5‐7

 操舵室は、妻の言うとおり無人の空間だった。ただ、ナビゲーションモニターは動いている。操舵室は、一見航行に必要な機器は起動しているようだった。

「どういうこっちゃ……?」

「遠隔操船機能っすね」妻の疑問に、いち早く答えたのは津曲だ。「国交省が、船舶の自動運航技術を実用化しようとしてるのは知ってましたけど、まさかこの船が……。やられましたね。俺らは完全に、相手の掌で踊らされてる」

 操舵室にいる一同は、みんな、静かになってしまう。妻は、冷静に津曲を見据えている。

 せめて航海士を説得して、説得できなければ脅してでも、Uターンさせる余地はあったと、希望をいだいていたのだから。

 

「あの……、せめて俺らはどこに向かってるのか、分からんもんなんですかね?」沈黙を破るように、それまで静かにしていた三浦光之が言う。「よく知らないですけど、こーゆーのって緯度とか経度とか載ってないんですか?」

 確かにそうだ。光之は思いのほか冷静だった。

「あ、これかなぁ?」藤村太が言う。

 ナビゲーションモニターには、目まぐるしく動いている数字がある。

「この数字の動き方を見ると、たぶん、小笠原諸島の東側を南行しているようだな。経度はあまり動かないのに、緯度はどんどん下がっている」

 とりあえず、まだ日本からそう離れていないところにいるというところか。だからといって、こんなところで難破してもらっても困るわけだが。

「もうちょっとこのモニター表示って変えられないのかな。もっと広域にするとか」

 藤村太がモニターを、スマートフォンの画面表示を縮小させる要領で、小さくしようと試みた。しかし、うまくいかないようだ。これって、タッチパネルなのだろうか、と思った瞬間だった。


 ブーッ!! ブーッ!! ブーッ!!


 急に大きな音が、操舵室に鳴り響いた。大きすぎる音に、一斉にビクッとする。

「な、これって、勝手にいじろうとすると、警告音が鳴るんすか!?」

 津曲が言うと、「そ、そうみたいだな。消せないのか」と藤村。

 しかし、30秒ほど鳴り響いた後、ようやく静まった。寿命が縮まりそうな不快な爆音に、肝を冷やしたに違いない。


「どこに向かってるかくらい知りたかったけど、あんま、触らんほうが良さそうだな……」

 再び、沈鬱なムードが襲う。 


「ま、しゃーない。操縦することが叶わんなら、敵の要求どおり、事件とやらが起きるのを待たんとあかんな……」

 妻にしては珍しくその場を引き下がったと思う。

「そうですね。ひとまず、どんな事件かわからないけど、日も落ちかけていることだし、レストランで飯でもしながら作戦会議しましょか」

 藤村太が言う。時計がないからよく分からないが、日没だってことは分かる。確か11月の終わりくらいだろうから、夕方5時くらいといったところか。


 今回集まった面子メンツを見てどうなるかと思ったが、ミッションにクリアしないと沈没するという究極の脅迫を受けてからか、逆に一体感が出た。得てしてこういう場合、恐怖で取り乱し、秩序を乱す人物が1人や2人いてもおかしくないはずだが、意外にも冷静である。ひとえにこれは妻のイニシアチブの賜物たまものかもしれないが、それにある意味いいタイミングで探偵の藤村太が同調しているのも、統率が取れていることに一役買っているかもしれない。ちょっと悔しいけど。


「ご飯は、誰が出す?」藤村太が言う。藤村は暗にこういう仕事をやりたくないことが窺える。

「我妻さん、こーゆーの得意じゃないっすか?」と津曲。

 何だよ、雇われている身のくせに、と私は心の中で反発する。何かあったら何でも俺かよ。

「せやな。わりぃけど、強さぁ、頼むわ。でも1人じゃ大変やろから、耀ちゃんも手伝ってや」

 妻の夫に対する人使いの荒さは、物々しい船上でも変わらなかった。でも、ムカムカしない。平時でも、妻が忙しいとき、ご飯を用意したりすることはよくやっている。むしろ、この異常事態において、あえて平時と変わらぬ対応をすることで、私に冷静さを与えてくれているのだと思っている。

「さすがは、我妻さん。人間できてますね!」

 厨房に移動し、エプロンを着用中の耀は、私に対しそんなことを言う。

「これくらいいつもやってる。逆にこういう状況だからこそ、いつもやってることをやるってのが大事なんだ」

「そう思えるなんて、まさに悟りの境地ですね。私のパパなんて社長で忙しくて、家事はママに任せっきりなんです。やっぱ、旦那は料理を用意しれくれる人に限る!」

 褒められているのか、けなされているのか。微妙に分からなかったが、そこはまだ年端も行かぬ新成人JK。大目に見ることにする。


 レストランには、もちろんウエイターやシェフがいるわけではないが、厨房には食材があると言った。その言葉どおり、大きな冷蔵庫に出来合いの1プレートが12人分揃っている。プレートは6種類あって、それぞれ人数分あることから……。

「1日3食できっちり2泊3日の6食分ってことやな」と、気づくと妻が厨房を覗きに来ていた。

 換言すると、3日以上の航行は認められないということだ。しかも、事件が起こるまでのこの時間も3日間に含まれている。実質、シンキング・タイムはもっと短いということか。食事なのに、思わず気が重たくなる。

「あと、調味料とかも揃ってるみたいですね」今度は耀の声。厨房の戸棚を開けている。

 もともと、クルーズ船のキッチンなんだから、そのあたりは一通り揃っているのだろう。食紅とか、あまり要らなさそうなものまであるし。


 妻は、私と耀に、「メシは任せたで」と言い、レストランの席に戻っていった。

 冷蔵庫からプレートを出す。今夜は、鮭のムニエルのプレートでも出すか。とりあえず、全員同じものを給仕する。しかし、皿の1枚が汚れているのが気になった。

「プレートがちょっと汚れてないか?」

「え? そうですか? たしかにちょっと黒いですけど、そんな、気にならないですよぉ」

 このJKは、名門お嬢様学校に通う社長令嬢JKの割に、そういったところを気にしない。妻はきっと気にするだろう。そして、言うはずだ。「あかん、汚れた皿は食欲なくすわ! やり直し!」、と。

「取り替えよう。全部キレイなお皿に!」

「え、マジっすか? 几帳面だなぁ……」

 私は、食器棚から。ピカピカの皿を12枚持ってきて、菜箸で綺麗に盛り付け直した。そして、レンジでチン。その間、耀は味噌汁と、ご飯を人数分よそっている。あと、お茶も。

 ところで、どうでも良いことかもしれないが、この厨房は結構魚の臭いがキツいなと思った。生ゴミ用と思われるゴミ箱をのぞくと、先に運営スタッフの誰かがここで調理でもしたのだろうか、さばかれた魚介類がたくさん入っている。船外で調理したものを持ってこいよ、と思わず心の中で毒づいた。


「我妻さーん。こっちはできましたよぉ。あれ、どうしました?」

「プレートの1つに、鮭のムニエルが入っていない」

「あ、本当だ。何で?」

 鮭の代わりにチキンのホワイトソースがけが載せられている。よくよく思い出してみると、このプレート、移し替える前は、黒い汚れが付着していた皿に載っていなかったか。

 そんなとき、ふと、7年前のどうでも良いはずの情報が流れてきた。笠原久嗣は、魚全般が苦手で食べられない、と。

「いや、大丈夫だ。この船は、どうやら、乗員の好き嫌いまで、事前に把握してるみたいだ」

 ということは、やはり、ここに集められた客は、偶然ではなく必然的に集められたことになる。それが裏づけられただけでも、多少の前進か。



「お待たせでーす」

 エプロン姿の耀が言う。

「遅かったよ」

「ごめんねー。我妻さんが、いろいろ張り切ってね」

 すると、桜岡が私を見て、急に吹き出した。

「どうした?」

「ごめんなさい。姫野さんのエプロン姿はいいとして、我妻さんのエプロン姿がどーもおもしろくて」

 お腹を抱えて笑っている。すると、つられて藤村妻、蘇我孫子ソリピーまで笑い出す。

 不本意ながらも、ピリピリムードの船内が、少し和んだようだ。笑われて、あまりいい気はしないが、きっとこれも妻の作戦だろう。そういうことにする。


 プレート、味噌汁、ご飯が、みんなのもとに渡る。やはり、久嗣は、鮭ではないプレートを持っていった。


「で、何か、推理に進展はあったんですか?」耀がみんなに聞く。

「なーんも。やっぱり、事件が起きてみないと分からないね、って桟原が」こう答えるのは市川妙典だ。

 やはり珍しいな、と思った。こういう場面では、思い切り推理力を発揮するのが妻なのだが。

「ごめんなー。やっぱ、この船の揺れがアカンみたいや」妻はどこかぐったりしている。やはり本調子ではないのか。


「とりあえず、事件とやらが起こるの、待たないといかんですね」三浦光之が言う。

 何となく、解散の雰囲気になる。各々は返却口に下膳する。

「僕、一服してきます」と笠原が立ち上がる。客室とは違う方向に。どこに行くのか。トイレか。

「じゃ、私も」追従したのは、三浦美羽。


「じゃ、俺も休みますね」津曲が、最後に皿を片付けながらそんなことを言う。。

 何だ、何だ。急にみんな緊張感が取れたものだ。エプロン姿の私と耀が、皿を洗うことになるのか。



 しかし、そんな平穏はごく一瞬だった。

 私と耀の2人で、皿を洗い終わり、ようやく最後の皿を拭いたところだった。


「きゃあぁぁああ!!」

 静まり返るレストランをつんざく悲鳴は、船で言うと舳先の方向から聞こえてくる。


「行こう!」

 私は、思わず耀にそう呼びかけていた。悲鳴の方向に、2人駆け出す。

 これが船内アナウンスで流れた『事件』なのだろうか。しかし、その割には、悲鳴がかなり大きい。ひょっとして解決を目指すべき『事件』とは違うのか。嫌な予感が頭をよぎる。


 駆けつけると、そこは喫煙所を前に、1人の女性がへたり込んでいた。ソリピーこと蘇我である。

「どうしました!?」と、近づいたが、怯え方が尋常でない。想定される『事件』のうち最悪の事態が、そこにあるのか。


 喫煙所の中には、凄惨な光景が広がっていた。

 笠原久嗣の血に塗れた死体がそこにあった。私は咄嗟に、耀の目を手で覆った。

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