第4話 箱庭遊戯③

「おはようございます、道下さん。体調の方はいかがですか。」

 目の前の椅子に腰かけた老齢の医師、この病院における透の主治医である真壁久則が、いつものように決まりきった問診を始めた。

「普通です。特に変わったところはありません。」

 透はうんざりした様子を隠そうともせず答えた。問診という名目で毎日毎日決まりきったことを聞かれるルーチンワークに、正直なところ透は完全に辟易していた。大体、拘束衣を着せられた挙句、下半身を固定されている相手に対し「体調はいかがですか」はないだろう。なんて無神経な医者だ、と、透は心の中で毒づいた。

「そうですか。大分落ち着いてきたようでよかったです。」

 透の内心の怒りに気付いているのかいないのか、真壁は淡々と続けた。

「こちらに措置入院となってから約1週間となりますが、道下さんは他の患者さんに比べても大分安定しているように見受けられます。」

 真壁の言葉の半分程度も、透は聞いていなかった。この男の話を聞き続けたところで、状況は好転などしない、ということがこの1週間で嫌というほど分かったからだ。患者を傷つけず、医者として間違いを犯さず、定められた方法で、定められた治療を施す。要するに、一山いくらの凡庸な医者であった。透の精神的な問題を解決できそうな見込みは、万に一つもありそうになかった。

 透はふと、真壁の後ろに座る高崎の姿を見た。高崎は、足を組んだまま傲然と椅子に座り、カルテを挟み込んだバインダーを左手に持ちながら、右手でペンを回していた。よく見ると、バインダーで隠しながらスマホを弄っているのがちらりと見えた。透の問診になど何の興味も無いのが明らかであった。

 真壁は、そんな高崎の様子に全く気付くことも無く、話を続けている。透はそのコントのような光景に苦笑した。

「実際のところ、いかがですか? 抑えられないような怒りとか、憎しみとか、そんな感情が爆発しそうな時とかはありますか?」

 透の苦笑を、自分の言葉に対する嬉しさによるものとでも勘違いしたのか、真壁はいつもより一歩踏み込んだ質問をぶつけてきた。

「ないですね。今は怒りも憎しみも湧きません。あるのはただ、絶望だけです。」

 透は淡々と、率直な想いを答えた。

「絶望、ですか。」

 真壁は、若干緊張した面持ちで、言葉を続けた。

「それは、どのような?」

「監獄にいる囚人と同じじゃないですか、今の俺は。」

 真壁はその言葉を聞くと、明らかに慎重に、言葉を選んでいる様子で答えた。

「まずご説明しなければならないのは、道下さんがここにいるのは、治療のためであるということです。貴方は罪を犯し、人を傷つけましたが、それは病気によるところが極めて大きい。我々は貴方を断罪するのではなく、貴方の病気を治癒するために、ここにいるのです。いろいろと不自由なこともあるかと思いますが、その点だけは、どうかご理解いただきたい。」

 それでやることが、毎日毎日同じような質問を繰り返す無意味な診療を続けることなのか? と透は聞き返したかったが、水掛け論になるのは明らかなので、黙っていた。

「それで、その治療という点に関してですが……道下さんの頭の中にいるというもう一つの人格――闇虚さんでしたか。その人と、お話しすることはできますか?」

 透の表情を窺うように、真壁が聞いた。

「話してどうするんです?」

「お話を聞く限り、その闇虚さんというのは、道下さん自身が抑圧している負の感情が表出したものと考えられます。そうであるならば、精神療法の一種として人格の統合を行うという治療法があります。そのためには、闇虚さんとのコミュニケーションを……」

「意味ないと思います、それ。」

 透は面倒臭そうに、会話を断ち切った。

「意味ない、とは……」

「先生は誤解しています。俺と闇虚は多重人格とか、そういうものじゃない。どっちも俺なんです。道下透を演じるか、闇虚を演じるか、それだけの違いでしかない。だから統合も治療もできないというか、意味ないんです。これが、俺なんだから。」

 無論、透も自分の言っていることがすべて正しいという確証はない。闇虚が一体どういう存在なのかは、透自身にもはっきりとは分からない。だが少なくとも、目の前にいるしょぼくれた医者よりは、自分自身についての理解は深いという自負が、透にはあった。

「なるほど。道下さんの理解としては、そういうことなんですね。しかし、精神医学の知見としては……」

 食い下がる真壁に対し、透は首を横に振った。

「意味ないですよ。だって先生は、今もう既に間違えている。」

「は?」

『今この場で診断ミスをしてるって言ってんだよ、ジジイ。』

 透の突然の豹変に、その場にいた全員が凍り付いた。

「き、君は……」

『アンタが話したがっていた相手、闇虚だよ。最初からね。』

「最初から……?」

 真壁は、闇虚の言葉の意味が分からず、絶句した。

『分かんない? アンタは最初から透じゃなくて私と話をしていたんだよ。そんなことにも気づかず治療だのなんだの……』

 くくくっ、と、闇虚は不気味な含み笑いを漏らした。

『ねえ先生。癌と正常な細胞を見分けられない医者が、癌を治療できると思う? 無理だよねぇ。ハハハ! そう、アンタのこと! ヤブ医者野郎!』

 拘束されているストレッチャーが浮き上がるほどの勢いで、闇虚の身体が跳ね上がり、真壁に食らいつく勢いで上体を捻じ曲げた。

「いけない! すぐに隔離室に移して!」

 背後で見守っていた複数人の看護師と医師が、暴れる闇虚の身体を必死で押さえつけ、急いでストレッチャーを診察室の外へ移動させ、隔離室へと向かっていった。

 患者や他の医療従事者が、不安げな面持ちでその様子を見守った。

『私の治療よりも先にテメエが小学生からやり直しな! ヤブ医者!』

 闇虚の口汚い罵倒が、病棟全体に響き渡った。真壁は、顔面蒼白のまま診察室に立ち尽くした。

「ったく、気色悪い野郎だな!」

 暴れる闇虚を隔離室のベッドに放り捨てるように降ろすと、高崎が悪態づいた。

「高崎先生、患者さんの前でそのような言動は控えてください。」

 暴れまわる闇虚を必死で押さえつけ、他の医師や看護師と一緒にベルトでベッドに拘束しながら、年配の看護師の一人が高崎に苦言を呈した。

「あぁ? テメエ誰にモノ言ってんだ!」

 倍くらいは年が離れていると思われる看護師に対し、高崎は最低限の礼儀すらない返事を返した。

「そのような口調で話すのは止めてください。患者さんも、周りの人たちも不快な気分になります。」

 恫喝するような口調の高崎にも全く臆せず、看護師が咎めるような口調で言った。

「どうせローテーションで回ってるだけだし、来月には別の所に行くからアンタらにどう思われようが関係ねーよ。」

 捨て台詞を吐き捨てると、高崎は他の者を残し、さっさと隔離室から出て行ってしまった。

 呆れたように溜息をつく看護師に、周りにいた高崎と同年代ほどの医師が「すみません」と代わりに詫びた。

「やっぱり研修医の中には毎年一人か二人、あんな感じの人がいますね。」

 年配の看護師は特に気にした様子もなくそう言うと、他の医師や看護師を労い、薬を注射した闇虚が落ち着いたのを確認すると、そっと隔離室を後にした。

「なんだ、あの高崎って奴、まだ研修医だったのか。それにしてはずいぶんとデカい態度だったな。」

 薬を注射され、ぼんやりとした状態になった透は、頭の中で呟いた。

『あのクソ野郎。私を放り投げやがって、許さない……』

 頭の中では、いまだ怒りと興奮が収まらないのか、闇虚が猛り狂っていた。

「ああ、でもナイスアシストだったぞ。あそこでお前が出てこなかったら、俺の方が逆上していたかもしれない。」

『別に。私はただあのジジイをからかってみたくなっただけ。』

「でも助かったよ、ありがとう。」

 闇虚は透の言葉に対し何か言いかけたが、薬が頭にまで完全に回ったのか、それは言葉にはならなかった。

 透と闇虚の二人は、深い微睡みの中へと、落ちていった。

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