5‐14

 何でソリピーが、という疑問を抱いている余地はなかった。包丁は、マジックの剣のようなオモチャではなく本物だ。

 しかも、狭い廊下。逃げたいけど、逃げると、妻を見殺しにすることになる。普段の妻なら、右ストレートで返り討ちにするのかもしれないが、いまは鋭意嘔吐中なのだ。


 ここは、逃げずに戦うしかないのか、命に別状のない刺傷ならやむなしと考えるべきかもしれない。私は、考えるより先に、柔道ではなく、妻の見様見真似でボクシングの基本の構えをとる。何となくそっちのほうが、防御できそうな気がした。

 

 しかし、ソリピーは刺してこなかった。私の前で急に立ち止まり、包丁の刃先を、私の構えをかいくぐって、喉元に近づける。ある意味刺されるよりも緊迫感を覚える。

「あなただったんですね? 殺人犯は!?」

「えっ!?」

「推理の結果、あなたが犯人だという結論に至りました」

 ソリピーは明らかに思い違いをしている。私が犯人でないことは、私がいちばん知っている。

「ど、どういうことですか……」

「とぼけるんじゃない!」ソリピーは、威嚇するように大きな声を出した。妻の威嚇や恫喝には耐性があるが、それ以外の女性からのものには耐性がなく、私の肝っ玉は完全に縮んでいる。

 しかし、何か言わないと、このまま膠着するか、さらに激昂されて本当に喉を切られるかもしれない。勇気を出して声を振り絞った。

「私は本当に犯人じゃない。ま、まずは、その包丁を下げてください……」


 私の懇願がソリピーに通じてくれたのか、彼女は包丁を下ろしてくれた。

「せ、説明してください」



 ソリピーによると、私と妻、津曲と耀を除く7名は、私が犯人だと思っているらしい。冗談ではない。

 どうやら、笠原久嗣は刺殺ではなくて毒殺されたのではないかと。


 しかし、大前提として、食物に毒は入っていないとアナウンスされていたではないか、と反論したが、それも虚偽だとみんなは思っているらしい。

 笠原は魚が食べられない。逆に言うと、笠原が取ろうとするプレートに細工を施すことができるというのが、7名の主張だ。


 それなら、なぜ、笠原の死後のヒントのアナウンスで、『我妻夫妻に働きかければミッションクリアだ』なんて、わざわざ自分たちが不利になるようなことを言うのか、と反論したところ、逆にそれが狙いだと言ってくる。普通は自分が狙われるようなことはしないという心理を逆手に取ったのだと、考えているようだ。


「あー、すっきりした。復活したわ!」

 この悪いタイミングで妻がトイレから出てきてしまった。私が「危ない」と言おうとするや否や、「全部聞かせてもろたで。でも、残念ながらその推理は間違まちごうてる」と妻が反論を始めた。

「聞きましょう」

「まず、食事に毒物が入ってるんなら、通常は、食べて10分くらいの間に何かしらの症状が出る。でも、食べ始めて1時間くらいは食堂にいたけど、何も起こらんかったな。ボツリヌス菌の産生するボツリヌストキシン、フグ毒で知られるテトロドトキシン、強力な毒キノコ、例えばカエンタケで知られるマイコトリコテセンとかドクツルタケで知られるアマトキシン類とか、強力なものでない限り、なかなか死ぬところまでいかへん。せいぜい嘔吐か、下痢、眩暈めまいくらいやろう。ついで言うとボツリヌスは偏性嫌気性菌だから、素人が簡単に培養できるもんでもないし」

「詳しいんですね」

「アタシは、昔、クイズ番組に出て、東大生相手に勝ち進んできた女やから」

 そういえば、7年前、『東大皇帝』という番組のスタジオ観覧に行ったとき、桟原優歌は活躍しまくっていた。確か『全国高校生知力甲子園』の優勝チームの大将で、当時東大理Ⅲの女の子との一対一タイマンの早押し問題に勝って、大金星を挙げていた。あれから7年間、芸能界を離れても、そういった知識を維持していることが凄い。

「でも、皿はどうなんです。皿に付着させておいた可能性もあるんじゃないですか──」

「それもあり得へん」妻は即答だった。「理由は、キュウジは喫煙所で事切れとったからや」

「どういうこと? 旦那の皿に毒を塗って、指に付着させて、その指でタバコを触り、タバコを吸って死んだ。ありうるんじゃない?」

 ソリピーはあたかも私を犯人にしたいような口ぶりだ。ソリピーにとっては、旦那のかたきを早く取りたくてしょうがないのだろう。そしてその筆頭は、誰かに吹き込まれて、私にされている。

 しかし、皿に毒がついていた可能性はない。なぜなら、私は皿の汚れに気づいて、すべて皿を取り替えたのだから。もっとも、それをここで主張したところで、聞き入れられないこと間違いなし、であるが。


 ソリピーの指摘に、妻は別の切り口で反論した。

「この運営の狙いは、確実にキュウジを喫煙所で死なせたいんや。じゃなきゃあのアナウンスは成立しない」

「アナウンス?」ソリピーは理解が追いついていない様子だ。

「おかしいと思わんかったか!? アナウンスは、アタシたちの質問には一切答えず、ただひたすら一方的に情報を流していた。つまり、あのアナウンスは、事前に収録された音声を流しているだけや。言い換えると、運営のシナリオでは、確実にキュウジは喫煙所で事切れることになっとんたんや。だから、指に毒が付着したとかあり得へん。喫煙所に向かう前に、キュウジ指を舐めたらどうなる。運営のシナリオは崩れるで!」

「……」

 立て板に水の如く、妻はソリピーを論破した。

「アタシの推理を教えたる。アタシは、喫煙所に何かからくりがあったんやないかって思うてる。その細工を見破られへんようにいま喫煙所は施錠されとるんや。明日の昼には、鍵を見つけるか、蹴破るかして、喫煙所の検証をやるつもりや!」

 何と、妻はそんなことを考えていたのか。しかし、明日の昼って、やけに限定的だな。

 一方、ソリピーは犯人の憶測が外れたことを相当悔やんでいるのか、歯噛みしている。

「分かりました。いまのところは、まだ我妻さんが犯人だって証拠が足りないから、いったん引き上げます」

 そう言って、ソリピーは引き上げていった。

「だから、ちゃうてんねん」

 最後の妻の言葉は彼女に届いたかどうかは分からない。



 しかし、妻の推理は理に適っていた。この舞台ゲームを用意した黒幕は、確実なシナリオを描いていて、我々はそれどおりに踊らされているのだ。

 事前に用意したアナウンスは、確実に笠原久嗣が喫煙所で絶命するシナリオを描いていたことを裏づけている。換言すれば、それ以外の場所で息絶える可能性の一切を排除できるといって、差し支えないだろう。

 そう考えると、やはり喫煙所が怪しい。どういう仕掛けか。


 喫煙所の中にボウガンが仕掛けられていた? 笠原が入ると毒ガスが発生する装置が仕掛けられていた? 喫煙所の手すりに高圧電流が流れていて触って感電死した。

 いずれも荒唐無稽な発想だと自分で自分を一笑に付した。

 ボウガンも死体に矢が刺さった痕跡もなかった。毒ガスが発生したら異変に気づいて笠原は脱出するだろう。高圧電流を流すなんて仕掛けが大掛かりすぎる。


「旦那の皿に毒を塗って──」

 先ほどソリピーは言った。そっか、毒なら──。

 喫煙所のありとあらゆる場所に毒を塗ることはできるかもしれない。なるほど、妻はそれを確認するために喫煙所を検証するということか。

 私はようやく妻に理解が追いつき、1人合点がいった。


 しかし、一方で、ちょっとした疑問も残る。さっき、毒の付着した指でタバコを触り、そのタバコを吸うことで死に追いやったみたいな話をしていたが、本当にそんな方法で、確実に死に至らしめることができるのか。毒性の強い毒物を入手できたとして、それを致死量以上、経口摂取させることができれば、死に至るだろう。でも、タバコをくわえて、ちょっとは口唇に毒は付着するだろうが、それでも致死量というのは、かなり難しいような気がする。しかも、喫煙所の手すりやドアノブなど、触りそうな至るところに塗りたくるとしたら、相当な量の毒物を入手しなければならない。

 

 私は、妻に、そんなことも知らんのか、となじられる覚悟で、疑問をぶつけてみた。

「指に毒がついたとして、それを直接舐めるんなら分からんけど、タバコを吸うだけじゃまず死なんやろ」

 妻はあっさりと言った。私を罵倒することはなかった。

「子供や小柄な女ならまだしも、若い成人男子を死なすにゃ、相当な量の毒が必要や。だからこそ、あの剣が怪しい」

「あの剣?」刺さっていた剣のことか。直接的な死因を探っていたのに、ダミーの死因に話を戻すなんて。


「アタシはな、あの剣は毒で殺せなかった保険やと考えてん。誰かが、引っ込むオモチャの剣で、キュウジを刺せと指示したが、実は引っ込まない本物の剣だった……」

「そんなこと……。でもアナウンスは、刺殺ではないって言ってたんじゃ……」

「剣が『直接の死因ではないかもしれない』って言うとったやろ? つまり、黒幕もどう転ぶかわからんかったんや、毒で死ぬか、剣で死ぬか。だから、毒は『未必みひつの故意』ってことになる」

 『未必の故意』。死ぬかどうかは不確実だが、発生するかもしれないと予見し、かつ、発生することを認容することをいう。


「もう一つ言うとな、剣で刺した人間も、大方の予想はついとる。証拠はないけどな」

「ホントに?」凄いな、妻は。船酔いでグロッキーなはずなのに。考えは冴えに冴えている。

「嘘ついてどないすんねん。ま、とりあえず、まだ時間はあるし、もう少し確証が欲しい。毒を使ったかどうかも、正直確証はない。誰も頼れる人間がおらんし、アタシたちだけで、絶対クリアさせるで!」

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