家族のカタチ、ラーメン屋での一コマ、手紙

 所と時は変わって。

 今、僕は駅の近くに来ている。と言うのも柿原かきはらさんと久井ひさいさんがそこで待ち合せよう、と連絡してきたからだ。

 さっきの話の余韻よいんが僕の体に残っている。もしかしたら―うまくいったら―家を出れるかも知れない。交渉が上手くいけば、だけど。長田おさださんは昔、営業をしていたと柿原さんが何かの拍子ひょうしに言っていたけど。どうだろう?あの鉄面皮てつめんぴの母を崩せるだろうか?

 夜の駅前は賑やかだ。日曜の18時過ぎ。親子連れが僕の側を通り抜ける。父親と母親と小さな女の子。その子の両の手は両親に繋がっている。両親はそんな我が子を見守る。僕が知らない家族のカタチ。ウチは両親が共働きだし、ワーカホリックだったのもあって休みに皆で出かける、という事が無かった。

幼少期にはお手伝いさんが家事をになっていて。その人は週末も一人な僕を見かねて自分の子どもと一緒に遊びに連れ出してくれた事もあったけど。やはり他の家族に1人混ざるというのは心地が悪いものだった。

 小学校に入ってからは週末は習い事を詰め込まれていたっけ。高学年になる頃に習い事はほとんど辞めてしまったけど。中学生からは部活もあったし、勉強もあった。それでも隙間すきまが出来たら一人でボルダリングジムに行って。ウォールに着けられた色とりどりのホールド―掴むやつ―を眺めながら、独りでもくもくと登った。

 基本、ボルダリングは登っては休む。連続して登るのはマナー違反だし、そもそも腕が悲鳴を上げる。その休憩中に知らない人から声をかけられ仲良くなる事もあったけど、お互い名乗りはしなったし、連絡先も交換しなかった。大体は年上の人が多かったような記憶がある。難易度の高いルートを検討している時なんかにアドバイスをくれるのだ。

 でも。突っ込んだ身の上話はしなかった。中学生だっていう事くらいは言うけど。そんな話よりはボルダリングの話をしてた方が楽しい。そのせいだと思うけど―みんな僕に突っ込んだ身の上話は振って来なかった。

 チョークで真っ白な、でも力を込めているからほの赤くなったてのひら、まるでバレエシューズよろしくつま先が少し曲がったダウン・トゥのクライミングシューズ。そして、目の前にはホールド。力任せのクライミングは一定のレベルを超えると壁にぶつかる。全身をバランスよく使うのがコツだ。そんな訳でかなり体力を使う。頭を真っ白にするにはアレが一番だった。

 だけど。福岡に来てからはめっきり行ってない。なんでだろう?まあ、余裕がなかったから、と言えばそこまでだけど。なんだか懐かしいな。まだ道具は部屋に残していたはずだけど…なんて考えている僕を呼ぶ声。

「済まん。待たせたな」と柿原さんが言う。

「柿原さん、それ女に言うセリフだから」と久井さんが言う。

「いや、今来たところですから」と僕は応える。実は僕はオンナなんだけどね、生物学上。そろそろ二人にも明かしておいた方が良い気がする。長田さんよろしく気が付いていなければ、僕はユニセックスな見た目の青年なんだから。

「メシ、ラーメンでいいか?酒呑みながら食えるとこ、俺そこぐらいしか知らんし」と柿原さん。ラーメンは嫌いじゃない。この地方のは少し重めだけど。

「こっちに来てからラーメン食べてないですし良いっすよ」と僕は言う。


 お店は呑み屋街のなかにあった。酒を呑みながらという言葉に反して店構えは所謂いわゆる街中華まちちゅうか風。赤いカウンター席に肩を並べる。

「取りあえず生中2つ」と久井さんは言う。

「で、ラーメン3つと餃子ギョウザ2人前頼んます」と柿原さん。すぐさまジョッキが2つやってきて、乾杯。僕はお冷だけど。

「で?おさっさんの話はどーっだったん?寮に誘われたんだろ?」と久井さんは遅れてやって来た餃子をほおばりながら僕に訊く。

「食いながらしゃべんな…久井」と柿原さんは叱る。まるで兄弟みたいな2人だ。見た目は全然似てないけど。

「まあ。その通りですね。長田さんがウチの母に話をしてくれる事になってまして」

「あのオッさんに任せとけば大抵の親御さんは納得するよ。元詐欺師だからな」と柿原さんは言う。

「詐欺師って…営業でしょう?元は」と聞いてみる。

「おう…でもまあ法人も個人も相手にしてたらしいからな。別に話が上手いって訳じゃないが」と柿原さんも餃子を摘みながら言う。

「長っさんは口八丁くちはっちょう型じゃないよね」と久井さん。

「あの人は要点だけ伝えて、後は間の置き方で説得してくるからな。性質たちが悪い」と苦々しい顔の柿原さん。仕事の上では色々あるのだろう。

「で?いおり君はどうするつもりなん?」とジョッキを傾ける久井さん。

「まあ―長田さんの説得が上手くいったら来るつもりです」

「おおー。部屋何処になるんやろ?空いてるところにいきなり一人は酷だろ?柿原さん」

「まあ。無害なヤツとくっつけるのがセオリーだわな。だからお前は無いぞ?」

「ええ…今の相棒、そんな得意でもないんだが」と久井さんが珍しく人を悪く言う。

「お前な。俺にそれを言うな」と柿原さんが釘を刺す。

「だってよ?生活リズムがズレてんだもん。朝仕事の俺がいるのに夜中に騒ぐヤツが一緒なのはキツいぜ?まったく」久井さんは言う。共同生活は大変らしい。こういう側面がある事をすっかり失念していた。

「ええと」と僕はエクスキューズを置く。性別のことを打ち明けるなら今だからだ。

「あ?」と二人は揃って僕を見つめる。あんまり見つめられるのは恥ずかしい。

「あの…僕…生物的にはメスなんですよ。今まで黙ってて悪いけど」こう言った瞬間、綺麗なタイミングで二人は黙り込んだ。どうやら2人共男性ホルモンが薄めのオトコの子だと思っていたらしい。

「通りで。ひげねーなと思ったもん」と久井さんから戻ってくる。

「ああ…言われてみれば男にしては小奇麗こぎれい過ぎるもんな、いおり…」柿原さんが言いかける。僕は被せて、

「君でこれからもお願いします。別に性自認せいじにん的に混乱はないんですけど、君の方が慣れているんで」

「じゃ、そのようにするか…」と柿原さんはため息をつきながら言う。なんか悪い事をしてしまった気がする。気を悪くしてなければいいけど。

「いやーまあ。女性寮生ねえ…過去にいた事あんの?柿原さん」と久井さんが問いかける。

「…っとなあ。まあ、居たけど…即逃げたっけな。安藤あんどうさんが対策してたけど。野郎ワールドだからな基本」と柿原さんは言う。

「扱いとしては男みたいに扱ってくれて問題ないっすよ」と僕は言う。風呂とトイレが別れていれば後は問題ない。

「隠しといたほうがいいんじゃないかなあ。つか通所つうしょでもアリだな」と久井さんが言う。

「そうなるのは―ちょっと嫌かも」と僕は言う。

「ん?自分も家嫌いな人?」

「母の顔を見なくて良い生活に憧れています」

「ってなると―止めにくいな」と柿原さん。

「アレ?止めようとしてました?入寮」と僕は聞く。

「まあね。野郎のそのに美少年風のいおり君を放つのはどうなんだ?って思ってな?」と言う。

「美少年?」と僕は驚いて聞き返す。

「うん。まーモテるクチだよな、どっちからも」と久井さんが言う。

「その手のトラブルだけは起こしたくない…寮の世話役せわやく的に」眉間みけんしわがさらに深くなった柿原さんは言う。

「っても俺ら、無害な草食男子の群れよ?」と久井さんは言う。好色こうしょくそうな見た目なのに。

「んー?お前は…そうだな。ウブ野郎だもんな。その上フェミニンな女性好きだって知ってるし」とうなずきながら柿原さんは言う。

「え?俺言ったっけ?」と驚いた久井さんは言う。

「ま、お前の身の上話と―前、ボランティアで来た女子大生ガン見してたじゃねえか」と柿原さんは久井さんを弄る。

「うんうん…ああいう娘はいいよね。また来ねえかなあ」

「アレ、もう来ないぞ?」とあっさり柿原さんは突き放す。

「え?」固まる久井さん。

「…お前には隠しとくつもりだったが―お前のガン見のせいだかんな?」と無情な宣告。

「マジでぇ…」

「あんな野獣やじゅうみたいな目線寄越よこされれば誰だって参るっての、お前の見た目それだし」

「そんなに野獣めいて見える?いおり君?」と僕に話を振ってくる。さて、どう答えるべきか?当たりさわりのない事言っとくべきだろうか?悩む僕に久井さんは諦めたような―悟りを開いたような―顔でかく語った…

「もうええわ…イメチェンするわ…ワシ」

「おう。就活もあるからそうしろ」と柿原さんは無情なコトバをかけるのであった…


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


 初めて食べる豚骨ラーメン。

 福岡の豚骨ラーメンはおおよそ3系統に分かれていて―久井さんは妙にラーメンに詳しい―ココのモノは長浜ながはまラーメン、といわれるうお市場関係者が愛好していたモノらしい。他の系統である博多、久留米くるめと比べると豚骨の匂いはあるもののあっさり目に仕上げられている。

 極細麺をすすれば、スープの旨味がくどくない程度にクチに広がる。

「オンナは豚骨嫌う事が多いが、いおり君良い食べっぷりだな?」と久井さん。

「まあ、元が運動好きで食べますから…」

「ん?何かやってたのか?」と柿原さんが言う。

「ええ、中学では硬式テニスしてましたし、後、趣味でボルダリングも」

「ああーあの壁登るヤツな」

「その内レクで行こうぜ?柿原さん」レク?何の事だろう?

「最近ネタ切れ感あったし、いいかもな…ああ、いおり君。レクってのはな?週一くらいで寮生りょうせい共生組合きょうせいくみあい関係者で集まってどっか行ったり、遊んだりする催しの事だ。レクリエーション」ああ。なるほどなあ。共生組合の寮では共同生活の他にそんな事もしているのか。

「でもまあ、寮生の中でレクに積極的なのは俺位かも分からん」と久井さん。

「俺がどー誘っても出てこないもんな、アイツら。まあ、寮生以外の参加者も募っているから何とか成立してるけど」と柿原さんが言う。

「今―寮生って何人居るんですか?」僕は聞いてみる。

「んーまず俺だろ、後、俺の同居人…長老の石田さんとギャンブラーの橋本さん…」

「で。後、元大学生院生の渕上に…ミュージシャン志望の古河…で6人かな」と柿原さんは言う。何というかくせの強そうな人ばかりのような…

「多分、いおり君みんなに会ったらびっくりするぞ…いろんな意味で」と意味深な事をいう久井さん。

「僕…うまく入っていけますかね?」と柿原さんと久井さんにいてみる。

「ん?まあ、みんな元は引きこもりだからな…似たような境遇きょうぐうのヤツには優しいよ」

「俺もうまく入っていけるか心配だったけど、まあ、上手くやってる」と久井さんは僕を励ます。

「まあ…親との交渉が決裂したら…そこに入っていく事すらないですけど」

「そこは―ま、心配するな」と柿原さんは言った。


「そう言えば」僕は久井さんに問う。

「ん?何ぞ?」と食後の煙草を吹かす久井さんは答える。

「バイトしてるんですよね?」

「まあね。俺んそんなにカネある訳じゃないからさ、仕送りがしょっぺーのよ…いやまあ、カネ送って貰ってるだけ有り難いというか、申し訳ないんだが…」

「何の仕事をしているんです?」

「ほれ、近所にショッピングモールあるだろ?」

「買い出しに行ったあそこ…」

「あの中のスーパーの肉屋でな。まあ、フルタイムじゃないけどなあ」

「一応、共生組合でも仕事は斡旋あっせんしてるぞ?」と柿原さんは言う。

「オーナーさんの手伝いな。アレ気楽でいいけど時間、短いんだよな」

「手伝い?」またアバウトな名前の仕事だ。

「オーナーはあのトーラスビルディングのオーナーでもある…で、あそこの共有部の清掃とかな?」柿原さんが教えてくれる。

「後―あの人、道楽どうらくみたいな形で喫茶店をやっててそこの店番とかな?」と久井さん。

「はあ…色々あるんですねえ…」働いた事が無いからあまりピンとは来ない。

「俺もなあ…」と柿原さんは言いだす。なんだろう?

「ああ、柿原さん、収入厳しいもんな?」と久井さん。ここのお会計も持ってくれると言っていたのに。

「おう…あんましお前らに愚痴る事でもないが…まあ、共生組合の仕事はフルタイムって訳じゃない。安藤さんと長田さんは専従せんじゅうだが、俺はフリーランスって言うか、バイトって言うかの立場で関わっててさ。今も他の仕事と掛け持ちだ」

「大変そう…ですね。柿原さんは何処でバイトを?」

「ん?近所のパン屋よ。昼には上がるからさ、夕方に寮に行ってメシを作る。それが今の生活だなあ」

「自分の時間あるんです?」と僕は聞いてみる。寮の食事以外にもレクリエーションや今日の鍋の会だってやってるんだ。案外に忙しそうだ。

「ま、適当にサボるから気にすんな…長田さんはワーカホリックだが、俺はサボり魔だ」

「ならいいんですけど…」

「今は独り身だからいいんだろうが―どうすんの?彼女出来たら?」と久井さんはま、出来る訳ないだろうけど、みたいな顔をしながら問う。

「そーなったら…辞めるかもな。共生組合」とあっさり彼は言う。

「え?」と僕は驚く。今回の事の始まりは彼で。そんな彼が入寮してまもなく辞めたら結構心細い。久井さんだって卒寮はそんな先の話じゃないらしいし。

「安心しろ。お前が寮に入って安定するまでは面倒みるさ。ケツは持つ。それにしゃくだが―久井の思ってる通り彼女が出来るなんて夢みたいなもんさ」と彼は笑顔で言う。

「なんか済みません…」

「いや、謝るなよ」と柿原さんは苦笑する。

「そそ、ありがとう、で良いんだぜ?」と久井さんは言う。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


 彼らと別れたのは20時頃。駅までみんなで行って、久井さんは寮に、柿原さんは電車に乗って帰っていった。

 真っすぐに延びた広い道。そこを一人家へと帰っていく。街灯は明るいけど、住宅地であるからにぎやかさは無い。さっきまで3人で楽しくしゃべっていたのが夢みたいに思えてくる。途端に1人の寂しさが身に沁みる。今日はモッズコート調のカーキのアノラックに男物のベージュのイージーパンツを着ているんだけど、少し冷たい。アノラックの胸元のボタンを閉める。これで少しは暖かいはずだけど…


 自宅の高層マンションのエントランス。暖色だんしょくの照明が照らすそこは照明の色に反して無機質な雰囲気を放っている。生活感が感じられない。今までは特に何にも感じなかったんだけど、今日は妙に気になる。

 エントランスの中ほどには呼出用のインターフォンが鎮座ちんざしていて。ガラス張りの自動ドアが内と外をへだてる。インターフォンの端末のキーの下に鍵穴がある。そこに家の鍵を差し込み、右回せば僕の家へのドアは開く。

 中に入ると、ポストを確認。暗証番号どおりにダイアルを回す。中身は―何時も通りゴチャゴチャとしている。キャリアウーマンの仮面ペルソナを持つ母の欠点の1つが郵便物を確認しない事だ。前にライフラインの請求書をスルーして―僕もうっかりしていた―ガスが止まった事がある。どうやら引き落とし口座にお金が入ってなかったらしくて幾度いくどかの督促状とくそくじょうの末、支払い期限をブッチしたらしい。

 お風呂に入ろうとしたらバスタブに冷水が満ちていて、焦って電話した時、ガス会社の人にあきれられたっけ…


 呼び出したエレベーターは時間をかけて僕の居るエントランスに降りてくる。高層マンションの欠点の1つ、それはエレベーター待ちの時間が長すぎる事だ。他にも色々不満はある、でもまあ、住まわせてもらっているのだから文句を言うのは贅沢ぜいたくでもある。

 乗り込んだエレベーター。上にのぼっていく時にかすかな加速度かそくどを感じる。頭を軽く押さえつけられたかのような錯覚。さっきポストから回収してきた郵便物―ダイレクトメールとか―を確認しながら我慢する。

 母は色んな所で買い物するらしく、服屋や眼鏡屋、百貨店なんかのダイレクトメールが今日の収穫。ことごとくハイブランドなのがしゃくさわる。この服屋なんて僕には縁遠いところだ。

 そんな郵便物の中で異彩を放つものがあった。茶色のクラフト紙の封筒。そっけない字で宛先が記されていたのだが―

宇賀神うがじんいおり様」という字を見つけた時、僕は驚いた。僕に手紙?一体全体誰だろう?封筒を裏返せば差出人の名前。苗字を見た時、僕の心臓は嫌な音を立てる。

葛城かつらぎ歳文としふみ」そう…僕の旧姓は葛城だ。そして歳文、というのは父の事だ。一体全体、どういう事だ?冷汗をかきながら立ち尽くす僕の目の前でエレベーターは扉を開く…


□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


 僕の父の話。

 僕の父は一言で言えばお気楽なオジさんってところになるだろうか?取りあえず、母とは正反対の性格をしていたように思う。社会でやっていくためのペルソナとして、『表向き』クールだった母に対し、父は『表も裏も』何処かのほほんとした雰囲気を放っていた。仕事は長田さんと同じ営業。お菓子メーカーの営業部長。一応そこそこ偉いさんだったらしいけど、母と比べると覇気はきがないというか―適当ではあったような気がする。

 適当、という言葉で形容したけど、決していい加減、という訳ではない。中庸ちゅうようという意味合いで適当なのだ。バランス感覚に優れていたと思う。とは言えワーカホリックではあったけど。

 休みの日に取引先に呼び出される事が多い男だった。小さい頃、2人で買い物に出かけたら、急に会社からの連絡を受け、僕を放置して対応に行ったことがある。

 その時、僕はこの人まで僕を放っておくのか―とあきれたけど、帰って来た彼―僕はショッピングモールのゲームコーナーで時間を潰してた―は上手い事フォローを入れた。僕の欲しいものを買い与え、突然放って去っていった事を深く謝った。

「済まん。お前が大事じゃない訳じゃないんだ。でも、いおりをやしなうためには仕方のない事だったんだよ…」その言葉の中で『養う』のが僕だけだった事が妙に引っかかったけど、当時の僕は純真だったので、疑問には思わなかった。


 そう。思えばこの頃から父と母の隔絶かくぜつは始まっていた。



 昔ながらの価値観で言うのなら。

 男が女を養う、家を経済的に支える。

 でも現代ではそんな古臭い価値観はお呼びじゃない。男女同権の世の中では、男が稼ごうが、女が稼ごうが、結果として家が支えられるのであれば問題はない。

 でも、父は昭和の時代に生まれ、平成の時代に下積み時代を過ごした男だったのだ。自分が2人を支えたい、と願い、それをかてに社会を渡る男だった。

 しかしながら母は。キャリアウーマンで。結婚、出産に伴って職をしたけど、僕の乳離れと共に復職した。

「このまま家で一生を過ごす?御免ごめんこうむるわ」その言葉は父にとって受け入れ難いものだったのだろう。特に反対はしなかったけど…

「君、仕事出来るもんな」その寂しげな父の言葉は僕の耳にこびりついてる。


「子どもとは血が繋がっていても、伴侶はんりょとは契約にもとづいてチームを組んでいるに過ぎない」

 この言葉は離婚の際に父が僕に言った言葉だ。当時の僕は15歳。その当時の栃木の家での事。その家は父の会社の社宅で。母はそこから首都圏に勤めに出て行っていた…この騒動が始まるまでは。今はウィークリーマンションに避難している。

「…でも、僕の親権しんけんは取れなかったじゃん」と僕は申し訳なさそうな彼の顔に言葉を投げつける。

「アイツのアレを突けば―イケると思ったが、さすがに強いな、あのクールビューティーは」アレ。母が傾倒けいとうしだしたあの教えの事だ。

「でも―お父さんは―」

「そう、別の伴侶を見つけちまったからな…宇賀神さんとはここで契約終了。お互い、別の道を歩む」

「結婚するの?あの人と?」と僕は尋ねる。顔を合わせた事は無いけど、彼の新しい伴侶の事は聞かされている。それが離婚の際のアレコレの争点になったのは明確で。

「多分―するだろう」父は無情に言う。

「これで―僕は一人ぼっちだ、アンタが捨てたから」呪詛じゅそ。言わずには居られない。

「とは言え―面会権はあるからな…まあ、俺、転職で京都行くけどな」そう、この騒動の中でも彼は次の一手を進めていた。同業他社のヘッドハントを受けた。

「僕は―あの人のアレの絡みで福岡だよ…本拠地ほんきょちが近いからね」母もあの教えのお偉いさんの人脈を使い、福岡の新興企業で席を見つけたらしい…確か管理職に就くらしい。

「これが今生の別れって事にはならんだろう…お前、大学は京都に来たらどうだ?俺の出身校とかさ」

「僕、あの大学には興味ないよ?」

「京都…青年期を過ごすには悪くないぜ?」

「アンタの新しい伴侶に出くわしたくないから遠慮しとく」と僕は言う。

「そうか。元気でな…いおり」

「お父さんもやっとあの人から解放されたんだ、次は上手くやんなよ?」

「言われずとも…まったく気の強いトコは宇賀神さんに似たな」と彼は言う。いや、僕はどちらかと言えば父親似のつもりなんだけど。


□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


 それから父と会う事は無かった。年に一回、電話をかけてきて京都に遊びに来いと誘って来たのだけど、僕は断り続けていた…そう。用があるなら電話してくればいいのに。なんで態々わざわざ手紙を送って来たのだろう?意味が分からない。

 エレベーターを降りた僕は家に向かって歩んでいく。この20階の一番奥がウチなのだ。

 鍵穴に鍵を差し込み、回す。扉を音がしない様にゆっくり空け、入って直ぐの自分の部屋に逃げ込む。そして、明かりを点け、ダイレクトメールを適当な所に放りやると、茶色のクラフト紙の封筒を乱暴に開ける。中には薄い便箋びんせんが一枚。そこにそっけない父の字は並ぶ。そこに目を走らせる。最初は何故か上手く読めなかったけど、大体こんな事が書いてあった。

「久しぶりだな?いおり。面倒な時節の挨拶あいさつはぶかせてもらう。お前、最近、学校行ってないらしいな?宇賀神さんから聞いたよ、『あの子は独り、孤島へ行ってしまった』ってな。彼女らしい表現だ。比喩ひゆではあれど簡潔かんけつだ。お前は心を閉ざしてしまったんだな」そう、何もかもにうんざりした僕は、他人と関わるのを止めだした…

「そういう状態のお前に伝えるか迷いはあったが、知らせないのは義理に反すると思うから知らせる…子どもが出来てな。お前の母親違いの兄弟って事になる。男の子だ。それにともないゴタゴタしてはいるが…まあ、お父さんは元気だ」ああ。ついに父は僕だけの親ではなくなった…

「出産に伴って、陽子ようこは実家に帰る。しばらくお父さんは独身になる」いや、それは違うだろう。

「だから―この機会に京都に来い。どうせ暇してるんだろう?こっちで遊んでいけ。別にお父さんと一緒じゃなくても大阪や神戸も近いから暇はしないはず。金の事は気にするな。こっちで用立てる。もし。来てくれる気があるなら電話をして来い」いや…これから暇ではなくなるつもりだったんだけど…

「お前はなんで俺が手紙を書いたか不思議に思ってるんじゃないか?」という文が末尾まつびにある。そうそう、不思議なんだよ。一体どんなつもりで手紙なんて書いたんだよ…

「宇賀神さんが―ポストを見ないのは昔からの事でな?この方法なら彼女に俺の新しい子どもの事が聞えないだろう、知れないだろう、そう思って手紙を書いた。電話だと…お前の受け答えからバレかねん…別に知れてもいいが―もう他人の彼女にらん話を聞かせたくない」なんでそんな要らない気遣きづかいが出来るんだろう?これが世の中を渡るオトナってヤツなのだろうか?


 さて。

 今からすぐ電話をかけてもいいのだけど―この家には今、母が居る。日曜のこの時間は家で晩酌ばんしゃくをしながら海外ドラマを見るのが彼女の習慣だ。ついでに言えば唯一の趣味でもある。どうせ大音量で流してるからこっちの音には気が付く訳ないけど、万が一と言う可能性もある。

 電話をかけるのは明日でいいか…そう思った僕は、お風呂に入る事にした。母がお楽しみの間に、さっさと済ませてしまった方がいい。

 父さんからの手紙は破いて、他のゴミと混ぜて、屑籠くずかごに捨てておく。内容は覚えたし。まあ、家事なんてしない彼女が何かの拍子にコレを見つけるなんて億に1つもないけど、まあ用心することに越した事はない。

 部屋の扉から廊下の様子を軽くうかがい、洗面所とそれに続く浴室に向かう、そしてバスタブの上に備えつけられた給湯器のお湯張ゆはりボタンを押す。風呂が沸くまでは部屋に居ようと思っていたのだけど―ラーメン屋でお冷を飲み過ぎたせいで尿意がある。仕方ない、トイレに行こう、そう思って忍び足で廊下を歩いていた僕の目の前にナイトウェア姿の、凍てつくような目をした、彼女が現れる―






























  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る