5‐16

 私は身構えた。もうこうなったら、開き直るしかない。売られた喧嘩は買うまで。

 一応、私はこれでも元・柔道部だ。しかも、妻からの肉体的制裁で、攻撃をかわす瞬発力と動体視力が鍛えられたはず。全員、背負投せおいなげをお見舞いしてくれるわ。


 しかし、私の意気込みとは裏腹に、9人は一斉に妻の方に向かう。

「何や! おめぇら! やめろ!」

 妻は、神輿みこしのように9人に担がれてしまった。

 妻は強い。ボクシングのパンチは、しっかり喰らうと私でも5分はまともに動けない。しかし、体型は細身だ。身長は164センチなので、女性としては高いほうかもしれないが、体重は本人申告によると46 kgしかない。だから、大の大人9人が集れば、運ばれてしまうわけだ。

 もしや、海に投げ捨てる気か。いちばん嫌な想定をしてしまう。しかし、ここはレストラン。大人1人投げ捨てられるような、大きな窓はないが、かと言って放置するわけにもいかない。

「やめろ!」俺は、9人の誰でもいいから引っ剥がす。しかし、1人を引っ剥がしたところで、残りの8人が軽々と持ち上げて行ってしまう。

 私は必死になった。がむしゃらに、1人、2人剥がそうとするが……。

いてっ!」強力な後ろ蹴りが、私の鳩尾みぞおちに決まる。

 しかし、こいつらはどこに連れて行く気だ。客室の方に向かっているような感じだが。


 お香の匂いは相変わらずプンプン匂う。しかし、どういうわけだが、この匂いをさんざん吸っている割に、私の身体には何も起こらない。力が抜けるわけでもみなぎるわけでもない。もちろん世界が色鮮やかに見えることもないし、理性がおかしくなることもない。あの、松本医師の診察や信夫邸で嗅がされたときのような明確な異変はない。少なくとも私にとってはただのアロマだ。

 でも、みんな確実におかしくなっているし、考える前に助けなければならない。妻はお香の効果が作用してしまっているのか。力が抜けてしまったのか、ただ抵抗し疲れてしまったのか、なされるがままだ。


 9人とともに、妻は客室の1室に入った。何とか、私もその部屋に入ろうとしたが、すんでのところで、藤村太に投げ飛ばされてしまった。見事な肩車かたぐるまという投技なげわざだった。藤村は柔道の有段者なのか。ガタイのいい男だが、パワーも桁違いだ。柔道経験者で上背うわぜいもある私が、不甲斐なくいとも簡単に床に叩きつけられたのだ。

 無情にも扉はガチャリと音がする。何でだ。客室の扉の鍵は壊されていたんじゃないのか。

 扉をドンドンと強く叩くも、誰も応じない。「開けろ! 開けろ!」と叫びながら、それでもドンドン叩く。やはり扉は開かない。

 すると、中から、イチバン聞きたくない音声が鼓膜を刺激した。

「いやぁっ! ヤメて! ほんまにヤメてぇ! それだけはっ!」

 関西弁混じりの悲鳴。間違いなく声音は妻のものだが、こんなことを叫ぶのは当然はじめてだ。

 想像を絶することが行われようとしているのは間違いない。暴行リンチか? 輪姦レイプか? その両方か!?


 鍵を探している暇なんてない。もう、力づくで開けるしかない。私は体当たりや蹴りなど、いろんな方法を試した。狭い廊下だから、やりにくいことこの上ないが、それでも我武者羅がむしゃらに扉に力を加える。探偵だから、密室トリックを解くように、華麗に開けられないのか、とかツッコまれそうだが、綺麗事なんか言っていられない。しかし、尽きていく体力と付随する焦りを嘲笑あざわらうかのように、扉もびくとも動かない。

「つ、強ぃ! た、助けて」

「優、待ってろ!」

 妻の悲痛な声が、痛いほど私の胸をえぐる。とにかく、1秒でも早くこの状況を打開しないといけない。


「ちきしょー!!!」

 私は、残された僅かな力を振り絞って、扉に体当たりをする。すると、なぜか不思議なほどに抵抗なく扉は開いた。勢いのあまり、私は思い切り蹈鞴たたらを踏んで、集団を押しのけ、妻が横たわるベッドに倒れ込んだ。

 妻は着ていたシャツが一部はだけて、下着があらわになっている。これからいよいよ輪姦レイプされようとしていたのか。

「行こう!」私は、妻の腕を取り、無我夢中で集団を、そして客室を抜け出した。そしてレストランまで走った。


「痛い! 痛いって!! アホ!」

 強く腕を引っ張りすぎたか。妻も身も心もボロボロになっているのに、申し訳ない。でも、いつもの調子に戻ったのか。妻の私に対する悪態が、逆に心地よく感じる。

「大丈夫か!?」

「大丈夫なわけねぇやろ! アンタが強く引っ張りすぎてせいで、アタシのご自慢の巨乳がモロ見えや!」


 見ると、ブラジャーがズレて、細身に不釣り合いな豊満な胸部が一部露出している。私でさえ久しぶりに見て、赤面する。

「わー、わー、わー! ごめんなさい!」

 私は、ジャケットを広げて隠すようにした。

「アホか。誰も見てへんわ!」


 すぐに、妻は服を直して、立ち上がる。不思議とあの9人は追ってこない。違うところを捜索しているのか。

「いまのうちや! 厨房を調べるで!」


 そうだった。厨房に証拠を見つけに行って、あの9人に襲われたことをいまになって思い出す。妻のほうが恐怖を味わっているはずなのに、切り替えが早すぎる。強い。

 厨房には、まだ例のお香の匂いが漂う。私には体調の変化はない。妻はどうか。

「優は、この匂いを嗅いでも何ともないの?」

「匂い? あ、あー。そう言えば、ちょっと、強に、酔い痴れちゃったみたいねん」そう言って、私の腕に、妻が腕を絡めて、しなを作って見せる。

 完全に演技で嘘だと丸わかりなのに、容姿が整いすぎて、ドキッとしてしまう。男って単純だと、自分で情けなく思う。


 兎にも角にも、いまのところ妻にもこの匂いは無害のようだ。

 『精如会』の事件で使った拮抗薬アンタゴニストがまだ効いているのか。いや、そんなことはない。津曲や耀は拮抗薬を飲んでいるわけだし、私は飲んでいないわけだから。


 ひょっとしてこの匂いは、魚臭とミックスされることで何かしらの効果があるのか。そんな仮説が頭によぎるが、無関係に妻は厨房に立ち入る。

 仮説が正しければ危ないんじゃないかと思ったが、妻は「魚、くっせーな」と言いながら、頭はおかしくはなっていない。

 

 妻はどこかから、キッチン用ゴム手袋を2組持ってきて、私に1つを渡してくれた。

「これが、生ゴミのゴミ箱やな!? さぁ、調べるで!?」

 すると、モワッと悪臭が立ち込める。昨日と比べて、常温下で放置された分、臭いがキツつくなっている。


 極力、臭いを感じないように、口で呼吸しながら、捌かれた魚を見ていく。これで一体何が見つかるのだろうか。

 それにしても魚が多い。魚だけじゃなくて、貝類やら、海老やら、いろいろなものが捨てられている。


 これらはすべて料理に使われたのだろうか。明らかに量が多いように思えるが。そんなことを思いながら、魚介類を出していく。

「これやないか? これや!?」

 ゴミ箱のいちばん奥底から、小さなものを取り出した。魚ではない。滑沢かったくな甲羅に奇妙な斑紋がある、あまり見慣れないカニだ。


 それもたくさんいる。何十匹と。しかも殻やハサミの部分が破られていて、気持ちが良いものではない。

 でもこのカニが一体何なのか。私の頭は疑問符でいっぱいだ。聞かずにはいられない。

「そのカニは何?」

「『スベスベマンジュウガニ』や」

「すべすべ? まんじゅう?」

 ギャグみたいな名前だな。すると、無意識に、妻の胸の谷間が目に入った。すべすべでさわり心地がまんju──。

「何、見て想像しとんねん!」両手に手袋をしているせいか、頭突きをしてきた。目から火花が出る。石頭の妻。めちゃくちゃ痛い。ボクシングで頭突きは反則なはずだが。


「このカニは、フグ毒を持つ毒ガニや? 熱に強いテトロドトキシンやから、ウナギのイクシオトキシンとちごて、焼いても食えへん」

「毒ガニなんているんだ? しかもフグ毒なの?」

「そうや。テトロドトキシンは、何もフグだけの専売特許やない。有名なのはヒョウモンダコと呼ばれる殺人ダコもテトロドトキシンを持っていて、噛まれると唾液に混じった毒が身体に入って、呼吸が止まるんや。そして、このカニもそうや。殻とハサミと脚の部分に毒を含むと言われている」

 妻がキッチン用手袋をつけた理由が分かった。つけないと甲殻類の殻で皮膚に傷が付き、スベスベマンジュウガニの毒を体内に取り込ませてしまうかもしれないからだ。

 同時に、ゲームという性質上、凶器がここにないとアンフェアだから、あえてゴミ箱に毒ガニを残した。しかし、すぐに見つかってしまってはいけないので、他の魚の死骸で隠した。そういうことなのか。

 それにしても、妻がやけに毒のことに詳しい。『東大皇帝』に出ていたのは7年前のことだ。それに『東大皇帝』でもこんなにマニアックなクイズは出ないと思う。

 ひょっとして私が不倫したら、毒殺されるのでは、と私は一瞬、全身がガクガク震えた。


「食べられへん毒ガニが、殻を破られて捨てられとる時点で、おかしいやろ? これがやっぱり凶器ってわけや! 毒を集めて、喫煙所のドアノブや手すりに塗りつけたんや。一応あれから他の参加者を見てるけど、タバコを吸っとる人も歯にヤニっぽいもんが付いとる人もおらへんから、喫煙所に細工をすりゃあ、ほぼ間違いなくキュウジを標的ターゲットにできるんやろ……」

 断定的な物言いに、少々の不安は感じる。いくら猛毒のテトロドトキシンといえど、こんな小さなカニから致死量分採取できるのか。でも何十匹も集めれば大丈夫なのか。それともやはり『未必の故意』なのか。


 そのときだった。レストラン、しかも厨房の近くに物音がした。

「来たで!」

 妻の声がささやき声に変わる。条件反射的に身を伏せた。物音の正体は、我々を襲った9人だった。

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