5‐11

 目を覚ますと、すっかり日が昇っていた。

「ヤバい!」私は思わず、身体を起こした。妻と手をつないで布団に臥し、寝落ちしてそのまま朝を迎えてしまったようだ。


 隣に妻はいない。隣どころか部屋にはいない。もう起きたのか。起きて顔でも洗っていれば良いが、そうでないとしたら……。嫌な予感が頭をよぎる。

 私は、寝間着のままベッドから飛び起きた。

ゆう! 優ーっ!」

 廊下を右往左往しながら、私は妻の名を叫ぶ。

 こんな大声で妻の名前を呼ぶことなど普段はないが、小っ恥ずかしさとかそんなもの気にしていられない。とにかく、安否を確認せねば。


 しかし、募る焦りとは裏腹に、妻の姿はない。どこに行ってしまったのか。誰かいれば、見かけたかどうか訊けるが、残念ながら誰もいない。

「優ーっ!!」

 トイレで嘔吐でもしているのだろうか。それらしい音は聞こえないが、命には代えられない。意を決して、女子トイレを扉を開ける。

「何、女子トイレに入ろうとしてんねん!」

 聞き慣れた関西弁。まさしく我妻優だった。と同時に、強烈な蹴りを飛んできた。心の備えも、受け身もとるすきがなかった私は、180 cm以上もある巨躰きょたいが一瞬だけ宙に舞い、盛大に尻餅をつく。どうやら化粧をしていたようで、両手が塞がっており、キックをお見舞いしたと思われる。


「良かった! 生きてた!」

「アホか? 無敵なアタシがそう簡単には死なん」

 昨日の夜の恐怖はどこに行ってしまったのか、と心の中で盛大に突っ込んだのは言をたない。



 私の心配は結論を言うと、完全なる杞憂きゆうであった。

 私はこのとおり生きているし、怪我もしていない。妻も襲われていない。大した私物はないが、それが盗られている様子もない。妻も、いつもどおり化粧ができていることだし。

 このとき一瞬、私の中で違和感がよぎった。

 しかし、「ほら、さっさと着替えて、レストランに行ってや。朝食やろ?」と促され、その正体に気づく前に掻き消されてしまった。


 部屋に戻って、着替え、レストランに行くと、もう既に妻とソリピーこと蘇我孫子以外の全員がそこに集まっていた。

「奥さんはどうした?」藤村太が私に問う。

「もうすぐ来るさ」

 何事もなかったかのように私は答えたが、次に出た発言で、私は怒髪天を衝いた。

「なーんだ。残念。てっきり我妻探偵さんだけ来たから、物別れか死んだかを期待したんですけどね」

「誰だ! いま言った奴は!?」

「はーい! 俺です。正直、桟原は、こういう場面で調和を乱す問題児! いなくなってくれた方がいい」何一つ悪びれることなく市川は言う。

「もう一度言ってみろ! 妻を愚弄ぐろうするな!」

「市川くん! やめて!」と桜岡が嗜めるが、構わずあと一歩で手が出そうな勢いで、私は市川に詰め寄った。しかし市川は怯まない。

「我妻さん。何で、あなた達がターゲットになっているか考えたことあります?」

「は? 分かるわけないだろ!」

「鈍いですね。ここにいる人たちは、ソリピーを除いて、みんな何かしら、我妻さんか桟原のどちらかに何かしらの負の感情を持ってるんですよ」

「そんなことあるわけ──」

 しかし、遮るように市川は言った。


「まず、三浦さん夫婦は、あなたを節穴探偵だと幻滅している。次に、藤村探偵夫妻。彼らは、サウザンド・リーブス探偵社の社員だ。元・社員の我妻さんは、サウザンド・リーブスに世話になっておきながら独立した裏切り者で、そこにいる姫野耀さんの依頼のときにも、サウザンド・リーブスの顔に泥を塗ったとか」

「言いがかりだ。あれはサウザンド・リーブスの自業自得だ! 何でそんなことを知ってる!?」

「昨日の夜、我妻さんたちとソリピーを除くみんなで作戦会議したんですよ」

「作戦会議?」

 しかし、私の質問には答えず、我々に対する参加者の恨みつらみを語り始める。

「続いて、桜岡! 桜岡は桟原のことを、トップアイドルの座を脅かす目の上のたんこぶで、やたらとメンバーに厳しく当たる大嫌いな存在だった、と」

「やめて!」と桜岡本人は懇願するが、市川はお構いなしだ。

「そして、一方的に卒業、引退し、ING78を解散に追いやった人物として、桟原は語り継がれているそうだな」

「てめぇ!」

 私は、滅多に使わない言葉で罵倒した。我慢の限界を超えている。

「ソウくんだってそうだろ?」今度は、津曲に話を振る。「ING78を長年追いかけ、サジコ様と崇めたてまつってたソウくんが、我妻探偵をよく思うはずがない。きっと横恋慕してるはずだ!」

「な!? そんなこと!」津曲は否定したが、市川は続ける。

「そして、最後、姫野耀さん。あなただけは、我妻夫妻に恨みはないと思ってたが、話を聞くと、我妻さんは一回依頼を断ったそうな」

「そ、それは、あたしが未成年だったからで──」

「もし、早めに相談に乗ってあげて、内々に調査を進めていれば、姫総デザインの悪事をでっち上げた記事が、週刊白鷺はくろから出ることもなかったかもしれない。実際、少なからず、決まりかけてた契約が、あの記事で何件かパーになったそうですね。いくら、虚偽の記事でした、と言っても、離れた客は完全には戻ってこない。1つの契約で何千万の金が動く住宅メーカーでは、大きな損失となった」

「何が言いたい?」私は市川を鋭くめつけた。


「宣告しておく。今日1日だけ猶予をやる。もし、そこで解決に導かなければ、夜、あんたか桟原のどちらかの命に危険が及ぶ」

「ふざけんな!」

「仕方ない。こっちだって命が懸かっている。この状況ならあんたたちを殺したって、『緊急避難』となるだろう。どうせ解決しなければ、あんたたちも含めてみんな仲良くお陀仏だぶつだ。1人死ぬのと、全員死ぬのと、どっちが罪が軽い?」

「──っく!」私は歯噛みした。

 『緊急避難』とは、本来であれば、殺人など犯罪として厳しく処罰されるべき行為であっても、急迫な危険・危難を避けるために犯したと認められた場合は、ことを指す。

「本来なら、あんたは、みんなを助けるために、ここから入水じゅすいしてもいいくらいだと思いますよ。それが人助けってもんです。探偵冥利に尽きるんじゃないですか?」

 市川の言っていることは無茶苦茶だが、自分か妻のどちらかが死ねば、みんなが助かる。死ななければ、全員死ぬという究極の選択を迫られた場合、前者を選択することに、正当性はあると言える。酷い話だが、これが現実だ。

 私が言い返せないでいると、満を持してか、ドスの利いた関西弁が聞こえてきた。

「何や、市川。上等な口聞いてやがんな!? オラ! そうやってみんなを煽動せんどうする気かもしれんが、無駄や! アタシたちは絶対死なへんし、別れへん。そして、何としても、事件を解決に導く」

「それができるか分からないから、手遅れになる前に提案してやってんだ。ひょっとしたら事件の解決なんて名ばかりで、正解のないゲームかもしれないだぞ! 桟原!」

「正解は必ず導き出す。アタシと旦那についていけば、絶対助かるんや! この船を泥舟にする気なら、いますぐそっから海に飛び込めよ!」

「元・アイドルとは思えない、問題発言だな。帰港したらタレこんでやる!」

「やってみろや! この泥舟の船長が!」


 何という激しい応酬。こういう舌戦では、妻は無敵の強さを発揮するが、いまはみんなの心を1つにすることが大事ではないか。

 レストランでみんなで朝食を摂るはずが、すっかりそんな雰囲気ではなくなってしまった。

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