宇賀神事、母の空虚は―満たされる事を知らず
『
その初めには日本神話の事が書かれているのだけど―父曰く『
「『古事記』ではな。天界を追われた
ここで話は転じる。
日本神話から離れる。民間伝承に変わる。
京都北部、丹後。
その神の
そこで
水浴びを終えた天女の内、7人は水浴びを終えると、天の世界に飛び立っていったが、着物を脱ぎ棄てた天女は7人に置いて行かれてしまった。天女は悲しみに暮れ、水の中に身を隠して泣いた。そこに先程のお爺さんが現れ、こう言う。
『
天女はお爺さんの言葉に従う事にする。そうして着物を着て―お爺さん達が『見つけた』のだろう―一緒に帰る。
それから。十何年か経った頃の事。
老夫婦と同居する天女はお酒を
そのお酒は一杯飲めば立ちどころに
『汝
天女はその言葉を受けて、家を出る。でも、天界に帰る方法をもう忘れてしまっていて。老夫婦の家の門で、空を見ながら歌を
『
彼女はこの歌を詠うと歩みだす。
「ここに居たって仕方ないもの」
そうして一里を行く。そこで、息絶え絶えに休む。不思議と落ち着く。何だか住みやすそうな場所だなあ、と思う。だから此処に落ち着こう。そうして暮らし始める。天女の彼女はその内、思いがけず、人になった。天女ではなくなった。この事に由来してか―そこを
そうして彼女は、後年、
神の名は『
かの女神は老夫婦を栄えさせた伝説通り福の神。
ちなみに、
と、まあ、そんな話であった。
※
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「この話の大本は
「お父さん、古典詳しいんだね?」僕は不思議に思い
「いや、俺はそもが法学士だぞ?」
「あ。そういやそうか。でも、この話が一体何だって言うの?おとぎ話じゃん」
「ああ。宇賀神にまつわるおとぎ話だな。でもな、宇賀神さんは
「分家の子…」そう。母は天界から降りてきた天女ではないが、他の家から連れてこられた分家の子。本当の子どもではない。
「宇賀神家は―医者だった。大規模な精神病院を経営していたらしい」父は伝聞情報を僕に伝える。
「精神病院?」僕は聞き返す。何というか、彼女に一番縁遠いトコロな気がする。何と言っても合理性の
「彼女は小学生の頃に後継者として迎え入れられ、英才教育を
「彼女は―うまくやったんだろ?教育に関しては」と僕は問う。彼女は結果としてキャリアウーマンになっている。何時か何処かで医者の道を外れている。
「ああ。あいつは医学部を出ている。国家試験は受けなかったが」
「医師免許は無い…となると?あの女は何処に就職したの?」
「製薬会社だ。大阪にある大手の」
「なるほど、医学部卒は活かした、と。でも彼女は…僕の知っているあの人は製薬会社に勤める女じゃなかった」
「転職したんだ、俺と付きあいだした頃かな」と父は懐かしい物を思い出すような声で言う。
「あのさ、お父さん?」僕はトーンを変え問う。
「ん?」と父は目の前のホールドをブラシで磨きながら返事をする。
「どうやって彼女と出会い、結婚したの?」と僕は問う。何というかこの事を今聞かなければ、一生聞く事は無いだろう、そう思えて。
「合コン的な何かで知り合った」とあっさり言う父。確か前の勤め先、大阪が本社だった気がする。
「あの冷酷女に魅力があった?何を馬鹿な…」と僕は返事をする。聞いたはいいけど、あの女、そもそも合コンなんかに出るのか?そんなものは無駄だ、と言い切る女だと思う。
「当時の価値観として」と父は前置きをして語る。
「女は結婚して家庭に入るものだっただろ?彼女は会社の同僚たちに無理やり連れて来られていた。アイツ、案外押しに弱い。断らない
「ふーん?まあ何やかやで気乗りしないまま出て来たんでしょ?そういう事ならやんわり逃げるでしょ、普通」と僕は問う。
「あん時の宇賀神さんは24位―修士課程をストレートで卒業したから―で、まあ…玉のように美しかった訳。まあ、冷たい印象も受けたが。で、好色の俺は黙りこくる彼女に猛アタックを仕掛け―何とか連絡先を引き出した」と父は何故か自慢げに言う。
「アンタ、女関係は手が早いよね?」と僕は嫌味を垂れておく。
「おう。色に生きるのが当時の俺のアイデンティティでな」
「で?かの女はお父さんの呼びかけに
「ん?まあ―今の世なら確実に警察にしょっ引かれるが…まあ、彼女の行動範囲に張り付いたのよ…会社な?」
「うわ…」父親の妙な行動力に引いてしまう。でも、それが無ければ僕はこの世に生を得てない。感謝すべきか?
「張り付いて3か月―ついに宇賀神さんは俺の誘いに応えた、休日にデートを取り付けた」嬉しそうに言う父。母の事、まだ完全に忘れては無いらしい。何が良いんだ?
「デート、ね。世界で一番そのワードが似合わない女が相手だけど」
「言えてるな…ま、京都に出かけた。どこ行ったかな…確か―そう、
「職は違えど現在の芽がある」と僕は言う。そう、彼女もまた営業畑歩むキャリアウーマン。今は管理職レベルに上がってしまったが。
「伏見稲荷…その本殿の裏には有名な千本鳥居とそれに続く稲荷山への道がある…そこを俺たち二人は歩いた…お互い仕事で色々歩き回るから足腰は強い」
「あの女…喋るの?」
「当時から全然だったな…俺が喋り倒した」と父は言う。今とそんなに変わらない。
「ふん…で?」と僕は続きを促す―
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「そう言えば」と軽装の彼女は息切れ1つしないで問う。
「ん?どうしました?宇賀神さん?」と俺は応える。初めて彼女からしゃべってくれた。正直
「―私の苗字、宇賀神。それはウカノミタマとしてここに祀られているの。
「いや―雰囲気いいかと思いまして…ゴメン。日本神話に関しては俺、何も知らない」
「
「いや、それは奈良の地名姓だろ?」そう、俺は奈良の生まれだ。そしてそこには重厚な歴史があるが―興味のない人間はそんな事調べはしない。
「そうじゃない―貴方の歳という字、何処から取られたか、私、分かるわよ?」俺の名前は爺さんから貰ったものだが…彼女は何と言うのだろう…気になる。
「いや、爺さんから貰っただけなんだが…」と俺はエクスキューズを置く。何となく神話に絡んだ話が飛び出しそうな予感がしたからだ。
「私の名前、宇賀神のウカノミタマ、その兄は『
「…そうかい。しかし兄弟の神さんなんだろ?通じる訳にはいかなんだ」と俺は冗談交じりに返す。
「
「ま、そう言ってくれるのは嬉しいが―なあ、1つ聞いていいか?」俺は問う。先程から疑問が俺を悩ませていた。妙に神話に詳しい。確か出身大学はカトリック系だったはずだ。
「良いわよ」
「なんでそんなに神話に詳しいんだ?実家、神社かなんかか?」
「もう…付き合いは無いけど。精神病院を経営する一族の
「あ?じゃ何で製薬会社勤めしてるんだ?次女?」と俺は言う。それが穏当な話であり、そこに着地して欲しかった。
「いえ。唯一の娘が私。でも」
「でも?」俺はパンドラの箱を目の前にしている。もし、此処で俺が開いたら―そこからロクでも無いものが噴き出す、そう思えた。でも人は神の時代から好奇心
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『パンドラの箱の中身』―彼女は語り始める。その来歴を。宇賀神の
宇賀神家は―関東に精神病院を構えていた。そこは大規模な開放病棟を備えた大病院で、私の父の一族が経営していた。
「どんな患者でも受け入れる」それがモットー。精神科では扱いの難しい患者は数多居て、入院先に困る患者家族も少なくなかった。だから、宇賀神病院は栄えた。まるで
私の『養』父、宇賀神
「子を譲ってはくれないか…」そう、私は結城の娘だったの。そうして―
「断る…結城の家を継がせるからな」と私の実父は断ったらしいわ。ただ。この家には重大な問題があった…カネね。
結城の家は、まあ、分かりやすく言うと宗教の家なの。でも―戦後に
宇賀神久は、結城家の当主、そして新興宗教の教祖たる実父に、提案をする―
「子を譲るなら―うちの分の借金の事は問わない、また、今後の資金面は面倒を見る…ある程度だが。それならどうだ?」この言葉を受けて…実父はなお断った。教祖の子ども、その後継ぎ。神を下ろす
そこで宇賀神久は一計を打つ事にした―計、と言っても、私を連れさっただけの話なんだけど。
そして。強引に話を進めて行く。一体どんな手を使ったんでしょうね?私にも分からない…でも、気が付いたら姓が「結城」から「宇賀神」に変わっていた。実母の精神的な問題に漬けこんだのかも知れないわね。実母は…半ば気が触れてしまっていたから。父が事代として酷使したが
そうして。
私は英才教育を施されて行く。学校の勉強を詰め込まれたし、宇賀神病院にも連れていかれた、そこでボランティアとして患者と色んな事を…していた。
病院の患者さんたちは皆、いい人だった。何というか
私は県内の進学高から大学に進んだ…東京のあそこよ、医学部が有名だわ。大学には実家から通った。そして宇賀神病院には半ばインターンみたいな形で関わっていた…ここまでは平和な話ね。
問題は宇賀神久から始まった。
宇賀神久は優秀な精神科医だったけど―ある時期から睡眠薬に
その頃は今、メジャーになっているタイプの睡眠薬のリスク面が知られ始めた頃ではあったけど。仕事に追われる彼は―リスクを軽視し、量を増やしていった。
「お薬は用法・容量を守ってお飲み下さい」
この言葉、軽視されがちだけど、大事な言葉よ…私は宇賀神久が『壊れて』いくのをじっくりと見せられた。
さらに悪いことには。宇賀神久は酒と
認知障害を加速させるのに酒はうってつけ。医師の中でもそれなりに優秀だった彼の脳は
「お前は…実の娘ではないし、信用に値しない。私の跡は、弟子の―に譲る。お前は好きにしろ」即ち―『
その言葉を聞いたのは父の認知障害が彼の人格を食い尽くす前。事が大きくなる前に周りが準備した会合での事。
突然はしごを外された私は、ショックだったわ。控えめに言っても。
この後、宇賀神病院はその名前を変えるの。私の実父の苗字は外された。今はあの弟子が経営する法人が持っている。
さて私は。修士課程に進む前だった。本当なら国家試験に向けて
修士1年の夏。私は結城の家を訪れる。何の用だったか?まあ、たまには実の父の顔を見ておくべきかと思ってね―もしかしたら私の席があるかも、って期待してたのかしら?当時の私は甘ちゃんだったのね。実の父に受け入れて欲しかった、愛を期待したの。でも、私に投げかけられた言葉は
「宇賀神の家は
この呪いのミソは『末』ね…まあ、私の前に久が…認知障害を
「私も宇賀神の末―になるはずだった…でも、そこに並ぶ事は許されなかったわよ」私は父に言う、母に言う。
「だから?」冷たく問い返す父。なんで…優しい言葉をかけてくれないの?
「私…戻りたいの、結城の家に」私は言う。ある種の懇願。そうすれば―満たされない自分が救われるような―そんな気がして。
「宇賀神の家の飯を食べたお前は、宇賀神の子だ。今や。即ち、合理の徒。我が結城に加える訳にはいかない」と実の父からも拒絶される。母は…後ろで
「まるで
「そう。お前は
「そう…期待した私が悪かった」これで。私は何者でもなくなってしまった気がした。
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「…これで話はお終い。私は大学を出て、製薬会社に勤めてる」と彼女は締めくくる。重たい話だった、ゆっくりと首を絞められるかのような話。でもそれを語る彼女の顔はニュートラルで。聞いてなかったら、ホント、つまらない話をしているかのような顔だった。 俺は―これに何と応えるべきだったのだろう?未だに思う。あの時正しい言葉を彼女に贈るべきだった。それで彼女は呪いから解放されたかも―知れない。でも俺は普通に生きてきた男で、ありきたりな事は言えても、本質を突くことが出来ない。正直な言葉を選ぶことにした。それは誠意のつもりだった。
「済まん…俺は君の事を何も知らなかったんだな」
「今、知ったでしょう?」何とも無げに言う彼女。そして、言葉を続ける。
「私は、貴方と結ばれる―これは予言よ」
「は?」何というか、何でもない話を披露するみたいな言い方で言うもんだから、その言葉が求愛の言葉だと認識できなかった。ついでに言えば混乱もしてる。いきなり好きってなんだ?愛に餓えてるだけなのか?
「そして子を為す」話が早すぎて着いていけない。まったく、とんでもない女に関わっちまった。
「それは―アレか?
「希望的観測とも言うわね」と彼女はエクスキューズ。はあ…希望されちゃ仕方ない。
「わーった、分かったよ…でも段階は踏もうな?」と俺は目の前の常識のない女に、愛に餓えている女に言う。
「ならいいの」彼女は分かってた、と言いたげな顔でそう言った。
かくして。
俺は宇賀神さんと付きあい始めた。彼女は融通を効かせるために転職した。あの頃の俺達は間違いなく幸せだった…。
何年かしたら、俺たちは結婚し、宇賀神さんは葛城さんになり、お前が生まれた。
ただ。彼女は一貫として仕事は続けていた―家に居て何をしろと?―、でもお前が出来て仕方なく仕事を辞した。あん時悔しそうな顔してたっけ。後少しで面倒な上司を潰せるとか何とかで…うん、根っからの戦闘民族なんだわ、宇賀神さん。
そうして。
生まれた子は女の子。俺としては嬉しかったな…可愛い名前を3ダースくらい揃えてた。
でも、宇賀神さんはいおり、とつけることを譲らなかった。意味合い的には男の子の名だ、別に女の子についても可愛いが。
俺がその意味合いを十全に理解したのは、かなり経ってからだ。
「私―いおりは男の子のつもりで産んだの」何かの拍子に聞いた言葉。あん時はたまたま夜に出くわしたんだったかな。俺が早帰りだった日だ。ん?お前は―寝てたぞ?
「でもまあ…女の子だ。少し男勝りの」と俺は言う。まだ、いおりは髪を伸ばしていたけど、今の性格に近かっただろ?
「本当は男の子が欲しかった…でもそれは果たされない」と彼女は後戻りできない口調で言う。
「いや、もう一人いけるだろ」と俺は言う。いおりに兄弟がいるのも悪くないと思ってな。
「いや、私から仕事を取り上げるつもり?」彼女は言う。軌道に乗り始めてた時期だったからな。
思えば、あれが歯車の狂いはじめで、最後の平和だった…いおりが小学生の内はまだマシだったが―結城の呪いが遅れてきたのかも知れん。
「宇賀神の家は呪われよ。『
彼女が宗教に
彼女の
何をやっても満足できない。成功しても『捨てられた』と言う
彼女は宇賀神久と同じく―溺れた。宗教というアヘンに。頭がいい奴ほどこう言った問題にハマりやすい。俺は
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
「そして―後はお前も知る通り、だ」と父は語り終える。
「なんか、話がえらく込み入ってしまったね?」と僕は言う。とりあえずの返事。まあ、宇賀神の由来から夫婦の話に移り…だから。
「済まんな…まあ、アイツは可哀想なヤツさ」と父は同情を込めて言う。
「じゃあ、なんで…」と僕は言う。でも、そうか宗教か…
「そう。この現代において軽視されがちな宗教だが、舐めてはいけない」
「それは良く知ってる」と僕は言う。
「アイデンティティの形成の道具として上手く使えるヤツは良い。だが、その手のリテラシーが不足した現代では毒とも成り得る」
「…日本の宗教観のいいとこはいい加減な所だとは思うけど」そう僕は言う。お陰で違う神に祈れるからね。
「それがマイナスに働くことも
「ああ。聞かなきゃ良かった」素直な感想を漏らしてしまう。
「ああ。言わなきゃ良かったよ…まったく」と父は言う。
夕方。ボルダリングジムの中に
「今日も飯、食ってくか?」とクライミングウェアから着替えた父は、同じく着替えた僕に問う。
「いや…今日は帰ろうかな。ゴメン」と僕は誘いを断る。親子の会話はもう十分したように思えて。
「オッケーだ。俺は明日からまた仕事だから、後は好きにしろ」父から旅行の為の資金は貰った。ホテルの予約もまだ残っているし、やれる事はやった。だから明日からはオフ。一人で散歩でもしよう。そして最終日にまた、父と会おう。
「帰る前に、また連絡するね…お父さん」
「
↑本文了
※
この部分の大本は↓からです。
「
1445or1446 鵜飼文庫
@人文学オープンデータ共同利用センター
http://codh.rois.ac.jp/pmjt/book/200019292/
また、訳出する上で、以下の資料を参考にしました。
「風土記 (下) 現代語訳付き 豊後国・肥前・逸文」―『奈具社』
中村 啓史 監修・訳注
角川ソフィア文庫 2015 KADOKAWA
「古代と現代をつなぐ丹後の伝承―京都府宮津市・京丹後市」
JR西日本
Blue Signal 2006
https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/bsignal/06_vol_107/feature03.html
また、神話の記述は以下の資料に依っています。
「古事記 現代語訳付き」
中村 啓史
角川ソフィア文庫 2014 KADOKAWA
「全現代語訳 日本書紀」
宇治谷 猛
講談社学術文庫 1988 講談社
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