5‐17

 9人は、誰も何も喋らずレストランを徘徊はいかいしている。我々を取っ捕まえようとしているのだろうが、しゃべらないところが、まるでゾンビのようで怖い。

 これがテレビゲームなら、YouTuveでの妻のようにマシンガンで殲滅せんめつできるのだろうが、相手は洗脳されているだけの生きている人間だ。しかも、津曲や耀もいる。襲われても殺すことなんてできるわけがない。


 9人全員が、厨房から遠ざかるように、向こうに歩いていった瞬間だった。

「行くで!」

 妻は立ち上がり、厨房を抜け出そうとした。私も一緒に立ち上がったそのときだった。


 バリッ、という何かが割れる音。靴底でスベスベマンジュウガニを踏んでしまっていたのだ。痛恨の極み。一瞬にして冷や汗が噴出する。

「アホぉ!!」

 9人が襲ってくる恐ろしさと、それに勝るとも劣らない妻の怒りの恐ろしさが見事に重なった。

「ごめん!」

「来月の小遣い5,000円減額や!」

「……」

 これで12月の小遣いは50%カットで5,000円となった。精神的制裁も肉体的制裁もキツいが、経済的制裁もキツい。しかし、妙に現実的な罰だ。ある意味、生きて帰還する揺るぎない意志、もとい確証を抱いているかのように。


 妻とともに、廊下を駆ける。スポーツ万能な妻は、足もかなり速い。確か、アイドル時代、『遁走中とんそうちゅう』という俊足のハンターから制限時間内に捕まらなければ賞金がもらえるという特番に出て、見事逃げ切ったこともあるらしい。

 ロクに食事を摂っていないはずなのに、私もついていくのがやっとだった。

 9人のメンバーたちも追いかけているが、狭い廊下は大人数では追いかけるのは不向きのようだ。互いが邪魔し合って、妻のスピードにはついていけないようだ。


「ここに逃げるで」

 妻は、関係者しか立ち入れないエリアの扉を開けた。操舵室を探すときに開けた扉だ。

 とりあえず妻についていくことにする。こういうときの妻は、運の強さなのか分からないが、結果的に大英断を下していることが多い。つまり、黙って妻を信じろと、長年の経験が私に告げている。


 妻が向かった先は、鍵の保管庫だ。何でここに逃げ込もうとしたのか分からない。ここは幾多もの鍵がぶら下がっているだけの、何もない部屋だ。

 よくよく見ると、この部屋には、各客室の鍵もぶら下がっているし、喫煙所の鍵もある。最初から、ここに来ていれば、グッと解決に近づいたのではなかろうか、と思うが、9人が我々を襲おうとウロウロしているときに、不用意に動き回ることはできない。確か、操舵室を探しているときも、ここの扉は開けた。もっと早く気づいていれば、と後悔している。

 そして、この部屋自体は、外からは鍵をかけられるようだが、内側からは施錠できないようだ。逃げ込むにはあまり適した部屋ではないようだが、妻にも考えがあるだろう。


 息を切らしながら、妻は私に言う。

「今夜や」

「今夜?」思わず鸚鵡返しをしてしまう。

「そうや! 解決編の始まりや。ここで待っていれば大丈夫」

 よく分からない。あのスベスベマンジュウガニで、すべての謎が解けたというのか。

 正直まだ、私は、頭の整理がしきれていない。

 私は、喫煙所を実際に確かめないと解決できないのでは、と思っていただけに、素直に凄いと思った。しかし、一方で不安もある。本当に確かめなくて大丈夫か。間違った推理を言ってしまうと、船は沈没するのだ。そもそも、喫煙所の検証が必要だと言ったのは妻ではないか。


「寝とってええで」妻は私に優しく言った。

「寝てられないよ。こんなときに」でも、これは妻の優しさだ。妻はいつも厳しいだけではない。確かに厳しさは際立っているが、その分、優しさもある、と思っている。「ありがとう」素直に礼を言った。


「無事、帰港したら、何したい?」

「何って……?」

 急な、しかも普段日常生活でもしてこない問いかけに、私は戸惑う。

「強は、パパは、本当、いつもアタシに遠慮しとんな。たまには主張していいんやで?」

 なぜかいつも以上に優しい。妻がこんなことを言うことは、よっぽどないのに。

「僕は、優がのびのびとやってもらえればそれだけでいい。優が、楽しく生きてもらえることが、やりたいことかな」

 我ながら気障キザな発言だ。私の心情を知っている者がいたとしたら、いつも妻の身勝手すぎる行動に頭を悩ませていたではないか、と大いにツッコまれそうだ。

「アホやなぁ……」妻は含み笑いを浮かべながら返す。妻なりの愛情表現だ。「そんな強が、パパが、アタシは好きや。さっきはありがとう。助けてくれて」

 気づくと、妻は私に口づけてきた。あまりにも久しぶりだったが、あまりにも自然な流れだった。乾いた土に一瞬にして水が染み込んだような気分だ。

 せっかくの客船にいながら、ロマンチックな景色を前にしてでなく、それとは正反対の殺風景な小部屋なのが惜しいが、それでも妻とこうやって一緒にいれることに。この上ない幸せを感じた。



 口づけで、気持ちが弛緩しかんしてしまったか、気づくと寝てしまっていた。寝落ちした私を気遣って、電気を消してくれたようだ。非常口誘導灯の微かな緑色の明かりだけが灯っている。

 またしても寝てしまったことを申し訳なく感じる。

「構わへん」妻は怒らなかった。「それより、もうそろそろ来るはずや。アタシの予想やと」

 誰が来るのか。

 妻の思考は完全には読みきれないが、事件がフィナーレに近づいているのは間違いない。

 きっと事件の解決に向けて、何かしらの舞台が整うはずだ。詳細は分からないけど。


 すると、待ち構えていたように。関係者しか立ち入れないはずの廊下から、こちらに足音が近づいてくる。

 心臓は早鐘を打つ。正直、相手がナイフを持っていたら、立ち向かえない。ここは狭い部屋。袋小路なのだ。


 しかし、妻はドーンと構えており、動じる気配はない。

 やがて、足音は、自分たちのいる部屋の前に立ち止まった。


 ガチャリと扉が開く。

 廊下の明かりによる明順応までのタイムラグと逆光の掛け合わせで、扉を開けた人物は見えなかったが、徐々にその者の顔が見えてきた。


 妻は凛乎りんことして、その者の前に立ちはだかった。

「ようこそ、この事件の。待ってたで! ガリツマちゃん!」

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