ったんですがこんなに遅くなってしまってどうもすみません僕ちょっと人見知りなもんで知らない人にはうまく話しかけられないんですすみません」
村川と名乗る隣人は、息継ぎというものを知らないのかと思うほど一気に、しかも平坦で抑揚のない口調で喋り続けた。
「ああ、どうも。」
変なのに絡まれちゃったな、と思いながら、透は適当に返した。
「すみません本当にすみません僕寂しがり屋で話す人がいないと本当に寂しくて不安になって仕方がなくなるんですどうもすみません」
透はどう対応すればよいのか分からなかったので、取り敢えず、相手が喋るのに任せた。闇虚の方は興味すらないのか『無視して寝よう。頭痛が酷くなりそう。』と言って心の底に引っ込んでしまった。
「道下さんが来てくれて本当にほっとしました端っこの人はいくら声をかけても返事すらしてくれないので」
「端の部屋は、空室じゃないんですか?」
村川の口から出た意外な事実に、透は少し驚いた。隔離室は、通路沿いに3部屋あり、透は中央の部屋に入れられていた。村川が入れられている右隣の部屋からは不規則な生活音がするため、入居者がいることは透も以前から知っていたのだが、もう一方の部屋からは物音ひとつしないため、透はそこが空室だとずっと思い込んでいた。
「いますいるんですただもうずっとベッドに拘束されてずっと眠っているんでお話も何も出来ないんです」
村川が透に話したことを要約すると、以下のような事情であった。
透の左隣の部屋に隔離されているのは立花という人物であった。立花は将来を有望視される個人実業家であったが、事業に失敗し、それが原因で一家無理心中を図った。だが彼は、自分一人だけ息を吹き返してしまい、それ以降、ただひたすら自殺未遂を繰り返すようになってしまった。警察は訴追を諦め、結果として立花は、この病院に強制入院させられることとなったのだ。目を覚ますと、手当たり次第に暴れまわって自殺を試みるため、ずっと薬で眠らされ、ベッドに拘束されているのだという。
「変な話ですよねおかしい話ですよね立花さんは死にたがっているのに病院はそれを許さないそして立花さんはただ死ぬのを待つだけのためにここに入れられている死なせないために拘束して死なせるために拘束しているこんなの変ですよねおかしいですよね」
そんなことを自分に話してどうするんだ、と呆れながらも、透は何となく村川の話を最後まで聞いてしまった。
「ひどい話ですね。ああ、でもすみません。薬がまだ残っていて頭痛が酷いんで、少し眠ります。」
闇虚の言う通り、無視して眠った方がよさそうだと判断した透は、なるべく穏便に会話を断ち切った。実際、村川の様子ではこんな感じの話を延々と聞かされかねない雰囲気であった。もしそうなったら、本当に頭痛が悪化してしまいそうだ。
「おやすみなさいお隣さん」
残念そうな様子で村川が答えたが、透の耳にはもう届いていなかった。
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