『他人』と『他人』、教えを乞う、蛇と蟹と女

「あれは―一体何だったんだろうね?いおり君?」応接室での事。僕と長田おさださんはテーブルの前後に置かれたソファで向き合っている。この言葉に対して僕は何と答えるべきか?正直分からない。適当な誤魔化ごまかしをするのは容易たやすい。彼も適当に合理化してみこむかも知れない。でもなあ。またあそこに向かうに当たって長田さんが何も理解してないのは厳しい。

「強いて言うなら、『現象』です…現実離れしてますけど」と僕は遠回りで話を動かし始める。

「ふたりそろって同じ光景を目にしてしまったんだ、幻覚だと言い捨てるのは乱暴だよね」と長田さんは素直に状況を受け止めている。

「それに―物理的な影響を被ってる、僕も長田さんも」そう僕はスマホを長田さんは腕時計を水没させている。

「アレ、嫁がくれたヤツでさ、ぶん殴られたよ」と長田さんは後頭部をいている。

「それは災難でしたね…で。あれは、まあそういう『場』に僕らが呼ばれてしまった…という『現象』です」

「『場』ね?という事はそれを作った何者かが居るのかな?」と長田さんは尋ねる。

「ええ。恐らくは僕らの訪問活動の相手さんです…純粋な人間じゃない可能性が―あるんですけど」ああ。言っちまった。これでイチから説明する羽目ハメになる。なんで僕はこういう時に頭が回らないんだろう?

「純粋な人間ではない?妖怪かい?」と長田さんは驚きながら言う。

「妖怪なら―塩まいときゃいいんですけどね…もっと力のある者だと思います…じゃなきゃあんな『場』を産み出せない」

「力のある者…即ち―神かい?まさか」と長田さんは目を細めながら言う。

「そんな感じです…残念ながら」

「ひぇぇ…40にしてまどわずなんて俗言ぞくげんがあるけど、僕には無理だな」

「僕だってビビってますよ…」と僕は長田さんに同意する。境界に身を置いてしまった事はあるけど、それはホームの側での事だ。ウカノカミ様はフレンドリーで慈愛じあいが深い。

「そう?僕の印象では君は以前にもそういう現象に行きったような感じ、あるけどね?」長田さんは観察力が高いらしい。いや、それとも僕が分かりやすいだけか?

「うーん?長田さん、僕の事変な子だと思ってます?」普通、そんな話題が出て来たら大抵の人は相手を変人として扱う。科学全盛のこのご時世に神だ何だと騒ぎだすヤツは詐欺師か宗教家位のものだ。

「んーまあ、そういう事もあるかもね、とは思うけどな。変人とは思わない」

「そいつはどうも…ええと。まあ、僕、以前にも同じような事はありました」

「と、言うと?幼い頃の話かい?」子ども時代のファンタジー。いや、そうじゃないのだ。

「いや、この寮に入る前後ですわ…お恥ずかしながら」と僕は否定をいれ、補足する。

「へ?もしかして、あのお父さんに会いに行った関西で?」

「モロにそれです…京都は伏見ふしみでの事」

稲荷いなり…か。君の氏神うじがみさんだ」

「そして、そこは父と母が夫婦になる事を運命づけられた場でもある…僕は伏見稲荷をもうで、その後ろにそびえる稲荷山いなりやまを登りました」

「千本鳥居のあそこね…学生時代に行ったかな。独特の雰囲気がある」

「ええ。普通の人でも何かを感じるような…俗にいうパワースポットですね。ただ、あそこは中々に険しい…くだってる時に僕は―稲荷の御使おつかい様に出会った」

「えっと…それは狐だっけ?確か」

「そう、彼の名は御狐みけつ様。ま、僕の目の前では柴犬しばいぬとして現れたんですけど…まあ、二足歩行な上に言葉をしゃべりまして」

「おおう。夢かと思いたくなる光景」と長田さんは感想を述べる。

「ええ。でも僕は何というか受け入れちゃって。その上、彼に連れられ、彼の主様のところに連れていかれた」

「即ち―」

宇賀神うがじん。ウカノカミ様。僕は彼女とある約束をし―母が背負っていたのろいをいた」

「呪い?」長田さんは疑問をていす。

「これまたややこしい話ですが―うちの母の一番古い姓は結城ゆうきと言って、神道しんとうをベースにした新興宗教の家の娘だったんです。宇賀神家には養子として入った」

「ううん?で、何?生まれの家の人間に―呪いをかけられていたと?」

「そうです…信じがたい話なんですけど…実際母は苦しんでいたし、あの出来事以降はき物が落ちた」

「まあ、確かに柔らかくはなった。急にね」

「まあ、そういう訳で、僕はこの手の『現象』は二回目です。ついでに言うと、僕が連れてきた柴犬のミケツさんは御狐みけつ様です、僕の見張り番なんです」言葉にするとまあ、アホ臭い話ではある。でも、僕から開ける世界はそれをとらえ取り込んでしまった。素直に受け入れる他は無い。

「お?じゃあ…あの『場』に通信をしてきたのは―」

「ええ。彼です」

「後でお礼に何かあげなきゃな…」と長田さんは言う。

「肉が好きです、彼は」と僕は言う。

「あれ?いなりげが好物じゃないのかい?」と長田さんは意外そうに言う。

「いや、元々肉食獣って言うか…犬みたいな生物ですし」

「言われてみればそうだね」


「で?ミケツさんの相手さんの見立てはどうなんだい?」と異常な状況を呑みくだした長田さんは言う。

「神と人が混じりあった何者か、じゃないかと」と僕は応える。

「そりゃあ…ヘビーだな。僕は彼女を社会に出さないといけないんだけど…親御さんから謝礼も貰っちゃったし。仕事は最後までやらなくちゃならない」

「とは言え。あんな『場』を産みだして僕らを迎えたんです、一筋縄ではいかない」

「何というか―天岩戸あまのいわとを思い出したよ。天照アマテラスの」と長田さんは言う。

素戔嗚スサノオ蛮行ばんこうに怒って、岩屋いわやに篭る女神さま。まあ、確かに似てるかも」と僕は漏らす。相手は海神ワタツミなんだけど。

「僕らが天鈿女アマノウズメよろしく踊るかい?」と長田さんは言う。

「いや、脱がなきゃならんから嫌です…」と僕は言う。神話の天鈿女アマノウズメの描写はエロティックですらある。

「じゃ、アレか―思兼神オモイカネノカミよろしく長鳴ながなきどりでも探すかい?」

「実在しない生物を探すのは骨ですよ?」

にわとりで何とかならんかなあ…」

「ならんです…」

「しかしまあ―それは置いといて。次の訪問、どうしたもんかな?」と長田さんはあごをさすりながら言う。

「取りあえず―携帯スマホを持って行けばミケツさんには連絡できますよ?今度は防水スマホなんで水没しない」と僕はスマホを取り出し、長田さんに見せながら言う。

「いっそのことミケツさん連れて行こうよ」と長田さんは提案する。

「良いんすか?」意外な申出ではある。

「アニマルセラピーなんて感じでどうだろう?実際、不登校専門の高校ではセラピードッグが居たりするしね?」

「まあ、長田さんが良いなら、僕がミケツさんを説得しておきます」

「ん。頼んだ」

「後は―まあ、どの神かは見立てが付いてるんでリサーチかけときます」と僕は話をまとめ始める。

「あ。何て神様なんだい?聞いてなかった」

宗像むなかた3女神―のいずれかです」と僕はこたえる。

「ああ。そういや近所さんだが―またエライのが相手だなあ…勘弁してくれよなあ」と長田さんは弱って言うのだった…


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「でさあ。ウカノカミ様は何て?」と僕は自室の寝室に寝転がるミケツさんに問う。

「ん?まあ…かんばしい返事は無かったぞ」と死にかけのセミみたいな格好で転がるミケツさんは言う。

「面白がってる…って訳ね?」

「おう。あの人若いもんが苦労するの見て楽しむクチだからな」ミケツさんは脚をフラフラさせながら言う。

「どこぞのベテランだっつの」と僕はキツめのツッコミを入れてしまう。

「そら。天地てんち開闢かいびゃくからちょいして生まれたんだから、大ベテランよ」と何気なくミケツさんは言う。

先達せんだつの教え的なのは無いのかね?」と僕は諦め半分で言う。

「なんつっても、山の神だし。海の事はとんと知らんのちゃう?」ええ…神様だろうに。

「そんな箱入り娘みたいなこと言われましても」

「しゃーない。自分でどうにかせィ」とミケツさんはドライに言い捨てる。

「どうにか出来るんならやってるって。僕は基本、ただの18の女なんだぜ?知恵も回らんがな」

「そういう時は―人に教えをえよ。これは神も人も変わらん話だ」とおっさん臭いミケツさん。

「人ねえ…専門家でもいればいいけど」と言っても神職しんしょくなんかの宗教家よりは海のスペシャリストが居て欲しいかも。

「寮生連中はどうなんだ?居ないのか?海に詳しいヤツ?」

「いる訳ないっしょ…そも引きこもりなんだよ?海なんて近寄んないって」

「そうかァ?釣りとかあんだろ。それか実家が漁師とかよォ、地元民ならなお良い。案外漁師は信心深いもんだ」とミケツさんは言う。

「宗像大社の近隣の漁師さんたちは―その恵みを受けてるらしいね?」

「んだな。そなえもんがお魚だかんな」

「漁師ねえ…近年は大変だって言うけどなあ…燃料費の絡みとか」

「でも、筑紫ちくしは魚が美味いって言うだろ?廃れちゃないだろ」

「んまあ…確かにね。僕も仕事の上で扱うからよく知ってるけど」

「それこそお前のバイト先の社員連中はどうなんだよ?」

「いや、あれは魚屋さんも出来るサラリーマンだよ…市場関係者ならいざ知らず」

「市場関係者は…まあ居ないか、流石に」

「うん。ま、聞き込みでもするかな…何もしないよりはマシだろ」

「おゥ。若いのは足で稼げ。現場・聞き込み百遍ひゃっぺんってな」

「それは刑事だよ」まったく、そんな知識何処どこで仕入れたんだ?


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 かくして。またもや夕食の準備を手伝う僕は、柿原かきはらさんと世間話。

「いやあ。宗像のアレ、どうしよう」あの事は話してない。あくまで訪問活動どうしようのていだ。

「んー?ま、出てくるのを待つしかないさ…こもってるヤツは外が怖い」と柿原さんは懐かしそうに言う。

「そういや、柿原さんも篭ってたんですよね?」

「おう。大学受験がなあ…親のプレッシャー凄かったからさ…あの名門国立に受からんと殺す、みたいな感じでさ」

「ああ…あの」近所に医学部を構える旧制大学の事だ。日本でも有数の難関なのだ。

「俺はさ、さして頭は良くない…そもが水産会社の家の子どもだ」それは聞いたことが無かった。

「水産会社?魚の加工とか?」

「いや、海苔のり屋さんだな…柳川やながわへんなんだが」確か―佐賀とのさかいだったと思う。

「へえ…あんまり想像できないですけど」

「ま、会社にしてあるが、実質一族で回してた。冬の間なんか親は夜通し働いてたよ。シーズンがそのくらいでさ、朝に収穫して、昼に加工して、夜やっとこ焼く…その時は子どもは放置に近い扱いだ。小学生になったら母も仕事に出てたっけ」

「忙しいんですね…」

「おう。季節もんだからしゃあないがな…ガキの頃は寂しかったもんさ」

「それで―大学受験に際して、二親ふたおやが期待をかけた…」話を進める。

「ウチのオヤジはうて海に出る男で、経営にうとかった…で、俺を大学にやって経営を学ばせたかったみたいだな」

「それは―別にあの大学じゃなくても問題ないですよね?」

「そうだな。むしろ私学の方が金の絡む話はうまい事やる…その上海洋系の学部もない」

「んじゃあ…どうしてあそこにこだわったんでしょうか?」

「ん?そりゃあんま大学の事知らんからだろ…行くならてっぺん取れ的なヤツよ」

「またダイナミックな教育方針で」アバウト過ぎる。

「おかげでしんどかった。金は案外持ってたから浪人させてくれたけどな?」

「で、結局行かなくなる…」

「先の見えない、非現実的な目標設定されれば誰だってそーなる。上手くいかなくてねる。目標変えりゃそこそこ結果は出せんのに」柿原さんの母校は福岡の2大私立の難関の方だ。結構難しいところでもある。

「で…腐ってたところに長田さんが来たんだ?」

「そ。叔父さんがな、連れてきたんだ。予備校に行かなくなり、家に篭る俺を見かねたらしい」

「両親じゃないんですね?」

「両親は俺を認識するのを止めてた、幸い弟が居たからな、そいつに期待を乗せ換えた」

「…しんどい話ですね?」笑顔がトレードマークの彼にも、隠したい過去があった訳だ。

「叔父さんが居なきゃ俺は腐って何しでかしたか…殺してたかもな、両親」と柿原さんは何でもなさそうに言う。

「産みの親でも?」僕は尋ねてしまう。

「と言っても、あくまで『他人』なんだよ。理解し合えない事もなくはない」

「辛かったですね…」と零してしまう。安い同情みたいで嫌だけど。

「ま、それを経たから今の俺がある…否定はしない。甘受もしないが」

「しかし―何で社会学部に?」ちょっとした疑問。

「ん?ま、俺も長田さんに世話んなったからよ、そういう仕事を求めて社会学部に行った。学費は叔父さんが両親を言いくるめたから何とかなった…」

「でもなお、和解は出来なかったんですね?両親と」

「ま、俺も素直じゃない。受けた恨みは忘れんクチだ。聖人君子にはなれん」

「とか言いつつ、面倒見良い方じゃない?」彼は優しい人だ。

「ん?なんつうか苦しいヤツ見てるとなあ…昔の俺見てるみたいで辛いんだよ…別に好意でやってる訳じゃない。自己満足だ」

「自己満足って認識出来てるんなら問題ないっす」

「そう言ってくれると助かるがな」


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 今日の夕食はがめ煮、所謂いわゆる筑前煮ちくぜんに。甘めの九州醤油で味付けされた鶏肉、レンコン、シイタケ、スナップエンドウ。ダシの風味が優しい。

 僕が食卓でレンコンを噛みしめていると―かなり憔悴しょうすいした様子の賀集がしゅうさんがフラフラと現れた。男にしては長めの前髪がエライ事になっているし、顔は脂でテカテカだ。

「うぃぃぃす…メシ…くれ」ボソボソした声は聞き取り辛い。

「お?賀集久しぶりじゃねーの」と柿原さんは調理の後始末をしながら声をかける。

「いや…新人賞の締切がね…今日の24時だった訳…今2徹目だわ」としわがれた声で応じる賀集さん。

「おま、2徹て。人間の限界近いじゃねーのよ…」呆れながら言う柿原さん。

「ま…葛根湯かっこんとうブーストとカフェインで何とか」と賀集さんは言う。思わず僕はツッコミを入れる。

「それ…常用外の飲み方だから止めた方が良いですよ?」普通なら風邪のひき始めに飲むものだ。賀集さんの飲み方は裏技的使い方。エフェドリンの集中力を増す作用を狙っての事。もちろん、これは過ぎれば害になる。海外ではドーピングの指定薬物でもある。副作用は中々に重い。 ※1 ※2

「んんー?そういってもなあ…カフェインだけじゃ眠くてさ」目をこする賀集さんは言う。

「いや、眠い時は素直に寝てくださいよ…」

「だぞ?賀集?体いわしたら元も子もない」柿原さんは心配して言う。

「なんてぇの…かな?アイデアがさ、ギリギリのタイミングで降りてきた訳。んで、無理くり締切にあわそうとしたら、寝れなかった訳さ」

「芸術バカめ…ま、食え、そして寝ろ」呆れる柿原さん。

「言われずともぉ…がめ煮…胃に少し重いような…」どうやら彼はここのトコロあまり食べていないらしい。

「コーヒーと葛根湯しか摂ってないなら、今は止めといた方が良いかも」と僕は言う。筑前煮は根菜こんざい中心で、食物繊維がバリバリ入ってる。弱った臓器向きじゃない。

「っち。しゃーない。おかゆ作ってやるから待ってろ…寝るなよ」と柿原さんはキッチンに戻っていく。

 食卓にうなだれるように座る賀集さん。ほっといたら爆睡かましそうでもある。

「喋らんと…寝ちまう…うがちゃん…世間話プリーズ」と顔を食卓にくっつけ賀集さんは言う。

「世間話…ううん。賀集さん、宗像について何か知らない?」と僕は聞き込みをしてみる。

「宗像ァ…?実家、鹿児島なんですけどォ」と賀集さんは言う。確かに彼の言葉はなまりが強い。基本、九州の人は多かれ少なかれ訛りがあるのだけど、その中でも特異な訛りなのだ。

「それは初耳…じゃ、話を変えて―海の神様について何か知ってますか?」

「ううん?まあ…書いてた小説、日本神話絡めたから…リサーチはしたかな…」

「『記紀きき』です?」日本神話の基本の2冊。この二冊があれば大まかなアウトラインは取れる。

「ん?まあ、そこは基本…ただ、物足りなくて…説話せつわを調べてみたんよ…役立つか分からんかったけど」

「説話?『今昔こんじゃく物語集ものがたりしゅう』とか?」僕の日本の説話に関する知識はその程度。

「それは―大部過ぎて読む気になれなんだ…神話が色濃い時代の説話集に…『日本にほん霊異記りょういき』というのがあってだな…」それは―聞いたことがない。寡聞かぶんにして知らず。でも霊異れいいと言うからには、神様とか関わってきそうなノリではある。 ※3

「そこに海神ワタツミの記述が?」

「いんや…『日本霊異記にほんりょういき』は仏教徒向けの教化きょうか用の説話集な訳…作者は景戒けいかいっていう半俗はんぞくのお坊さんなの」

「ってなると―日本神話から遠くない?」

「まあね…資料としてはスカっちまった訳だが―なかなか素朴な形の説話が載せられていてな…結構面白く読めちまう」

「何と言うか―説教臭い話じゃないんですか?」と僕は失礼なイメージを基に聞いてしまう。

「そこは景戒が半俗の僧であったという点が響いてくる…彼は因果応報をかなりのレベルで信じてたらしいが…案外世俗的な目線も持ってる。それが…あの説話集を魅力的にしている。風俗の点描てんびょうとしても優れてる」

「で。海の神の話なんですけど」と僕は話を軌道修正しておく。オタク気質の人の話はディティールが細かいけど、脱線しがち。

「あ…そうだな。その話な?ほら、海の神って大抵龍とかじゃん?本体は」

「ですねえ。豊玉彦トヨタマヒコ豊玉姫トヨタマヒメとかね」と僕は補足する。浦島太郎の乙姫は龍神の子だ。

「もしくは―龍が蛇に転じる事もある…出雲大社とかそうらしい」 ※4

「それは初耳。で?蛇がどうなんです?」聞き方がキツイだろうか?

「うん。『日本霊異記にほんりょういき』には…蛇と蟹と女の話が2話収録されている…」

所謂いわゆる異類結婚譚いるいけっこんたんというアレです?」説話の類型のひとつ。人と人以外が結婚する話。世界中に類型があるという。

「んだな。まあ、アウトラインとして―まず信心深い女がいる訳」

「もちろん仏教に深く帰依きえしている」

「もちのロン。んで―カエルを呑もうとする蛇に出会ってしまう」

「仏教徒は殺生せっしょうを嫌う―」

「ん。放生ほうじょうしたがる訳」

「でも―蛇は聞き入れない…もちろん蛇は神域しんいきに属する者なんでしょう?」

「だな、タダの蛇ではない」

「交渉が始まる…」

「一筋縄ではいかなんだ…かなりの譲歩をしなくてはならん」

「んで―カエルを離してやる代わりに―蛇と結婚しろ、と迫られる」

「ん。で、カエルは無事、放免ほうめんされる…ま、カエルはモブみたいなモンで、この時点で話から出て行っちまう」

「また、アバウトな話のつくりで」と僕は言う。カエルが恩返しする話にしとけばいいのに。

「蛇は一週間後に、女の下に現れる、と告げ去っていく。そして信心深い女は有名な僧、行基ぎょうき様のトコロに行くんだが―『信心深くしとけや』みたいなことを言われちまう」

「それでいいんすかね?行基様が摩訶不思議まかふしぎな力で何とかしたらいいのに」

「そんな話なら俺は読まん…つまらん」

「確かに。お説教でしかない…それは人の心に届かない」

「そして―話としては前後があるが―、女は蟹に行き会う。一つは世俗離れした老人が持ってて、もう一つは牛飼いの子どもが焼いて食おうとしている」

「もちろん信心深い彼女は―」

「おう。放生したがるんよ」

「そんな事してる場合かな?」説話にそんなツッコミは無粋なんだけど。

「信心深い御方おかたなのよ…んで着ている服で蟹をあがなう」

「ちょっとした犯罪臭がするけど…」服を脱いだ後、襲われたりせんのか?

「そんなリアリズムは置いて来い…ま、彼女は無事、蟹さんを放生してやる訳さ」

「そして?」

「一週間後だ。蛇は約束通り現れる。彼女の家にな。閉じこもる彼女は祈るが―蛇は強大だ。家をとぐろで囲んじまうし、屋根の茅葺かやぶきを食って、中に侵入してくる」おおう、手荒な求婚だなあ。もちっと紳士的にいけないのか?蛇は。

「そして―奇跡が起きる」

「ん。何か音がしたらしい。でも暗いからよく分からん」

「朝を迎えた彼女は―奇跡を目の当たりにする…」

「そこには―ズタズタに切られた蛇が居る。蟹だ、放生した蟹が恩返しに来たのさ」

「へえ…でもまあ、最後はきっちり仏教の教化に話を持って行くんですね?」

「そ。良い事をすると、その報いがありますよ、悪い事をしてもまた、ってな」

「良くできた『お話』ですねえ…」

「ま、『日本霊異記にほんりょういき』は多分、仏教徒向けの説話の覚書おぼえがきみたいなもんで、実際は話をイジってリアリティを出したんだろうね」

「で?これが海神ワタツミとどういう関係が?」

「直接的な話じゃないが…面白くない?海の神の化身だと一般に信じられている蛇が蟹にしてやられる」

「まあ…参考になった…のかな。眠いトコロ済みませんね?」と僕は賀集さんにお礼を言う。

「お陰で寝ずに済んだ…お。かきさんおかいさん出来たかい?」と賀集さんは顔を上げる。

「おう。おまっとさん」と柿原さんは食卓におかゆを持ってくる。

「あんがとお…生き返るわあ…」なんて言いながら、小さい土鍋に入ったおかゆをレンゲですくいながら食べる賀集さんなのだった。


↑ 本文、了


本稿の執筆に当たって、以下の文献、サイトを参考にした事を明記します。


※1 

「エフェドリン」

https://ja.wikipedia.org/wiki/エフェドリン

@Wikipedia

2022年1月25日 閲覧


※2

「禁止薬物リスト Prohibited List 」

https://www.wada-ama.org/en/resources/world-anti-doping-program/prohibited-list-documents

@wada 世界アンチ・ドーピング機関

15p

2022年1月25日 閲覧 


※3

「日本霊異記 全注訳(上・中・下)」

中田 祝夫

1978

講談社学術文庫

講談社

中巻 93~99・113~119p


※4

「伊勢神宮と出雲大社 『日本』と『天皇』の誕生」

新谷 尚紀

2020

講談社学術文庫

講談社

157~164p















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