5‐10

 結論から言えば、他のプレートに毒らしきものはついていなかった。

 毒と表現したのは、私が目視だけで毒か否かを判断できないからだ。あとにおいがある毒としてよく聞くのは、アーモンド臭で知られる青酸カリ(シアン化カリウム)だが、この臭いは胃酸と反応した青酸ガスのものだそうで、服用前の毒物はほぼ無臭だという話もある。じゃあ、死体となった笠原久嗣にアーモンド臭がしたか。正直、凄惨な死体のショックの方が大きく、臭いにまで気が回らなかった、というのが正直なところ。たとえ、臭いを感じたとしても、せいぜいタバコの臭いだったろう。そして、施錠された現在、ドアをぶち破らない限り、それを確かめるすべはない。


 妻は、「いったん舐めてみたらどうや」と言ったが、妻が言うと冗談なのかどうかが分からないから怖い。この場合、冗談だったのだが。


 あまり期待はしていなかったが、厨房での収穫はなかった。ひょっとしたら毒殺じゃないかもしれない。アナウンスは『刺殺以外の可能性』と言ったまで。撲殺もあるし、絞殺、扼殺、銃殺、電殺etc……。大海原という、凶器を隠滅するにはこの上なく絶好なロケーションで、殺害の選択肢はいくらでもあった。


 妻と一緒に、いったん自室に戻ろうとして狭い廊下を歩きながら、そんなことを考えていると、妻が言った。「わりぃ、トイレ行ってくるわぁ」

 急に現実に引き戻されて、私も「は、はい!」と言う。

「やっぱ、気持ち悪くてな。船はあかんわ。吐いてくる」

 妻はつとめてシャキッとしているためか忘れかけていたが、船酔いしていたのだった。

「だ、大丈夫?」私は声をかけて、妻の入ろうとするトイレに入ろうとした。

「何、女子トイレに入ろうとしてんねん」そう言って、私の頭を漫才のツッコミのように叩く。その流れがあまりにも自然で、心の準備ができないまま、頭がジンジンと響く。

 そうだった。ここの客室は見たところトイレはなく、共用である。もちろん、特等室とかには個々のトイレがあるのかもしれないが、施錠されているため使用できない。

「ごめんなさい。じゃ、その間に自分もトイレ行ってくるよ……」

 そう言って、痛みの残る頭を手で抑えながら、トイレの扉を開ける。この男子トイレは狭かった。男性用の小便器がなく、手洗い器と、洋式の便器しかない。便器と手洗い器とは鍵付き扉で境されている。


 嘔吐えずいている妻を心配しながらも、先ほどの謎の続きを考える。

 まず、殺害方法が謎である。もし私が犯人の立場なら、間違いなく凶器から犯人特定につながるような方法で、殺害する。前述のように凶器を窓から捨ててしまえばいいからだ。

 しかし、久嗣は剣で一突きされて倒れていた。例えば、剣がフェイクで、別の方法で殺害されていたということは充分有り得る。そのミスリードとして、剣をあえて残しておいたと。

 ところが、アナウンスのヒントで『刺殺でない可能性』をあっさりと打ち明けている。あのヒントは、事件解決のために得た努力の賜物ではなく、事件発生と同時に勝手に出たヒント。つまり、実質、設問の一部である。


1.直接の死因が刺殺でないならば、どうやって殺されたか。

2.既に別の方法で殺されていた(もしくは死にかけていた)久嗣を、改めて刺し殺そうとした誰で、何のためか。

3.2の理由が1をカモフラージュするためだった場合、アナウンスのヒントであっさりと打ち明けたのはなぜか。

4.1~3を明らかにした上で、直接的な死をもたらした犯人は誰か。

 これらの謎を解かないと、絶対ミッションクリアに至らないような気がした。未だ解決の糸口は掴めていないが、整理できただけでも一歩前進だろうか。


 私はとうに、排尿し終えていたが、謎を整理する間に時間が結構すぎてしまった。いけない。妻は外でお待ちかねかもしれない。

 便座から立って、ズボンを直すところで、誰かがトイレの扉を開ける音がした。

 いま、入ってますよ、と言おうとしたが、それよりも早く洋式トイレのドアをノックする音がする。鍵がかかっているのは、一目瞭然のはずなのに、開けようとする。トイレは他のフロアにもあるはず。漏れそうだからノックしているようには思えなかった。


 私は、言いしれぬ恐怖を感じた。同時にトイレに入ってから後悔した。

 誰だ。例えば市川は我妻夫妻われわれに恨みを抱いている。前科のある市川なら、私を殺しかねない。

 そして、メンバーにとって放っておいたら船が沈没するかもしれない中で、いま分かっている確実に助かる方法は、私が死ぬ、もしくは私の妻が死ぬことだ。つまり、1人になると危ない。


 ここを出たら殺される。しかも、こんな狭いトイレでは、攻撃を回避できない。しかしながら、いままさに妻も襲撃されているかもしれないから、出ないわけにもいかない。

 究極の選択。加えて、即座に決断しなければならない状況で、損得勘定抜きで私は扉を開けた。いくら妻が強い強い元・ボクサーでも、助けに行かなければならない。意を決して私は洋室トイレの扉を開ける。


 その瞬間だった。

「何してんねん、オラ!」

 男性トイレのドアの扉を乱暴に脚で開けた妻と私は目が合った。同時に、妻の開けた扉の衝撃で、ある男が頭を打ったのか、倒れ込んでいる。

 この男は……。

「津曲……!?」「ガリツマちゃん!」私と妻は同時にその者の名を呼んだ。

「あ、我妻さん。も、漏れそうです。早くトイレを開けてください!」


 私も妻も拍子抜けして、津曲にトイレを譲った。

 妻は、私が女子トイレに入ろうとすると攻撃してくるくせに、自分が男子トイレのドアを開けたことを棚に上げている。だが、私を心配してのことなので、何も言わない。それよりも……。

「大丈夫だった?」

「しっかり、出すもんは出してきた! もう、しばらくは大丈夫やで!?」

 普通、嘔吐しても簡単には気持ち悪さは消えないはずだが、殊勝な妻だと改めて感心した。


 私と妻は、自室に戻った。

 しかし、戻っても息はつけない。何せ、この扉は意図的に鍵が破壊されているのだ。

「今夜は、一緒に過ごしたほうが良さそうだね」

 私は言った。この部屋はシングルベッド。本来はお一人様用だろう。現に、最初ここに連れてこられたとき、私と妻は別々の部屋にいた。しかし、命を狙われかねない状況では、例えばどちらか一方でも起きて、攻撃を防がないといけない。

「はぁ、何、どさくさに紛れて、アタシを夜這よばいしようとしてんねん」

 からかうような小悪魔のような目つきで私に言う。

「な、何を、こんな状況で!?」私はまごついた。そもそも、家族なんだから毎晩一緒に過ごしているではないか。

「ええで、ここで死んだら、一生後悔やもんな。冥土めいどの土産に夫婦仲睦まじくってのも、ロマンチックかもしれへん」

「はぁ! そんなこと!?」

 私は顔が紅潮しているのを、否が応でも自覚する。

「ジョーダンや! まったく冗談通じひん杓子しゃくし定規な男やなぁ。ま、根詰こんつめても仕方あらへん。そんくらい力抜いてもバチは当たらへんで」

「……」こんな緊迫した状況でからかわれたことに腹が立ったが、でも、妻なりの優しさだろうか。

「絶対、生きて戻ろうな。強」

 そう言って、妻は背伸びして、私の頬に口づけしてきた。いきなりのことだった。こんなこともご無沙汰だったので、嬉しさよりも驚きと戸惑いのほうが大きかった。



 その晩、私と妻は常に一緒に行動した。当然、シャワーとトイレだけは、さすがに一緒に入るわけにはいかなかったが、そのときも、入口の外で、一方が待機することにした。シャワーもからす行水ぎょうすいの如く短時間で済ませた。

 部屋は施錠はできないが、厨房から調達した使われていない釜を持ってきて、内開きの扉の内側に置いた。襲撃されても少しでも時間が稼げるように。

「おやすみ」

 船に備えられていた寝間着ねまきを着た妻は私にそう言った。

「おやすみ。でも僕は起きてるよ。誰かが襲ってくるかもしれない」

「ありがと、強。ほんじゃ、お言葉に甘えるわ。適当なとこで起こして。交代するから」

 そう言って布団に入った。


 10分ほど経つ。正直、スマートフォンも圏外なので、思った以上に何もない部屋で起きて時間を潰すのが長く感じられる。まだ、10分しか経っていないのかと思った。

「眠れへん」妻の声だ。「強も、布団に入ってほしい」

 妻は、寝つきは悪くないはずだが、珍しく眠れないという。環境、状況が安眠を許さないのはよく分かるが、妻の肝っ玉なら、そんなこと関係ないと思っていた。

 

 私は黙って、布団に入る。

「ありがと」妻は私の左手の指に右手を絡ませる。恋人つなぎの要領で。

 そのときの妻の表情は、我が妻ながら、スッピンのくせに息を呑むほどに美しかった。娘が生まれてから、間近で妻の顔を見たことは実に久しぶりだったかもしれない。

 同時に気づいた。妻が小刻みに震えていることを。部屋は決して寒くない。それでも震えているというのは、怖がっているのだ。


 トップアイドルとして酸いも甘いも経験してきた。出会ってから、いろんな苦難をともにしてきた。

 どんな逆境も妻の強さがけてきた。そんな妻が怯えている。

「強も疲れたやろ。眠たかったら寝ていいで」

 口調こそ関西弁で強がっているように見えるが、それは決して本心でないと思った。

 手をつないだことで、震えは収まってきている。そして、私の方も、手をつないだことで想像以上の安心を感じた。

 

 結婚7年目にして、妻の意外な一面を見た。やはり、私は妻を守り、無事に帰らなければならない。改めて心に誓った。

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