団地訪問、堰を切る、海原の天蓋付きベット

 かくして―数日後。僕と長田おさださんは宗像むなかた市内の東郷とうごうという駅に来ていた。今日のお相手さんはココの駅の近くの団地にいるらしい。

「なんかねえ。この近所の教育大出た後、教職にいたはいいけど―所謂いわゆるアレな学級を持たされ、必死に頑張ったけど…ダメんなっちゃったらしいね」と僕のかたわらを歩く長田さんは言う。

「ほう…元教職ですか。まあ、なんか普通な感じの人みたいですね?」と僕は言う。

「うん。親御おやごさんは頑張り屋でいい子だったって言ってたよ」

「マジメな人ほどストレスには弱い、か」と僕はしみじみ言う。そういう人たちは頑張り過ぎちゃうのだ。そして上手くいかない事をすべて自分に転嫁てんかしてしまう。本当は自分が悪くなくても、だ。そういう生き方は案外に辛く、周りから便利に扱われがちだ。酷使こくしされ尽したところで―本人はボロボロになっており、リカバリーが効かなくなってしまっている。

「悲劇だなあ」と僕は感想を漏らす。

「まったく、だ。そういう人間ほどストレスに鈍感なのも拍車はくしゃをかける」自己管理が甘くなりやすいからだ。周りには気を使えるのに。

「出てきてくれますかねえ」と僕は周りのマンションを見ながら問う。

「分かんないな。ま、働きかけはして行こう」と長田さんは頭をかきながら応える。


 辿たどりついたのは日本の団地の典型例のような建物群がある場所。最近リノベーションを行ったらしく、外装はオシャレだ。しかし、ここ、1Rの部屋あるのかな?

「なんか元3LDKの部屋の2つをふさいだ1Rの部屋があるみたいよ?此処ココ」と長田さん。

「へえ…最近の住宅需要に応えてるんですねえ」

「で。家賃も控えめらしい」

「おお。中々住みやすそう」

「ウチの団体も安河内やすこうちさん居なかったら、こういうところで活動してたのかも」と長田さんは言う。安河内さんは我らが共生組合きょうせいの大スポンサー。トーラスビルディングのオーナーでもあり、部屋を提供してくれている。頭が上がらない存在だ。

「さぁて」と僕は言う。そろそろミッションスタートだ。

「行くかい?」と長田さんは意を決した顔で言う。


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 団地の12号棟。その3階。9号室が今日の訪問先だ。建物は4階建てでエレベーターは無い。なので階段をえっちらおっちらのぼっていく。

「いやあ。エレベーターがないのは大変だなあ」と長田さんは言う。

「老人臭い事言わないでくださいよ」と僕は返す。まだまだ40代でしょうに。

「ま、今のご時世まだ若造みたいなもんだけどさあ。体はなまってる訳」

「運動、しましょうね?足腰やられたら大変ですよ?」と僕は言う。

「ま、外回りみたいな仕事してるから大丈夫さ」


 3階。階段から広がるそのフロアには部屋が10程。こうしてみると普通のマンションみたいだ。違いは年季。リノベーションのお陰で小奇麗ではあるけど、端々はしばしに痛みがある。


 二人でのんびり廊下を歩いて行き―9号室。鉄でできた扉が内と外とを仕切る。長田さんはインターフォンを鳴らす。その音は僕たち二人だけの廊下に響きわたる。

「長田さん?」と僕は尋ねる。

「ん?」

「前もってこちらが来る事知らせてあります?」そう、不意打ちの訪問なら、居ない可能性もなきにしもあらず。

「そりゃあ、ね。本人さんの携帯の留守録るすろくにメッセージは残した。後、ハガキも書いといたね、今日の15時に僕らが来ますよって」

「直接やり取りはしてない、って事ですね?」

「まあ、そう珍しい事じゃない。親御さんとは連絡取れていても本人は…っていうのはよくあるさ」と何気なく長田さんは言う。

「で?チャイム鳴らしても反応ナシっすよ?」

「焦っちゃいけない」と長田さんは長期戦の構えだ。マジか。帰ろうぜ、って言おうと思ってたのに。

「と、言ってもですよ?あんまり此処ここに居ると警察呼ばれかねない」と僕は懸念けねん表明ひょうめいする。

「それはそうだ…ま、いったん喫茶店でもに避難しようか」と長田さん。

「そうしましょう」


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 そして駅の近くまで戻ってきて、たまたま目についた街喫茶まちきっさにお邪魔している。内装がクラシック…というか昭和チックなレトロな店内、ご年配の夫婦でやっている店で、コーヒーが美味い。結構豆にこだわっているらしい。程よい酸味の利いたコーヒーのアロマが僕を癒す。

「いやあ。外仕事の醍醐味だいこみは出先でいい店見つけることなんだよねえ」と長田さんが言う。

「最近はチェーンのが多いから、変わりだね見つけるの難しいですよね?」と僕は問う。

「そうでもない…というか視点を変えれば案外個人経営の店は生き残っているよ?」

「まあ。都会ならギリあるかもですねえ…で。話変わりますけど、向こうの親御さんは何ておっしゃってましたか?」長田さんは戻りしなに訪問先の親御さんに連絡を取っていた。

「んー?一応本人には僕らがくる事伝えてある…でも彼女はシャイだから出なかったんじゃないか?って言われたね」と長田さんはあごをさすりながら言う。

「これはどうしたもんですかねえ?」

「もう一回行って、インターフォンを鳴らす。で。それでもダメなら手紙書いて家のポストに投函とうかんしてフィニッシュかな…消極的な結果だけど、あまり一気に攻めすぎるのも良くない」

籠城戦ろうじょうせんには乗らないと」と僕は返す。そういう感じで話が終わるなら、有り難いかも。いやでも、だ。今回がダメなら次もまた帯同を求められそうでもある。

「不利な対面は避ける…機があればその時に一気に。いくさは長期化させちゃダメさ」と長田さんは言う。

「へえ…長田さん長期戦好きそうなのに」

「そんな事は無いよ?気が短いもの」と見た目はのっそりしたクマな長田さん。

「マジすか?」驚く。この人すぐキレる訳じゃないし。

「根気よく…ってのがむずがゆい。手順と言うのははぶかれるためにある」

「効率至上主義…」

「ん。かも分からん。でもコレ、調子が良い時だけなんだよね」と長田さんは悲しそうに言う。この人もまた挫折ざせつ経験があり、その際メンタルをわずらっている。それと戦いながら今の仕事を続けている。

「ま、テキトーに行きましょうテキトーに」本当はこの手の言葉は禁句だ。でも、ある程度付き合いがあるから、こう言える。

「適当…中庸ちゅうよう、だね。一番難しい」

「僕も何とかテキトーになろうとしてるんですけど、まあ、上手くいきません」と僕はしみじみ言う。テキトーは難しい。はしる感情を押さえつけるのは結構手間だ。

「お互い、苦労するよねえ…」とコーヒーをすする長田さん。まるでサラリーマンの物言いだ。でも実態は個人事業主のようなもので、いくらでも無理が効く。セルフでブラック化した働き方をしかねない。

「オーバーワークだけは止めてくださいよ?長田さん?」と僕は釘を刺す。

「分かってる…って言うか嫁に殺されるよ。過労で倒れたら」と彼は情けない声で言う。

「ああ…奥さん怖いっすもんね…」長田さんの奥さんは…見た目こそ普通だけど、苛烈かれつというか大人しい長田さんのカウンターな存在だ。

「そうそう。僕、喧嘩になったら勝てないもん」いや。前、久井さんシバいたんでしょう?

「ま、女性には敵いませんよ。口喧嘩は特に」と僕は言っておく。

「いや、物理的にも無理だわ…護身術やってるからね」うへえ。逆らわない様にしよう。たまに会うから。


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 再度鳴らされた12号棟3階9号室のインターフォンの音は夕方になりかけた団地の中に響き渡る。まるで井戸の中に石を投げ込んだみたいに。

「…」僕は固唾かたずんで応答を待つ。隣の長田さんもまた。

「…こりゃあ。ダメかも分からんね」5分近く経ってから長田さんは言う。ああ。これで続きが出来てしまうのか…一発勝負でささっと済ませたかった僕には痛手だ。

 その場にしゃがみ込んだ長田さんは背負ったリュックからノートを取り出し、字を書きつけだす。投函する手紙をこの場で書きだした訳だ。喫茶店でやっとけばいいのに。

「こういう手紙は即興そっきょうで書くに限る」と僕の顔を見た長田さんは言う。

「そうですか?キチンと推敲すいこうして文書く方が楽じゃないです?」

「でもない。状況にぶつかった時に自然にこぼれる言葉の方が相手に伝わりやすかったりするよ?」

「うーん?」僕は普段手紙を書かないのでピンと来ない。もっぱらメッセンジャーアプリで言葉を伝える。その時は短文を連ねる方だ。長々しい文章は頭が悪いのか書けない。

「何て言うか…発話をそのまま文にするイメージかな…ま、会話の呼吸は落とし込めないから、そこは工夫が要るけどね?」

「そういうのって才能だと思うなあ」

「かもね。アメリカの大統領の演説だって専門のライターが居るんだし」

「僕が手に入れることのない才能だなあ…悲しき事に」僕は諦め口調で言う。

「そう?君は文章、書けるようになるクチだと思うけど?」と長田さんはさりげなく言う。

「マジすか?」驚く。でも、それには鍛錬たんれん要るだろうな。面倒っちゃ面倒だ。

「マジマジ。そのうち暇な時にでも何か書くと良い」

「日記でも書きますかねえ」なんて言ってる内に長田さんは手紙を書き終えた。それをクラフト紙の茶封筒に入れ、扉のポストに入れた―瞬間。内側から音がした。金属と金属がこすれる低い音。まさか―あるじが鍵を開けた?

「長田さん?どうします?」と僕は問う。

「ま、もっかいインターフォン鳴らそっか」と長田さんは少し安堵あんどした声で言う。


 機械的な呼び出し音がまた、団地の廊下に響き渡る。そして、インターフォンのスピーカーが雑音を放つ。最初に内部と繋ぐ音―ガチャリみたいな音―がし、内部の受話口のマイクが拾った部屋の中のかすかなノイズ…その内部屋の主が話すだろうと思っていたのだけど、息遣いきづかいが聞えてくるだけで、言葉がない。

「ええと」長田さんはエクスキューズを置く。そして息を吐いて次のように続ける。

「共生組合の長田です。親御さんから話が行っていると思いますが…」

「…」インターフォンのスピーカーしの彼女は黙りこくっている。気まずさが場をおおう。一応僕も挨拶あいさつした方が良さそうだ。

「えっと…共生組合の寮生の宇賀神うがじんいおりです。今日は長田さんのおともで来ました」

「…」いやあ。そろそろ開けるなり、適当な会話をするなりして欲しい。こういう場がこんなに気まずいなんて知らなかったぞ?食道に胃液がのぼってくるのを感じる。懐かしい感覚。そんな状況を動かそうとするのは長田さん。

「出てくるのがしんどいならインターフォン越しでもいいし、話すのが面倒ならこのまま僕が喋り倒しても良い。でも。なんで鍵を開けたのだろうか?」そう。この人はまず鍵を開けた。それから僕たちはインターフォンを鳴らしたのだ。要するに―この人は僕たちにコミュニケーションを取ろうとこころみた訳だ。

「…」その言葉になお返事がない。らちかない。自称短気な長田さんはどうするのだろうか?ちなみに僕はやや苛立いらだってる。悪いけど。

「…分かった。じゃあ、こうしよう―家にいれてくれるなら今すぐインターフォンの受話器を置いて欲しい。このままの状況がお好みなら受話器を置かないでくれ」少しめて長田さんは言う。成程なるほど。そうするか。確かにこの人は短気だ。でも、相手が相手だ。こっちから場を動かしていかないと永遠に平行線をたどる。お互いそれは避けたいはずだ。


 んで。結果はと言いますと―即インターフォンが切れた。中へどうぞ、とかの女性はもくして語った。ああ。残業の始まりだ。まあ、別にいいんだけどね。

「良し。んじゃ入りますよー」と長田さんは鉄の扉のノブを握りしめる。そして右にまわしながら扉を外側に向かって開けた―その時。


 開いたドア、わずかにうかがえる内部…ゆっくりと視界が開けていくはず…だった。尋常な話ならば。

 しかし、事はそう易々やすやすと進んでくれなかった。むしろ異常な事態じたいになって、僕を文字通り押し流した。

 開いたドアの隙間から水が―あふれ出てきた。うん。これは夢だ…と思いたかった。でも、圧倒的なリアリティで僕らに襲いかかる水。それはせきを切ったかのように僕らの方に向かってきた。何か言う暇もなく僕はその水塊すいかいに呑まれたし、長田さんも呑まれた。


 僕を飲み込んだ水は―強い潮流ちょうりゅうだったみたいで。

 暴力的なまでの圧で僕の体を何処かに押しやる。やばい。何処に行くんだ?これって…命の危機じゃあないのか?

 もがくために体中の筋肉に力を入れてみたけど、それは徒労とろうに終わる。むしろ変に抵抗するよりは流れに身を任せた方が良いのかも知れない。そして、機を見て水面に浮かび、楽な姿勢で体力を温存すべき。一応のセオリーは、だけど…


 そして―気が付けば。

 僕は現世うつしよから何処かに放りだされてしまった。

 頭を上にしてプカプカ浮かんではみたものの。空は濃い紫のとばりで覆われていて。非現実的な輝きの月がそれをいろどっていた。

 コイツはマズい。非常にマズい。そんな阿呆あほうな感想が頭に浮かんでいた。人間―非常時にはリミッターが外れて、限界まで力を引き出せるという―でも、本当に訳の分からないシチュエーションに放り込まれると、思考は停止する。そして短絡的になる。んで、さっきみたいな思考が自動生成されたりするのだ。


 ま、どうせ焦ったところでどうしようもない。

 かと言って。このままはヤバい。

 完全な二律背反にりつはいはん。アンビヴァレンスな僕の心。人間、マジで困ると思考停止するんだなあ、勉強になったなーと現実逃避。想像力というのはこういう時に便利だ。勝手に隙間を埋めてくれる。負の方向に想像力が走れば被害妄想的なアレコレが浮かぶけど。


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 僕は水をかきわけ何処かに向かっていたのだけど、重い水に体力をうばわれ疲れてきていた。さいわい水の高さは腰くらいで。何とかその場に座る事が出来た。しばし休憩。

 沈黙し、文鎮ぶんちんしたスマホを見やる。ミケツさんは今ごろ何をしているんだろう。僕の動きを察知しているのなら、この異常事態に気づいて欲しいものだ。でも、ここは現世うつしよではない『何処か』であって、神の御使おつかいのミケツさんにも手が届かない場所なのかも知れない。


 今は体力に余裕があるけど、そもそもが女なのだ僕は。よって無尽蔵むじんぞうのスタミナがある訳ではない。今も想像上のスタミナゲージはモリモリ減って危険領域に差し掛かりつつある。

 こんな所で死ぬのはなあ、と思う。やり残したことは多い。まだ見ぬ可能性は数多あまたあり、すべき義務は山のようにある。

 人間って言うのは現金なヤツで命の危機におちいると、急に殊勝しゅしょうになる。普段信じてない倫理的言質げんち八十万やそよろずの神にすがりだす。かく言う僕も世界でメジャーな神々に祈りを捧げてしまった。特に縁がある訳でも無いのに。

 頭の上の月は真円しんえん金色こんじきのその月は何処かリアリティがない。ちょっと大きすぎる。まるで、何かの目のように見えない事もない。


 人間の疲れは後からやってくる。

 最初の内は全身にアドレナリンがはなたれる関係で疲労に対する感度が鈍くなりがちだ。そして、気を抜いた瞬間、今まで無視してた疲労が僕の体をむさぼりだす。筋肉には乳酸が溜まり、神経はレスポンスを弱める。

 ぼやける意識。

 このまま眠ってもいいのだろうけど、そして体は睡眠を必要としているのだろうけど、水の中で眠るのはよろしくない。下手したら…死ぬ。とりあえずは頬をつねって誤魔化ごまかす。でも、その内感覚器かんかくきは刺激に対する閾値いきちを上げる、感覚が鈍磨どんまする。まぶたが重い。ああ。このまま僕は…死ぬのかな。早々と『あっち』に行ったらウカノカミ様は何て言うだろう?なんとなく、優しく受け入れてくれそうな気がするけど、それは僕の希望的観測。頼まれごとを完全にこなせなかったら、かの女神は何とのたまい、僕から何を奪うだろう?それを想うと憂鬱だ。我が人生、悔いばかりなり辞世じせいの句としては5流以下の文言もんごんを脳内に垂れ流す僕。こういう時も皮肉屋を気取る癖は何とかしたかったかも。


「トゥルルルルル…ピガー、ピガーズゴゴゴゴゴ」この場に不釣ふつり合いな音が鳴り響いている。僕の貧弱な想像力はかのような走馬燈そうまとうをもたらしたらしい。つくづく現実的な走馬燈だ。イマジナリー貧乏、宇賀神いおり、此処に死す。後は誰かが石でも立ててくれりゃいいや…

「ジジジジジジジジジジジジ」いい加減、うるさい。まったくもう。人が死のうって時に不愉快な電子音を鳴らすんじゃない―と僕は目をこじ開け幻想を何処かにやろうとしたのだけど。相変わらず電子音は鳴っている。と、いう事はつまりなんだ?こいつは現実に―僕にとっての―鳴っている音なのか?

 しばし、水面みなもに視線を落とし、待つ。この音が何をもたらすかは分からない。でも、何もしようがない。だから取りあえず待ってみるのだ。諦めるのはそれからでも遅くない。今度はもっとマシな辞世の句を作らねば―と思う僕の目の前に、いなりげのような色をした耳のはしっちょが見えた。ついに幻覚が見え始めたか。マズい。脳内で危ない感じの物質が放たれ始めてる。

 いなり揚げ色の耳はじっくり時間をかけて、柴犬の耳の形になり、その後柴犬の顔が現れた。それは良く知っている顔。ミケツさんだ。わお。死にぎわにミケツさんが現れた。僕はよほど彼が好きらしい。でも、その像は何というか解像度かいぞうどが低い。ガビガビなのだ。昔のデジカメで撮った写真を無理くりHD解像度に引き延ばしたような具合。

「お…ゥ…やっ…と…つなが…っ…」途切れ途切れの声は間違いなくミケツさんのハスキーボイス。いやあ、何か懐かしい。で?ご主人の死に際にやって来たのかな?

「さ…っきまでひさのヤツ…と散歩…してたから」

「ああ…そういや頼んだよなあ」なんて、幻覚に返事をする僕。かなり滑稽こっけいだ。返事がある訳ないのにさ。

「ア…イツ…マ…ナー…バック忘れやがってさァ…」あり?何か会話が成立してないかい?

「ミケツさーん?もしかして―かみ的力を行使こうししてるのかい?」僕は問う。

「たりめ…ェよ…おま…えが…死ん…だら…マズい」と途切れ途切れではあるけど返事がある。

「誰にも見られてないだろうね?」と僕はこの状況にそぐわない現実的な心配をする。

「そ…れは問題ない…が。緊急回…線だから旧式…でな?速度が…で…ね…」

「ゴメン。後で―戻れたら、何かご馳走ちそうする。で?僕はどうすべきかな?」しばしの沈黙。もしかして回線が切れてしまったのだろうか?

「これ…から…お前に…道具…を送る…それで…上手くやってく…」

「何をするつもり―」と言い切らない内にブツンという音と共に回線が切れ、解像度の低いミケツさんの顔も霧消むしょうした。心細いなあ。橋をけかけておいて、それを途中でぶった切るんだもの。まったくもう、と悪態あくたいをつく僕の手の平に―木製の『何か』が像を結びつつあった。へ?何コレ?


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 あれから十数分が経ったように思うのだが。

 手の平に現れた物は木製のかいすなわ手漕てこぎ船を進める時に使う道具だ。これ単品では何も役には立たないが、今、僕の目の前に、ゆっくりと船が現れつつある。どうやらミケツさんはこれで海を渡れと言うつもりらしい。まあ、これで体力を温存しやすくなるし、その上で休憩も出来る。幸いここの海は荒れてはいない。実に穏やかなものだ。

 船のダウンロードはゆっくり進む。まったく、これだからダイアル回線は。

 そう、さっきのミケツさんとの通信はダイアルアップ回線そのものだ。僕はとんと詳しくはないけど、共生組合の長老こと石田いしださんから逸話いつわを聞いていたのだ。光回線になる前のインターネットの色々を。で、ピンと来た訳。

 しかし。ミケツさんはこんな力を行使して大丈夫なのだろうか?そこそこ無理をしている気もする。ありがたい話だ。基本、彼は保身ほしんの為に動いていると自称するけど、実は僕の事大事に思っているんじゃないか?じゃないとこんな無理は出来ない気がする。だから、無事帰れたら少しは贅沢ぜいたくさせてあげないと可哀想かわいそうだ。


 船のダウンロードは、僕が意識を明後日アサッテの方向に飛ばしている間に終わっていた。見た目は川下かわくだりの船みたいな感じかな。人が2人は乗れそう。これで―何とかするっきゃない。とりあえずは、長田さんを探しに行きたい。彼も多分この狭間はざまに迷いこんでいるだろうから。

 僕は船にゆっくりと乗り込み、船底ふなぞこにお尻を落ち着ける。そして櫂を海に差し込み、全身を使っていでみる。

 おお。するする進む。櫂を漕ぐのは大変だけど、歩くより万倍まんばいマシだ。さてさて。長田さんは何処行ったんだ?


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 長田さんは―海の上で巨体きょたいをプカプカ浮かべていた。気が短い人だけど、悪手を打つのは止めたらしい。長期戦は苦手じゃなかったっけなあ。

「長田さーん?起きてますゥ?」なんて僕は声をかける。

「…いおり君?僕の幻覚ではないよね?」と疑い半分の返事。

「大丈夫ですよ、少なくとも幻覚じゃない」そう、現実と言い切るには状況が頓狂とんきょうすぎるのだ。

「助かったあ…いやあ。死ぬかと思ったね」と長田さんは起き上がりつつ言う。

「の割には焦っているようには見えませんが」と僕は応える。余裕があるというか、場に馴染なじんではいるのだこの人。普通ならもっと取り乱すだろうに。

「ま、この年にもなると大抵の事には驚かない。まあ、そんな事もあるかなって」

「年寄り臭い…」と思わず皮肉が出てしまった。

「君よか30近く長く生きてるからね。その分の経験知けいけんちという物がある。瞬間的な発想力はおとろえたけど、まだまだ戦える」

「さ。帰りましょう…どうすればいいかは分かんないですけど」

「ま、なんとでもなるさ。ケセラセラ、ってね」人間、相手が居ると思考に余裕が出るもんだなあ、と僕は思った。


 二人で船に乗り込む。かいは長田さんが引き受けてくれた。お陰で速度はさっきの倍。流れる景色は溶けたよう。

「これ、何処に進めばいいんだろ?」と長田さんはかいを漕ぎながら言う。どうやら見切り発進らしい。まあ、どーせ考えたって無駄ではある。後は勘が頼りだ。要するにヒューリスティックな経験知の参照。頭の中の知識を煮詰めた結果を無意識に実行するのだ。それでダメなら―諦める他ない。

「長田さん。僕も分かんないっす。もう思うがままにやっちゃってください」

「ん。頼まれよう」船は進んでいく。四方何も見えない海原うなばらの中を。昔の航海もこんな感じだったのかしら?と思う。今の時代こそレーダーほか諸々もろもろがあるけれど、昔はもっとアナログな機器に頼って航海していたはずだ。そしてそのアナログな機器は星を使って地球上の自らの位置を求めた…そうか星か。

 僕は空を見やる。星座の知識がない事をやむ。まったく分からないのだ。何を参照したら良いんだ?これ?と悩む僕に長田さんは語りかける。

「ん?星かい?いおり君」と。

「ええ。星の位置で自らの位置を測る…事出来ますよね?仕組みは良く知らないんですけど…」

「一応そうらしいね。僕もそう星に明るくないから何とも…だけど」

「そう言えば―北極星ほっきょくせい…ポラリスの位置が分かれば…方位は求められる」と僕は言う。

「ポラリスか…確か柄杓ひしゃくみたいな北斗七星ほくとしちせいのおわんの先っちょを辿たどれば、北極星があるはずだよ?」と長田さんは頭をかきながら言う。

「よーし、探しますか…ま、方位が知れたからってどうなんだって話ですけど」と僕は漏らす。

「ま、今の何も分からない状況よりいいじゃない…」と長田さんは明るく言うのだった。


 そうして。

 僕たちは無事、ポラリスを見つけた。だから方位はつかんだことになる。くもってなくて本当に良かった。もし曇ってたら暗中模索あんちゅうもさくだったのだから。

「昔は航海していると、信仰に目覚めるなんていったらしいけど、本当、その通りだなあ…」と僕はごちる。

「だろうねえ…じゃないとマジで気がれかねない」と長田さんはしみじみ返事をする。

「だから―海の神様は神聖視されたんでしょうなあ…」

「うむ。特に日本は島国しまぐにだしね」

「何時か何処かで必ず海に行き国土こくどですからね…」

「海と山の国日本ってな訳だ」なんて会話をしている最中に聞き覚えのある音が響き渡る―さっきのダイアル回線の音だ。長田さんにも―聞えたらしい。

「いやに懐かしい音じゃない…昔懐かしのインターネットのアレだ」と彼は言う。ミケツさんは自重じちょうするのを止めたらしい。ま、緊急事態だから仕方なくはある。

「お…い!いお…っちゃ…と長…田…聞こえ…るか」ミケツさんのハスキーボイス。長田さんと合流したのは知っているらしい。正体ばれてもいいのかしら?長田さんまで呼んじゃって。まあいいや、バレたところで実害はない。彼は適当に合理化してんでくれるだろう。

「へいへい…聞こえてますよー」と僕は返事をしてしまう。

「い…いか。東の…方に進…め。そこに破れ…と何か…反応が…ある」

「へ?誰だい?そちらの方は?」なんて長田さんは言っている。

「大丈夫です。僕と長田さんの良く知っている『人』ですから」いや、本当は柴犬だけど。

「ま、助けてくれるみたいだし、いっか。東ね」と長田さんはかいを水に差し込み、方向転換を始める。

「い…いか…反応は何…か分か…らん…十分に…気を付け…」で回線はまた切れてしまった。何か居るらしいけど、そいつはスルー推奨すいしょうらしい。


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 かくして。僕らは東に進路を定め進んでいく。行くアテがあるというのはこんなにも心強いのかと実感する。ああ、助かった。早く帰ってシャワーでも浴びたい。体中塩はゆいのだ。


 東に進んで10数分経った頃、長田さんが何か言う…

「なんか―行く先に見えるんだよね…アレ何かな?目が悪いせいか良く分からない」僕はその言葉を受けて、長田さんの居る前方に体を持って行き、目をらしてみる。

 僕の視界がとらえたのは…海にはまったくそぐわないモノで。今度こそ幻覚を見ていると思いたかったけど、長田さんにも何かしらは見えていた訳で。これはもう認めざるを得ない。

「なんか―海の上に…めちゃクラシックななりをした天蓋てんがい付きのベッドが…見えますね」

「へ?」と長田さんは言う。僕だって同じリアクションをしたい。でも水平線上に、木製の仰々ぎょうぎょうしい飾りつけの天蓋の先が現れ始めていた…アレの上に眠る者は一体…神なのか、人なのか?どっちであっても面倒に変わりない。今日はとことんツいてない。厄日やくびだ。

「あそこに居るのは―」長田さんは言いかける。でも、言葉にしない方がいい。だから僕はこう言う。

「さあ?もしかしたらベッドだけかも」ま、さっき反応が云々うんぬんって話になったから誤魔化ごまかしにはならないけど。

「その方が楽だよねえ…」と長田さんはため息と共にそうこぼした…


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 段々とベッドは近づく。それは像を確かにしてしまう。クラシックな木のフレームの天蓋付きベッド。黒のカーテンは閉ざされ中はうかがえない。

「いやあ。こんなのおとぎ話でしか見た事無いよ」と長田さんは感想を漏らす。

「天蓋付きベッドって実在するんですね」なんて阿呆あほうな事を僕は言ってしまう。

「そりゃあ、ね。やんごとなき方は愛用してるんじゃない?」

「やんごとなき方…ね」と僕は言う。さて、中身は誰か。人か?はたまた神にるいする者か?でも、神ならこの状況をコントロールしそうなものでもある。僕の知り合いの、かの女神は色々自在だったし、御使おつかいに過ぎないミケツさんだって色々出来ちゃったりする。

 って事は?

 この中に何か居るのなら、それは―人なのか?でもなあ。普通なら取り乱すだろうに。現に僕らはそこそこ翻弄ほんろうされてしまった訳で。

「取りあえず―僕が様子を見てきます…」

「大丈夫かい?」と長田さんは心配してくれる。大丈夫、ではない。危険ですらあるかも知れない。でも、彼よりは僕だ。彼さえ意識を持っていてくれれば、少なくともここからい出す事は可能だ。逆だと―僕は立ち往生おうじょうするしかないのだ。

 船底ふなぞこから這い出し、海に体をける。そして天蓋付きベッドの方にゆっくりと進んでいく。

 海水はベッドのアシギリギリまでの高さだ。それ以上高かったら水没していただろう。

 かき分ける水は重たい。まるで重油か何かみたいな粘つきを感じてしまう。ゆっくりとベッドに近づき、カーテンに手をかける―

ああ。

 こいつは。パンドラの箱のフタかも知れない。開けた瞬間おぞましい何かが噴き出してくる魔の箱。人間は神代しんだいから好奇心旺盛おうせいだった。おろかだからその蓋を開ける…その先の不幸を知らずに―なんて父親の言いざまを思い出す。

 そう、僕は賢くない。愚かで、好奇心旺盛で、先を見据えず短期の益を優先するド阿呆だ。

 賢者けんじゃは歴史に学び、愚者ぐしゃは経験ではかる―そう、僕は愚者だ。フール。道化どうけ。又はトリックスター。

 オルタネイト・スイッチ。

 オンとオフのみの単純な機構のスイッチ。それが頭に浮かぶ。トグルをかたむければ電源が入ってしまう。触れなければ電源は入らない。


 僕は―トグルを傾けてしまう。箱を開けてしまう―


 カーテンとカーテンを両の手で掴み、それを開け放つ―その瞬間。その場はくずれ落ちていく。ガラガラと音を立て、空が降ってきた。欠片カケラになって。

「いおりく―」長田さんの焦った声。水に入るドボンと言う音。それがスローモーションになって、僕の体をつらぬく。落ちてくる空の欠片も、ゆっくりゆっくり落ちてくる。


 引き延ばされた意識。脳内の時間感覚はまされ、周囲を置き去りにする。でも、それが宿るのは尋常じんじょうな肉体な訳で。僕にはどうしようもなかった。ただ、感じるしか出来なかった。

 ああ。18年の短い生涯しょうがいが閉じてしまいそうになっている。

 ゴメンよ、ミケツさん。色々骨を折ってはくれたけど、僕はもうダメかも分からん。

 ああ。家族の顔や共生組合の面々の顔が僕の脇を通り過ぎていく。まさしく走馬燈のように。

 ウカノカミ様―悪いけど、土産話みやげばなしは少なくなりそうです、なんて思う僕の頭上には特大の空の欠片。紫紺しこんの大きなかたまりが僕を押しつぶして―


















































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