紫の帳の海と天蓋付きベット、理想の中の苦悩、新人教師奮闘記

 夕食を食べ、自室に帰ると―玄関でミケツさんが待ち構えている。

「おう、いおっちゃん!例のブツは?」いや、開口かいこう一番それかいな。ま、さっき久井ひさいさんから黒豚のスペアリブ―すなわち骨付きのバラ―を受け取ったのだけど。

「それ、セットから少ししか取れんから貴重品やで?」と久井さんは言っていた。ま、お値段はそこそこだったけど。

 自室のキッチンに行き、あばら骨の間にそって切られたスペアリブをフライパンで焼く。特に味付けはしない。犬が食べるから。本当はトマト缶にニンニクを加え、キャベツと玉ねぎと一緒に煮込むとすごく美味いらしい。

「ひゅ~う。ワイルドな香りがするぜぇ…」ミケツさんのテンションは明後日アサッテの方に向かいだしている。

「貴重品なんだ、味わってちょーだい」と僕は釘を刺しておく。

「わーってらい!骨までしゃぶりつくしたらあ!!」前、フライドチキンの骨に文句言ってた癖に。

「そろそろひっくり返すか…」菜箸さいばしでフライパンの中のスペアリブをひっくり返す。

「そー言えば」とヨダレダラダラスタンバイなミケツさんは言う。

「ん?どうした?」

「いや…行ったんだろ?あの引きこもり女の実家によお」

「まあねー」

「どうなんさ?」

「んー?まあ、背景は知れたさ、でも本人の話じゃないから何とも」

「ま、何も知れんよかマシか…なあ、もういいんじゃね?」

「はいはい…」

 犬皿いぬざらに盛られた骨付きバラをしゃぶるミケツさん。少し食べづらいかな?と思っていたけど杞憂きゆうだったらしい。もの凄い顔でらってる。あまり人にはお見せ出来ない感じだ。

「フングルォォォ…ング…やっぱ肉は骨の周りが超美味いな?」

「そうかい、そりゃ重畳ちょうじょう

「なんだあ?俺のスペアリブが羨ましいのかあ?あ~ん?」絡み方がオヤジそのもので失笑してしまう。

「いやさ、僕らは彼女を救えない、でも、どうにかしたい、どうしよっかなって」と僕は先程まで考えていた事を言う。

「ま、自分で気が付くかどうか、だな?」案外に察しの良いミケツさん。

「そ、きっかけは与えられるさ。でもねえ…あんだけ強固にこもられたら何ともしがたい」

「土足で踏み込むしかねーって。遠慮なんてしてみろ、向こうの思うツボだっちゅうに」

「向こうの…ねえ。神様の?」

「と。その嬢ちゃんだな…特に意識が無いとしても無意識に俺らを拒絶しているんじゃね?分からんが」

「の、割には家の鍵開けたりするんだけど?」そう、彼女は鍵を自ら開けた。

「たまーに意識が水面に上がって来てんのかも…ング」むしり取った肉片をみつつミケツさんは言う。

「喉に詰まらせないでよ?ま、地道に行くっきゃない訳ね…悪いけど付き合ってもらうよ?」と僕は次の骨の肉をむしりつつあるミケツさんに言う。

「あ~ん?そら牛ロース食うまではやるさ。仕事は最後まで…ミケツ流の仕事術だ」

「何を大層な」と僕はツッコミを入れたのだった。


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 後日。東郷とうごう駅から団地に向かった長田おさださんと僕と、柴犬一行。例のインターフォン越しの遣り取りを経て、またもや鍵が開き、結果として―


 あの海に飛ばされてきた。でも、今回ははぐれはしない。ミケツさんが結界を張ったからだ。


「ミケツ・フィールド、展、開ィ!!」と柴犬は格好かっこつけていた。恐らく久井さんとあの名作を見たのだろう。扉の間からあふれだした海水は結界にはばまれる。僕と長田さんとミケツさんの周囲を円形のフィールドがおおっている。海水は結界のふちで2つに割れる。

「ミケツさん?」僕は結界を張るため踏ん張っている柴犬に言う。

「ああん?」海水を受け流すミケツさんはこたえる。

「それ、何分くらいもちそう?」この海水が引けるのは恐らく数分かかる。

「3分」某ヒーローみたいだ。

「うん…それ以上かかるよ?この海水がひけるの」と長田さんは言う。

「マジで?」いや、見切り発進かよ。

「大マジ…僕らは経験あるから…」

「先に言えよなあ」とあきれるミケツさん。

「で?どうすんのさ?」僕は問いかける。

「ん?んーと…どうしよ?」こういう時だけ可愛い声だすの止めろ。

「馬鹿!!また―前みたいになったら手間でしょうが!!」いや、助けてもらってる最中に不満を言うのもなんだけど。

「しゃあねえのう…何かにけっか?」狐と柴犬以外の姿に成れるのかい?

「機械はイケる?」僕はいてみる。潜水艦とかちょうどいい気がする。

「俺が知ってるものなら…な」とミケツさんは言う。らん事ばかり覚える彼は潜水艦をご存じないらしい。長田さんはスマホを操作しだす。ネットの検索エンジンの画像検索をしているのだろう…

「…コレ、ミケツさん!!」長田さんはミケツさんにスマホの画面を見せている。

「こりゃあ…うん、まあ頑張るからお前ら目ぇつぶらんかい」とミケツさん。僕は長田さんの示したスマホの画面を見たのだが―第二次世界大戦時のものだった…と思う。あまり詳しくないから分からんけど。


 ミケツさんは―変身の為に一瞬、結界を解く、そして―水中なのに、あの気の抜けたファンファーレが鳴り響き―少しくぐもった音だった―気が付けば―潜水艦の内部に居た。

 ただまあ。長田さんが見せたのは潜水艦の外部からの絵であって、内部の画像は無かった。だからミケツさんの想像した内部構造な訳だけど。何だかロボットアニメの影響受け過ぎだろう…スピーカーから電子音声っぽいミケツさんの声が聞えてくる。

「とりあえず―なんらかの反応がある方向までお前らを連れていく!!飛ばすからどっか掴んどけ!!」

「へいへい…」僕はここまでくると状況を受け入れてしまう。文句を言っても始まらないのだ。


 そして。

 あの懐かしくさえある、濃い紫のとばりおおわれた海に、三人で到着。ミケツさんはついた瞬間変身を解いたのだけど―その際、やらかした。

 ここからは汚い描写をさせてもらう。

 僕らは潜水艦の尻―後ろの方―からひねり出された。変な体液が着かなかったのはまあ上出来だけど、もっと普通な出し方をしていただきたく。

「あのさあ…ひり出しぐせ発揮はっきせんで良いから」突っ込む、海に放り出されたばかりの僕。

「しゃーなし…」とミケツさんはしゅるしゅる縮み、柴犬になる。犬かきで海に浮かんでいる。

「いやあ…この話誰かにしたいよ…」と僕と同じ目に遭った長田さんが呑気のんきに言う。

「いや、ダメっす」と僕は言う。

「いい笑い話じゃない」いや、そこそこ危険な目にってたんだけど。

「ま、ミッション開始ですわ…あのクラシックな天蓋てんがいベット探しますよ…ミケツさん、あの船、また出してもらえる?」

犬遣イヌづかい荒過ぎん?」と不満そうなミケツさん。

「牛ロース…和牛でもいいよ?」と長田さんは報酬ほうしゅうを吊り上げる。

「ん…まあ、しゃあない…ちょい待ち…」ミケツさんは犬かきをしながら気張りだす。


 そして数分後。あの航海セット―今回は少し大きな船―に乗り込んだ我々は海原に漕ぎだすのであった。


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 あのベットは程なく見つかる―またもや黒いカーテンに閉ざされ、中はうかがえない。

「さって…あのベットどうしよ…」また浅慮せんりょでカーテンを開くと―この世界が崩壊しかねない。

「とりあえず、揺らすとか?」と長田さん。僕と同じで開けてはいけない、と思っているらしい。

「それとも―俺が鳴いたろか?」とミケツさん。

「それで向こうがカーテンを開けるかなあ」と僕は言う。

「どうだろうな?意識があるんか無いんか分からんよなあ、半神はんしん半人はんじんの嬢ちゃんは」

「それにさ」僕は言う。

「ん?」

「相手の伝説にはご不言いわず様がある…言葉は期待できないような」あくまで想定の話だけど。

「言われてみればそうだねえ…」と長田さんも言う。

「言葉がなくてもコミュニケーションは出来んだろ」とミケツさんは言う。

「何?僕が手紙でも書いて中に差し込むかい?」と言っても紙なんかないぜ?

「一応…僕のカバンの中に紙はあるよ?」長田さんは言う。

「それか―モールス信号みたいにベット揺らすか?トン・ツーのリズムで」ミケツさんは言う。

「僕、モールス信号はSOSしか知らないよ?」大体、モールス信号をかいする人間がいくら居るか。

「ま、何となく方針固まったんじゃねェか?」ミケツさんは議題を統括とうかつしだす。

「全部試すしかない…って事かい?」と長田さんは言う。

「みたいっすね…ま、しゃあなし」と僕は諦めて言う。


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美和みわ先生が私に優しくしてくれるのは―仕事だからでしょう?」


 目の前の女生徒は冷たく言い放つ。この時期の女の子はある種の刺々しさがある、と知らないあたしではないけど、この言葉は胸に刺さる。

「そういう訳じゃ―」とあたしは言いかける。嘘で誤魔化ごまかそうとしたのだ。

「嘘つき」その言葉に最も響く返答。あたしはどうしようもなくて―ただ、てのひらを握りしめるだけだった。


 あたしは学生時代、お世話になった恩師おんしのようになりたくて―この職業を選んだ。抵抗がなかった訳じゃない。あたしの両親はこの仕事をまっとうしていく上で、あたしの事をほとんどかえりみなかったばかりではなく、イジめられ、引きこもりになりつつあったあたしに、

「自分でどうにかしなさい…そのままでは死が待つのみだ…甘えるな」と言い放ったから。


 教師になったのはある種の復讐ふくしゅうだったのかも知れない。

 両親達とは違う教師像を追い求めることで、両親たちの在り方を否定したかったのかも知れない。

 若者の特権は理想を追い求める事である。誰かはこう言う。若いあたしはその言葉を十分吟味ぎんみしないで、ただ、表面上をなぞり、実行した。

 しかし、理想というモノは―滅多に成就じょうじゅしない。だからこそ理想なのだ。

 それに気が付いたのは―あたしの受け持った学級が崩壊して、そのリカバリーに邁進まいしんしている時だった。


 30数名の小社会のほころび。それが大きな渦になったのは必然だったのか、偶然だったのか?神ではないあたしには計り知れない事だ。

 風が吹けば桶屋が儲かる。こんな言葉がある。そしてそれはバタフライ・エフェクトの説明でよく使われる。小さな現象が現実に放たれ、それが結果として大きな現象を引き起こす事のたとえ。ブラジルで蝶が羽ばたくと、テキサスで竜巻が起こるか?という講演のタイトルが語源だったと記憶している。

 まあ、あたしが目の前にしているのはそんな大層な話ではない…ただ―クラスでの不和ふわが雪だま式に膨れ上がっただけに過ぎない。

 この時期の子ども達は、不安定だ、それは誰もが知るところ。大学時代に発達心理学の講義を受けていたあたしは知識としても知っている。

 人はコミュニティを作る動物。これは何歳になっても変わらない。思春期真っただ中の彼らだって、友達や部活仲間、クラスの級友といった形でコミュニティを作る。

 ただ、彼らはまだ、発展途上であり、大人ほど器用ではない。大人だってコミュニティの中で失敗したりするが、この年の場合はそれがクリティカルに響く。そして、それが原因で学校に行きづらくなる子も居る。かつてのあたしも経験した事。


 あたしのクラスの女の子が、誰かに好かれ、それをフッた、と言うのが事の始まり。

 よくある青春話としてカタがつくだろう、と楽観視していた過去のあたしをぶん殴りたい。

 彼女が好かれたのは学年でも人気のある文武両道ぶんぶりょうどう容姿端麗ようしたんれい、何処の少女漫画のキャラクターだよ、ってツッコミたくなるような男子生徒だった。

 この時期の告白やそれに付随ふずいする諸々もろもろは―同学年の人間の注視する中行われる事が多い。野次馬というヤツだ。暇なんだなあ、とあたしは呆れたもんだけど、ま、珍しい話なんだろう、彼らにとっては。

 ただまあ。

 彼女がフった相手は学年の王子サマみたいな子で。周りに多大な影響を与えるのは必然だったのかも知れない。



 女の嫉妬は恐ろしい。

 同性のアレコレを生涯見てきたあたしはそれを十全じゅうぜんに理解してたはずなのに。

 どうして―あのカタストロフィを止められなかったのだろう?

 みるみる内に事は起こった。


「あの子、―君フったんだよ…何様なの?」

「―は調子に乗ってるよね」

「―って可愛い?私はそう思わないけど」

「美人気取りだよ…あの女…」


 当の本人はあまり気にしてないようだった。ある種、マイペースな彼女は周りからの言葉を聞き流しながら学校生活を送っていた。

 それがうまくいかなくなったのは―

「―さ、ウザいからさ。ウチらでシめようよ…」という話からだったようだ。学年の王子サマファンクラブ会員たちの暴走。もしくは同性の嫉妬。

 シめる―なんて言っても、それは数名で取り囲み、なじるだけだったらどれだけ平和な話だっただろう。


 あたしの想定は大抵斜め上に超えられていく。リスクの想定が甘いのだ。

 その吊し上げは、ファンクラブ会員のみならず、面白半分で野次馬に来ていた男子を巻き込んだ大きなものになった。


「―さあ…うざいんだけど」

「クールぶんなよ」

「話聞こえてますかあ?」

「喋れよ!―」

 はやし立てる少年少女。そこに原始性を見るのはあたしが大人だからだろうか。


「…何がしたいの?」と彼女は言い放ったらしい。


「さあね?貴女あなたいつくばる姿でも見たいのかも」

「謝んなよ、―君に」

「面白いから土下座してくれ、―よお」

 少年少女はウズウズしていたらしい。


貴方あなた達は子どもね、つくづく下らない」言い捨てる少女。こんな言葉、吐かない方がマシなのだけど、彼女もまた感情に押し流されたのかも知れない。

「聞いた―今の言葉?」スクールカースト上位の女の子が集まる少年少女に言い放つ。

「俺らの事、馬鹿にしてるわ。コイツ」スクールカースト上位の女の子の腰巾着の男の子が同意する。


 そうして。

 気が付けば、その吊るしあげの会場になった教室は―狂乱した。

 最初はキャットファイトだったらしい。スクールカースト上位の女の子VSクールな彼女。

 周りは格闘技の観戦みたいな雰囲気だったらしい。

あたしが事態を把握した時、教室は訳が分からない状態になっていた。

「アンタ達、何してんの!!」一生懸命いっしょうけんめい声を張り上げる。だが、生徒達には聞こえてないらしい。とりあえず―生徒たちが集まった団子だんごみたいな人の輪にあたしは割り込んでいく。

 目に入ったのは数多の生徒にもみくちゃにされたクールな彼女。

「止めて!!こんな事をするのは!!」怒鳴る。普段怒鳴どなり慣れていないせいか声が裏返る。

「げっ、美和が来た」誰かが言う。いや、気付きなさいよ、こんな事してたら誰かしらは来るって事を。

「とりあえず―全員、整列!!」あたしは言う。生徒たちは素直に教室の端の方に横二列に並ぶ。

「で?なんでこんな事になったの?」あたしは問う。返事は―ない。

「黙ってるつもり?」あたしは圧をかける。

「いや…―が悪いんだって」男子生徒の調子のいい生徒が言い訳を始める。

「―が悪かったとしても、大勢で囲んで糾弾きゅうだんする権利なんて無い!!」あたしは声を張り上げる。


「正義ヅラすんなよ」誰が言った言葉だったか。あたしは正確に覚えていない。

「だよなあ。何も知らん癖に」

「うっぜーわ、美和」

クソ無能が何しに来たんだ?学年主任でも呼んで来いっての」

「ね。何がしたいの?あの女」

 吹き出す生徒の不平。あたしが普段から頼りないのが悪いのか?

「別に正義ぶるつもりはないけど…この事態をく義務がある…教師だから」とあたしは生徒たちに言う。

「別に何でもありませーん。―が調子こいてるのが悪いんですわ」

「そうそう。ハイ、この話終わりーみんな解散~」

「待ちなさい!!」生徒たちは教室から逃げていく―誰も待ってはくれなかった。残ったのはあたしと、かの少女だけ。


「―さん?」あたしは手を差し伸べながら彼女に声をかける。

「はい?」何でもなかったかのように立ち上がる彼女。あたしの手は拒絶された。

「何があったの?」せめて。話を引き出そうとする。

「何も」冷たく言い放つ彼女。

「じゃあ―なんでこんな事になるまで静観してたの?」彼女はボロボロだ。殴られたりはしてないけど、埃塗ほこりまみれにはなっている。

「あたしじゃ話にくいの?別の先生呼ぶ?」保険。主任に任せて話を引き出し、あたしが解決する。

「良いんです、放っておいて下さい」クールな彼女は語気を平静にしたまま言う。

「それは―無理だ。あたしは君らの担任だから」あたしは言う。それがあたしのすべき事。

「だから何なの?こんな事になるまで静観せいかんしてたのは貴女じゃない!!」ついに彼女が語気を強くする。

「ゴメン…見通しが甘かった。それは認める」本当は認めるべきじゃ無いけど。聡明そうめいな彼女は誤魔化ごまかしに気づくだろう。

「ほんと、使えない女」彼女は言い捨てる。その言葉は―かつての私に母が言った事にそっくりで。思わずフリーズしてしまう。

「何?言い返せないんですか?美和セ・ン・セ・イ」彼女は侮蔑ぶべつ交じりの言葉をぶつける。

「…絶対に―何とかしてみせる」去りゆく彼女の背中にこういうのが精一杯だった…


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「君のクラス―荒れてるらしいね?」学年主任があたしに聞く。

「見通しが甘かったみたいです…」言い訳。コレには意味がない。ただ、言葉にしただけ。

「ま、君は新人だから、こういう事もある。職員会議の議題にするし、我々で何とかして行こう」上司としての暖かい言葉。これに素直におうじれるあたしならどれだけ良かっただろう。

「お願い致します―が。あたしも何らかの動きはしていくつもりです」負けん気だったのだろうか?新人だからってめられたくなかったのだろうか?

「あまり無理はなさらぬよう」主任は心配そうに言う。

「適当になんとか」意固地になるあたし。子どもみたいで情けない、今思えば。


 一度起こった事は取り返しがつかない―よく言われる言葉。あまりに世間に広まった為か、普段は誰も真剣に取らない言葉。

 賢人さかびとの言葉をおろかなあたしたちが理解するのは、事がどうしようもなくなってからだ。進退きわまった時に、賢人の言葉をふと思い出す。

「ああ。一度起きてしまった事は取り返しがつかないんだな」と。


 ほころんだ糸。それをひっ張ると、編み物はほどけてしまう。

 あたしの受け持つクラスは、不格好な手作りのセーターみたいに解けていった…

 最初の内は、気まずい雰囲気がただようだけで済んでいたが、次第に統制が利かなくなった。あたしを無能呼ばわりする生徒が増え、ホームルームが機能しなくなり、受け持つ国語の授業は荒れた。あたしのクラスだけじゃなく、他のクラスの生徒たちも授業中に騒ぎだすようになってしまった。

 あたしはそれを無視して授業をする。誰も聞いていない国語の授業を。ジャージの上に羽織った白衣。その袖口そでぐちが汗にまみれる事が増えていった。たまに怒鳴ったりしてみたけど―一度舐められた大人のいう事を聞くほど、思春期の子ども達はお利巧りこうではない。


「帰れよ、無能」

 誰かが言った言葉。こういう時は一度職員室に引っ込んでしまうのがベター。ほとぼりを冷ましてからまた教室に戻った方が良い。

 あたしは授業を切り上げ、職員室に戻っていく。

 それをはやし立てる生徒たち。頭にこない事も無いけど、こっちが冷静さを失えば、向こうの思うつぼな訳で。


「美和先生」教室から引き揚げてきたあたしに、職員室にたまたま居た主任が言う。

「―はい?」

「もう、限界なのでは?」

「あたしじゃ―どうにもできない、そう言いたいんですか?」思わず反論してしまう。

「それが事実なんです…君は時間をかけて証明してしまった…僕らのフォローが甘かったのは認めるが―君のスタンドプレーは何の結果も出していない」スタンドプレーって…あたしは何とかしようともがいていただけだ…

「投げ出せ、と?」思わず口にしてしまう。それは嫌だ。

「仕事が行き詰まったら上長じょうちょうに投げる…社会人として当然の事だよ?」優しく言いふくめる主任の言葉。でもそれを認めたらあたしは―

「あたしから…取り上げないで下さい…教師と言う道を…」ある種の懇願こんがん

「別に―君に教師を辞めろ、とは言ってない」

「そう言ってると同じです…主任の言葉は」子どもみたいな泣き言を言うあたし。

「とりあえず。今日は私たちに任せて。後…君は具合が悪そうだ…」

「別に…体調は問題ありません」嘘だ。最近の食欲不振が全身をむしばんでいる。体重が落ち、顔は目だけが爛々らんらんと光っている…無理している人間の典型みたいな顔なのだ。

「その言い訳には無理がある…一回医者にかかった方が良い。体を壊しては元も子もない」

「医者には行きましたよ…内科に。胃が痛いもんで」そう、一応医者にはかかっている。消化器はストレスに最も過敏なのだから。

「悪くとって欲しくはないが―心療内科しんりょうないかにかかるべきだ」

「別にメンタルの不調は…」はっきり言い返せないこの時点であたしは病んでいたのだ。

「メンタルに不調を持っている人間は大抵否認ひにんに走る。年長者の言葉は素直に取ってくれないか?」ある種の懇願。

「と、言いましてもね。どこも予約で一杯でしょう?」現代はストレスの時代であるからにはその手の病院は人で一杯で。

「僕の知り合いに丁度その手の医者が居る…少し待っててくれないか?電話してみる…」携帯を取り出し、電話をかける主任。

「いや…良いですから」あたしは抵抗する。

「あ。―さん?私だ…ウチの教師をそっちにやりたい…空いてるかい?ん?今なら手が空いてる…じゃ、一時間ほどで美和と言う女の子をやる…で、頼まれてくれるだろうか?」あたしは遣り取りに反論するのを止めた。疲れたからだ。この主任はあたしはもうダメだと見ている…なら話に乗り、診察を受け、問題なしのハンコを押してもらうまで納得しないだろう。


 結果。あたしは早退する羽目ハメになってしまった。ああ、これは後々に響く。担任もって一年目で潰れたのだ。もう、この市の教育委員会上でのあたしの立場はない…


 主任が用意した病院は、勤め先のすぐ近く。駅前の雑居ビルの一室に入居している心療内科。小奇麗な受付であたしはこう告げる。

「―さんの紹介で来ました美和です…」

「お待ちしておりました―まずは保険証をお願いします、後、この問診票もんしんひょうめてもらえますか?」受付の女性は柔らかく言う。

 待合室のゆったりとしたソファに腰かけ、私は問診票を見やる。それはメジャーなうつ病の評価スケール。大学時代に見たことがある。 ※1

 だから。これに嘘で答えるのは容易たやすい、が。結局この尺度を解釈するのはプロの医者だ。正直に答えない時は答えない時なりの別の方法であたしの事を測ってくるだろう。

 面倒臭くなったあたしは素直にそのスケールを埋めていく。

 睡眠、体重増減、気持ちの具合…ああ、点数が高い。完全に病んでる人の答えだ。とりあえず、書き終えた問診票を受付に提出…その後は体温と血圧を測った…のだけど。血圧がかなり高くなっている事が判明した。最近、妙に動悸どうきがすると思っていたけど―ホルモンバランスの上での事だと思っていたので意外だ。

「結構血圧高いですね…最近、しんどくないです?」受付の女性は言う。

「しんどいのは―昔からなんで」でも。どっちかと言えば低血圧気味のあたしは、高血圧のしんどさが分かってない。

「まあ…先生との診察でハッキリさせましょう…少々お待ちを」


↑ 本文、了


 ※1 うつ病の評価スケールに関して以下のサイトを参考にしました。


『BDI-Ⅱ ベック抑うつ尺度』

@和歌山カウンセリングセンター https://www.wakayama-counseling.com/

https://wakayama-counseling.com/img/file2.pdf

2022年1月29日 閲覧


『Beck Depression Inventory (BDI-II)』

@Free Test Online

https://deprese.euzona.cz/en-index.php

2022年1月29日 閲覧


『簡易抑うつ症状尺度   QIDS -J』

@厚生労働省

https://www.mhlw.go.jp/bunya/shougaihoken/kokoro/dl/02.pdf

2022年1月29日 閲覧


「臨床評価尺度 内 GRID-HAMD構造化面接ガイド(ハミルトン)」

@一般社団法人 日本臨床精神神経薬理学会

http://www.jscnp.org/scale/index.html

2022年1月29日 閲覧




















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