いおり、旅に出る。父との会食、共に登る、苗字の由来

 あれから3日後。僕は父が抑えた新幹線に乗りに博多駅に来ていた。父は新幹線の方を抑えた。取ったホテルが新大阪駅の近くだったからだ。京都の方が便利が良いだろうと思っていたから意外だった。だが父いわく関西を旅する時は新大阪に拠点を構えた方が何かと動きやすいそうだ。

 緑の窓口の券売機で切符を発券して、筑紫口ちくしぐちへ向かう。

 そう言えば。

 お土産みやげを買っといた方が良いかも知れないなと思う。これから父にお願いをしに行くのだ。手ぶらで行くより何かあった方が印象が良いだろう。

 博多駅の筑紫口の向かい側にはお土産店やレストランが入ったビルがある。そこで何か買っておこう。

 父は―何が嬉しいのだろうか?もらって。僕は悩む。10数年一緒に暮らしてはきたけど、彼の好みをまったく知らなかった。大人の男だから酒?それともそのアテになる明太子?

 ビルの駅と接続してすぐのフロアにはお菓子が中心に並んでいる。甘いものはどうだったっけ?一応お菓子メーカーに勤めているので彼のフィールドではある。でも下手なものを買って失望されるのは避けたい。

 福岡は銘菓めいかが多いらしい。ホント色々なものが並んでいる。定番のミルク饅頭の店に目をやる。これは―無いな。ド定番過ぎて誰かと被りかねない。他にもヒヨコ型の饅頭―東京土産でもある、よって無し―、信玄餅しんげんもちのようなきな粉がかかった親指大の餅―これ黒蜜かける手間が面倒だ。美味しいけど。よって無し―、ううむ。このままでは時間が足りない。

 ―結局。明太子味のおせんべいを買った。お菓子と明太子のハイブリット。妥協案だきょうあんを形にしたような土産物。


 薄いブルーの九州新幹線に乗り込む。今まで乗ってきた新幹線と違ってゆったりした空間が広がっている。営業として日本各地を飛び回る父の気遣いだろう。背負ってきたデイバックと土産物を席の上の棚に置いて指定された窓際の席に座りこむ。

 新幹線は静かに新大阪に向けて滑り出す。窓の外の景色はびゅんびゅん飛んで行く。暇を潰すためにスマホを眺めていたけど、山口に入って以降、電波が途切れがちで。諦めて目をつぶって寝てしまう。

 そして目覚めたら新神戸に着いていた。2時間近く寝てたらしい。寝過ごさなくて良かった。


 新大阪で降りる。多くの人々が新幹線から吐き出される。福岡よりも人が多い。少し眩暈めまいがする。人波ひとなみをかき分け、改札に行く。


 改札から出て、新大阪駅を後にする。この辺はあまり栄えてないらしい。何というか寂しい感じの街だ。

 スマホで地図を見ながら僕は父が指定したホテルを目指す。ただまあ。初めての街なので迷ってしまう。たっぷり一時間かけて何とかホテルへ。葛城かつらぎの名前でチェックイン。小奇麗なビジネスホテルで部屋はセミダブル。ベットでほぼほぼ一杯だけど。

 デイバックと土産物の袋を適当な場所に放りやって、ベットに寝転ぶ。家のより妙にふかふかだ。なんか落ち着かない。

 時刻は16時。微妙な時間ではある。父は仕事だ。今日は晩ご飯を一緒に食べる。京都の河原町かわらまちって所で待ち合わせ。

 とりあえず経路を調べる。JRで京都に出てもいいけど、大阪まで出て私鉄に乗り換えた方が良いらしい。それを調べ終え、スマホをどっかに放りやろうとした時、メッセンジャーの通知。はて?誰だろうか?通知を突くとアプリが立ち上がる。そこには久井ひさいさんの名。

「おっす。京都着いたかー?迷子になってねえか?」心配されている。いや、元は東京とか札幌とか名古屋とか、いろんな所に住んでいたので都会耐性たいせいは低くない。

「とりあえず宿に落ち着きました。新大阪の」と僕は返信する。すぐさま返事。

「なるほどなーそこになったかー」

「久井さん大阪人でしょ?何か情報下さいよ、暇してんです」と僕は彼にたずねる。夜までの時間潰しのすべを引き出したい。

「いやね、俺、大阪のミナミには詳しいつもりだけど、キタはテリトリーじゃないんだわ。ちなみにミナミは難波なんばより南の事な?でそれより北…梅田うめだとかはキタと俗称ぞくしょうされとる」

「はあ。要するに―あんま詳しくない、と?」と僕は返信する。少しとげとげしいだろうか?メッセージは文面だから微妙なニュアンスを伝え辛い。

「うん。メンゴ」

「いや、済みません。無理言って」ここで返信が一時途切れる。会話の終わりかな。さて、何しよう…なんて考えだした僕に久井さんの返信。

「そいや…大阪の駅前のビルに大型のクライミング専門店があったような気がする。うろ覚えだが」多分、彼の言うクライミング専門店はあそこの事だ。全国チェーンを展開してるから日本でクライミングをしてると必ず世話になる。

「じゃ、そこで時間潰しますわ、ありがと。久井さん」と僕は返信をし、土産物の袋と部屋のカードキーを持って出かける。


 大阪。または梅田。そこは複雑怪奇ふくざつかいきな地下街が張り巡らされた都会だ。東京と比べたら可愛い物だけど、福岡よりははるかに複雑だ。

 そのいくつかある中心が大阪駅。その駅舎の近くの商業ビルに久井さんの言っていた店があった。思ってた通りのあの店。店内にボルダリングジムを併設へいせつしている。

 そこで僕はチョークを買う。登る時に使う滑り止めの石灰の粉の事だ。シューズとチョークバックはまだ持ってたけど、チョークは切らしてしまっていたからちょうどいい。

 チョークを買い終わったら駅ビルをそぞろ歩く。ガラス張りのモダンな建物。人が多い。

 さて?時刻は?―18時。さて、そろそろ私鉄の梅田駅を目指した方が良さそうだ。

 僕は大阪駅まで行って、そこから地下に潜りこむ。どうせ、案内板があるから迷わない―はずだった。


 僕は梅田を舐めていたのかも知れない。だが、梅田は初見しょけんさんには厳しいところであった。いくつかの地下街が組み合わされた梅田の地下街はまさしくダンジョンだった。

 周りを見ても建物がないから位置を把握はあくし辛い。案内板もあるにはあるけど。あまりアテにならない。たらい回しが得意なのだ。

 結局。

 よく分からない所に来てしまった。目の前には噴水。時間は19時。ヤバいなあ、遅れるなあ、と思う。仕方ないから父に電話。

「どした?」とすぐに出てくれた父の声。

「いやさ―恥ずかしい話なんだけど…」

「ああ。お前方向音痴だもんな…どうせ梅田で迷ってんだろ?」と笑いながら言う。

「お察しの通り」僕は諦めながら言う。

「…ったく。今周りに何がある?」と問う父。

「噴水…」と僕は消え入りそうな声で言う。

「なるほどー今からナビしちゃるからしっかり聞けよー」と父は言う。


 そうして。僕は父の指示通りに歩き、なんとか私鉄の梅田駅に着き、電車に乗ったのだった…


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 京都、街の中心である河原町。八坂神社やさかじんしゃを臨む四条通しじょうどおりに僕は居る。私鉄の駅の出口から出たそこは繁華街である。観光客で賑わっている。人波をかき分けながら歩いて行く。

 鴨川かもがわにかかる四条大橋のたもとに父が指定した店があった。その建物は大正に建てられたもので、中々年季の入った洋館風の建物だ。イメージとしては―なんだろう?大正モダンとかそんな感じだろうか?開国したての日本に建った諸建築群をイメージしてもらえば近いと思う。しかし。その中身は中華店だ。洋風の建物からは意外である。建物の前にスーツ姿の父。数年前は白髪なんて無かったけど、今は短髪の黒髪にちらほら混じっている。もういい歳だから仕方ないとはいえ、時の流れを感じずには居られない。

「おう。やっと来たか」

「ゴメンね…街を眺めてたら遅くなっちゃった」

「いいって事よ…」と僕らは中に入っていく。


 日本最古という手動操作のエレベーターに乗り、3階に案内される。他にも個室とかあるみたいだけど、そこは2人には広すぎるらしい。

 頼んだのはコース料理。10品ほどで構成されており、ツバメの巣のスープやらフカヒレやら北京ダックやら何やら出てくる。当然ながら美味しい。だが、今は食事よりも父との会話だ…どう話を持って行こう。

「で?元気にしてたか?」と父は青島チンタオビールを傾けながら僕に問う。

「ん?体調はまあまあ…学校は行ってないけど」

「何してるんだ?普段?勉強は?」

「普段は…あの人の後始末して、後は散歩かな、海の中道ってとこがあってそこが国立公園だからよく行く。ボーっとするのに丁度いいんだよ」

「ほう?俺は福岡は詳しくないからよく分からんが。海の中道って言う位だから海っぺただな?」

「うん玄界灘げんかいなだに面してる」

「日本海、か。アレ、気が滅入らないか?俺は苦手だ」

「そう?別にそんなに悪い物でもないと思うけど…冬以外は」

「実物を見ないと分からんな」

「だろうね…」さて。そろそろ話を済ませた方が良いのかな。こういうのはしよぱなが大事だ。長考ちょうこうに入る。

「お前は―かの女の家を出たい」と父。先手を打たれてしまった。ペースを持って行かれかねない。でも、ここで一気に攻勢に出るのは悪手だ。まだ駒組こまぐみが終わってない。

「本当は大学に行く時に出ようと思ってたんだけど」

「まあ。それが順当なあり方ではあるな」

「でも―僕は高校をサボっている…先行さきゆきがない」

「お前、勉強はどうした?別に学校でやらんでも家でも出来るだろ?」

「独学には限界がある…学校に行かなくなる前はそれなりにしてたけど―今は正直あまりしてない」と僕はこたえる。

「あの女がそれを見逃すのは意外だ。まず手を打ちそうなものだが」

「あの人は―僕に興味がないんだよ、親権はもぎ取った癖に。だから放置されてるのが現状。毎日を無為むいに過ごしてる」

「感心しないな。勉強が嫌なら働け、バイトにも学ぶべき事はある」

「何というか―人が嫌になっててさ」

「だろうな…」

「バイトに応募するのも億劫おっくうで。だから毎日無為に過ごしてた。先の事を考えろってのは御もっとも。でも―足が進まなかった」

「かの女に頼らなくても俺に泣きつけば良かったんだよ。お前は1人じゃない」

「とは言え。貴方あなたは再婚した身でしょ?何というか引け目があった。後は―捨てられたって思いもあった」

「ま、経緯けいいが経緯だ。そう思う気持ちは分からんでもない。ただ、気持ちにこだわるのは良くない。それは行動の邪魔になる」彼の駒組みはかたい。優しい言葉の隙間すきまに厳しさが垣間かいま見えている。

「アンタくらい切り替えのく性格なら良かったんだけど」僕は苦しまぎれに悪態をつく。

「俺は別に気持ちの切り替えは上手くない」そう、ゆっくりと言う彼。営業職お得意の誤魔化ごまかしに聞こえる。

「見事に切り替えたじゃないか―新しい子も出来た」

「いや、見事ではないさ…かの女から逃げおおせただけさ、向き合わずにな。既成事実きせいじじつを作って、離婚の話を進めた」

陽子ようこさんは口実なの?」

「いや、当時の俺に必要なものだったし、今も愛しているさ。口実として利用したのは事実だが」利用した事は否定しない父。それは彼が嘘を吐けないからなのか、はたまた誠意なのか。

「利用、ね。僕の二親ふたおやは賢いよ、子どもと違って」と僕は言う。またもや嫌味だ。甘ったれてる。何を言っても良いって慢心まんしんしている。

「いや。二人そろっておろかだからこうなっちまった」と寂しげに言う父。

「表向き、は完璧だろ?貴方達は」

「なあ。大人ってそんなに賢くないぞ?」そう応える父。

「へえ。そりゃ残念」と僕は言う。

「本当はな―宇賀神うがじんさんと俺はキチンとぶつかり合うべきだったんだ…今はもう叶わない事だが」

「ぶつかってたら―違う未来があったというの?」僕は問い詰める。そんなの夢物語だ。たられば話。人生の友。

「かも知れん」と父は言葉少なに応える。

「でも―結局それは成らず、今がある。時は戻らない。虚空こくうに消えた可能性は取り戻せない」僕は父に言いながら自分に言い聞かせる。

「それは否定できん。ただ、上手くいかなかったからってその結果に甘んじるのは甘え、停滞ていたいだ」

「まったくだ…あのさ、僕―」僕はこれまでの話を彼に聞かせる―


「ふん?要するに俺に金を出せって事かい?」と父は言う。

「養育費を貰い続けてきた身としては申し訳ないけど…あの女じゃダメかも知れないんだ」

「まあ―いいぞ?」父はあっさり言う。マジか。良いのか?それで?何だか拍子抜けだぞ?嬉しさ半分、不思議さ半分で居ると父は続けて言う。

「ただし」

「ただし?」

「まずは宇賀神さんの方がどうなるか、だ。もし下手へたをうったら俺がケツ持ちしてやる。それは保証しよう」

「ゴメン…助かる」

「後は―お前に課題を出す事にする。漫然まんぜんと過ごすのは良くないって代表も言ってるんだろ?」

「まあね」

「期間は2年までとし、それまでに進学か就職を決めてもらうからな?俺がスポンサーになったあかつきには」

「まあ、それでオーケー」と僕は言う。

「ま、どうせ俺の出るまくは無いと思うがな?」

「そう?僕は出る幕アリアリだと思ってて、今回のようにお願いにやって来たんだけど。ああ…そうだ、コレお土産。手ぶらはどうかと思ってね」と僕は持ってきた明太子おせんべいを渡す。

「ん?せんべいか?余計な気、使いやがって」と父は受け取りながら言う。

「いや、お礼は?」と僕は言う。

「ん。ありがとな」と父は言う。これで、京都に来た目的は果たされてしまった。

 そして。

 晩御飯を食べた後、父と別れて新大阪に帰った。ま、明日も会うけど。約束のボルダリングに。


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 京都、その中心は俗に洛中らくちゅうと称される。その西の先にはニュータウンが形成されている。そのただなかに父が指定したボルダリングジムがあった。元は物流倉庫だったものを改装した中々に広いジムだ。中はワンフロアの構成で、壁三面に色々なコースが造られている。壁のまん前はクッションになっている。もし下手を打っても怪我しないように。そして中央には道があり、ベンチが幾つか。ここで登りと登りの間のレスト(休憩)をしてください、という事だろう。

 到着した時、父はまだ来ていなかった。時刻は11時。とりあえず先に受付を済ませて、ロッカールームで着替える。ロングのTシャツにショートパンツ、そしてスパッツを履く。相変わらずのユニセックス具合ぐあいだ。女性ロッカーに入った時、周りの人に目を丸くされた。まあ、着替えてる時にブラトップが目に入ったから誤解は解けただろうけど。レストの際に羽織はおるパーカーを小脇こわきに抱える。逆の手にはは民族調のベルトで腰に着けられるチョークバッグとクライミングシューズを持ってフロアに出る。寒いけど裸足はだしだ。クライミングシューズは普段の靴よりキツ目のサイズを選ぶから、靴下なんてけないし、何より足からの情報量が減る。


 フロアの真ん中の通路でストレッチを始める。ウォーミングアップだ。ラジオ体操を半分やってから、座り込んで前屈をする。胡坐あぐらのような形に座り替え股関節をほぐす。下半身をほぐし終わったら上半身、特に肩周囲を中心にグリグリ回しておく。

 体が温まってきたら、久々にシューズに足を通す。ああ。キツい。何とか足を滑りこませ、ベルクロを止める。僕のクライミングシューズはイタリアの定番メーカーの上位者向けモデル。最初はジムのレンタルシューズ―フラットソールで履きやすい―を使おうかと思ったけど、まあ、マイのが気合いが入る。それに僕のクライミングスタイルは足主体だ。足の裏も足の表も酷使する。マイシューズは足のつま先にもソール面のようなグリップが広がっていて、フッキング(足遣い)しやすくなっている。

 アップを終えた僕は、腰に結わえたチョークバッグに手を突っ込み手に取った石灰粉を両のてのひらに馴染ませる。

 そして初心者向けのエリアのコースを登りだす。ホールドが大きくルートの制約も少ないコース。最初はセオリーをふむ。素直に手足を使って登る。最近は運動をしてなかったからなまっているかと思ったけど、案外いける。腕はしんどいけど、足は素直に動き、つま先を使ってのフッキングも以前ほどではないにしても、きめ細やかに出来る。

調子に乗り始めて来たら、クライミングスタイルを切り替える。足を主体にして登って行く。手の手順をはぶくのだ。ホールドを1つ飛ばしにしたりする。左足を動かした後、その対角線たいかくせんで繋がっている右腕を力をかけずに左足のムーブの動きをそのまま右腕に持って行き、伸ばす。

 ああ。久しぶりだけど―僕はやはりクライミングが好きなんだ、そう確信する。チームでやるスポーツと違って一人でそびえたつ壁に挑む快感。障壁しょうへきは乗り超える為にある。


 初心者コースでのアップを終えると、僕はレストする。まだ全然キツくはないけど。あまり調子に乗って飛ばすと、後がキツい。人間の疲労は後からやってくる。

 お父さん遅いなあ、と思う。まったく娘を待たせるとは何事なんだ、とも思う。スマホで連絡を取っても良いんだろうけど面倒だ。貴重品ロッカーに放りこんできたから、イチイチ戻る羽目になる。そんな無駄をするくらいならルート検討したりストレッチしてた方が有意義だ。時間はアッという間に過ぎていくだろう。


 父が僕と合流したのは、僕がスラブと呼ばれるコースに挑んでいた時の事。スラブは登山用語で凹凸おうとつの少ないなめらかな一枚岩を指す。ボルダリングジム的には薄いホールド―クレジットカードくらいの厚みしかない―で表現される。その薄いホールド群に何とか手足をかけ、ウォールに体を預け、次の一手―腕がギリギリ伸びきらない絶妙な位置に次のホールドがあった―を打とうとしていた時の事。

「お。いおりやってるなあー相変わらずのスラブ好きだなあ。お前の胸みたいなホールドに親近感をいだくのか?」と父の揶揄からかう声。背中越しに聞こえてきたその声に僕は、

「セクハラ糞野郎め―」と返事をぶん投げたのだけど。声を出すために腹筋に力を持っていったのが悪かったのか、バランスを崩し、後ろのクッションに落ちてしまった。

「げ。すまん―」と言う顔が僕の頭上に現れる。

「アンタのせいで落ちたよ」と手を伸ばしてきた父の手を取り、体を起こしながら言う。

「心を無にして登れんとはまだまだ甘いのう」と父は悪戯いたずらを含ませた声で言う。

「これが岩壁じゃなくて良かったよ…クラッシュパッドに落ちれるとは限らない」

「まったくだ―いや、ジムだからって落ちて良い訳じゃ無いが」と少しいさめる声。そう、登り切ったら逆手順で降りるのがマナーだ。他の人にぶつかったら事故になる。

「済みませんね…」僕は悪くもないのに謝罪する。

「反省してない謝罪はクソほどの価値もない」と父は言う。うるさいよ。

「で?なんで遅れた訳?近所でしょうが」

「ん?寝坊!!」と悪気もなく言う父。

「変わってない訳ね…休みの日の動き方は」

「まあ、習慣ってのは身に染みてしまってるから習慣って言うんだよな」

「子どもが幼稚園とか行き出したらそうはしてらんないでしょ」

「ん?それもそうか…」

「まあいいや…さ、登ろうよ」と僕は誘う。言葉でコミュニケーションするのもいいけど、共通の行動を共にするのも、また、コミュニケーションだ。



 そうして。父といくつか登る。相変わらずうまい。男性型のクリフハンガーチックな―強傾斜きょうけいしゃと少ないホールドで構成されているルート―クライミングも上手いけど、歳を経たせいだろうか?普通は女性が得意とするスラブも足を上手く使いながらするする登る。

「腕上げたなあ、お父さん」と僕はレストする父に言う。

「うん?まあ、陽子と登るようになってからやり方変えたからな…後はジジイになりかけてるってのもある」

「前はサイファーとかしてたじゃん」サイファーとは片足を振り子みたいに使って飛ぶことだ。遠くのホールドを狙いたい時に使う荒業あらわざだ。

「サイファーなあ…アレ、カッコはつくけどしんどいからな…もうちっと省エネで行こうと思うなら足の使い方を変えなならん」

「陽子さんはスラブ上手いの?」

「ん?そんなに上手くない、お前と比べたら素人もイイとこだな」

「ふーん?それが参考になったんだ?」

「足遣いの丁寧さ…ってモノが陽子のクライミングにはあった」

「ふーん?で、色々やり取りしている間に恋仲になった、と?」と僕はいてみる。親の恋愛バナシなんて聞きたくはないけど。

「まあね…陽子は―その当時離婚して数年経っててな?」

「お子さんは居なかったんだよね?」

「そ、不妊ふにん治療の方針をめぐって元旦那さんと揉めたそうな」と父は言う。

「不妊治療?いや、陽子さん、妊娠したじゃん」

「旦那さんが原因だったらしい」

「ありゃ…それは大変だろうね」と僕は言ってみる。あまりピンとは来ないけど。

「子はかすがい、とはよく言ったものさ。子どものない夫婦は案外に厳しい。上手くやる人も居るが」と父は受ける。

「そんなもん?」ウチは子どもが居ても崩壊したじゃんよ。

「この手の話は社会によくあるんだぞ?子どもが自立した瞬間離婚したり、子どもが問題を起こしたら逆に夫婦仲が復活したり」父は遠い目をしながら言う。

「そうなんだ…家は…僕が居てもダメだったけど」言葉にしてしまった。

「済まん」と父は謝る。昨日もそんな話したよなあ。だから僕は少し体力を使って頭のガードが緩んでいる父に突っ込んで尋ねる。

「昨日、母にぶつからなかった、って言ったよね?」

「おう」

「何で―お父さんは逃げたの?」出来るだけ声色こわいろを変えずに言ったけど、少し震える声。

「アイツの問題の根の深さ、かな。言い切るなら」

「問題?」彼女に問題があった?いや…人間的にはアレだけど、社会的に上手くやっていた母に問題?父がどうしようもできない問題?宗教以外にもあったっけ?

「アイツは…宇賀神さんは『二度も』家族に捨てられた人間なんだ」と父は言う。

「捨てられた?」そう言えば。彼女の親と僕は知り合いではない。不交渉ふこうしょうとは言え親戚付き合いがあったのは父方ちちがただけだったっけ…。

「アイツの家はかなり複雑だ。そもそも宇賀神家うがじんけ実子じっしではない」

「実子ではない?」と僕は聞き返す。

本家ほんけ分家ぶんけって言葉知ってるか?」と父は僕に問う。随分古い言葉だけど、単純に言うなら長兄ちょうけいの筋を本家と言い、それ以外を分家筋と言うのはなんとなく知ってる。日本文学の得意技だ。夏目漱石なつめそうせきの『こころ』の『先生』がそんな感じだった。そして、それは悲劇を作る舞台装置でもある。

「うん。母は宇賀神家の本筋ほんすじではない…」

「本家に子どもが出来ず―分家の結城ゆうきという家からなかば連れ去られるように連れてこられ、宇賀神家で養育よういくされた…ちなみに。宇賀神って苗字の由来ゆらい、知ってるか?」

「いや、知らない。栃木とかにたまに居るレア苗字かと思ってた」

「それは一面の理解でしかない。宇賀神って苗字は全国に点在てんざいする。その由来は神様だ」

「神様?」まあ、氏神うじがみの名を苗字にするのは珍しい話ではないかも知れない。

「仏教の弁財天べんざいてんと日本神話のウカノミタマが習合しゅうごうして出来た神。稲荷いなり神社の神でもある…キャリアウーマンのアイツにぴったりだ」

「それが宇賀神…」

「俺はそんなに仏教にも日本神話にも明るくない。だが。ある時気になって調べてみた事がある」

「ネットならすぐ情報が出るよね」

「ああ。行きついたのは室町時代に編纂へんさんされた辞書である『塵添壒嚢鈔じんてんあいのうしょう』の記述だ…ちっと待ってろ、今出すから」と父はショートパンツのポケットに手を突っ込み、スマホを取り出す。邪魔じゃないのか?

 差し出されたスマホのスクリーンはブラウザのスクリーンショットを映していた。古文書のページ。古ぼけて黄色く変色した和紙に墨文字がおどっていて。読みにくいけど、現代語に近い言葉遣ことばづかいなので意味は取れる―


















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