4‐9


 桟原は周囲にバレないように眼鏡をかけてていたが、トップアイドルのオーラは隠しきれない。眼鏡をかけても美貌は光り、スタイルの良さや気品漂う佇まいは、俺たち一般人とは明らかに一線を画している。男女構わず道行く人の視線をいていた。


 熱烈なファンや目敏めざとい人なら、桟原だと分かるかもしれない。しかし、逆にオーラが強すぎて、声をかける者はいない。ここには津曲もキュウジもギョートくんもいない。尾行してるのは自分だけだ。

 麻布十番駅から東京メトロ南北線に乗り、永田町ながたちょう駅で有楽町線の方向に進む。花金はなきんということもあって、座るどころか人と人が接触するほどホームに人がいる。降りる駅は知っているので良いが、うっかりすると桟原を見失いかねない。

 桟原のいる乗車口からあえて、1つ離れて並んだ。いていくと言っても接近しすぎるなというお達しがあるからだ。しかし、桟原はせっかくの配慮に気にする様子もなく、並んでいた乗車口の列から抜けて、俺の方に並び直した。

「お疲れさん」小声で俺に労いの言葉をかけてくる。

 俺は驚いて「いいんですか? 地下鉄ですよ」という。探偵である俺が尾行するというのも、事務所側として暴露されたくない事実だろうが、それ以前に男と一緒にいる事実が公然となってしまってはいけない。ING78は恋愛禁止だったはずだ。一緒にいるだけで恋愛関係にはならないだろうが、マスコミとは事を大きくしたいものだ。男と一緒にいたという事実だけで憶測し、スキャンダルへと飛躍させる。李下瓜田りかかでん。疑わしき行動はすべきではないと思うのだが。


 新木場行きが1番ホームに入線する。扉が開くと吸い込まれるように人がなだれ込み、満員電車から満員電車となる。

「日本武道館でライブでもあったんかな」桟原が言う。確かに半蔵門はんぞうもん線ホームに繋がるエスカレーターから、同じ柄のタオルやTシャツを着用した人がいっぱい出てきた。アーティスト名は知らない。

 おかげで、夜10時ちょっと過ぎなのに信じられないほどの混雑だ。

 これだけぎゅうぎゅう詰めだと、スマートフォンで隠し撮りも難しいし、そもそも桟原が誰と連れ立っているのかも判断できないレベルなので良いが、桟原と密着している。7月上旬。桟原はノースリーブで、俺は半袖ポロシャツ。こともあろうか正対するように密着し、細いはずなのに上から見下ろすと、小ぶりではない胸がくっきりと谷間を形成しながら俺の身体に圧接されている。顔ひとつ分の身長差はあるが、桟原が少し背伸びしたら顔が接触しそうだ。加えて芳しい香水は免疫のない俺をくらくらさせるには充分すぎる威力がある。

 密集して暑いというだけでは説明がつかないほどの汗がしたたる。そんな俺の困惑を知ってか知らずか、桟原は上目遣いをしたりウインクをしたりしてしなをつくる。くっきりとした二重瞼とキラキラと光を反射する澄み切ったつぶらな瞳は、眼鏡越しでも容赦なく俺を吸い込もうとする。

「何、妄想してんねん? エッチ」桟原は小悪魔のような微笑で俺をなぶる。

 俺がその場を脱したくなったのは言うまでもなかった。



 新浦安駅に着くなり、ようやく息が吸えたような気がした。

「す、すみません。意図してなかったとは言え、俺がとんだ狼藉ろうぜきを働──」俺は即座に謝ろうとしたが、桟原が制した。

「何言うてんの? アタシが勝手に探偵さんの方に並び直したんやから、謝る理由ないやろ?」

 そう言ってもらえるのは助かるが、彼女の胸が密着していたのは紛れもない事実だ。その気がなくても冤罪えんざいになるケースがあるという。しかも、相手は気の強いトップアイドルだ。思わず謝ってしまう。

「でも、すんません」

「探偵さん、真面目やなぁ」

「で、でも何で、わざわざ俺の列に並んだんですか?」俺は率直な疑問をぶつけた。

「特に理由はあんねんけど、ま、あえて言うなら単純に近くにおりたかったから……」

「え?」急に心臓が早鐘を打つ。

「変や思うたやろ? 何で千葉のローカルアイドルが、こんなバリバリの関西弁しゃべっとるか」

 いきなり桟原は話題を変えてきた。しかし、確かに気になる謎である。俺は黙って肯定した。

「里帰り出産で生まれは千葉やけど、育ちは大阪なのは事務所の意向で公表してへん。中学2年のとき、両親が離婚してな、おかんの方に引き取られて、実家のある千葉に引っ越したんや。せやから、関西弁が抜けるわけもなく。ING78のオーディションはこの方言のせいで2回落ちてな。標準語を練習したんやけど、それでも関西弁のほうが楽なんや」

「な、何で、そんなこと俺に話してくれるんですか?」

「何やろうな。アタシはこう見えて、本当の居場所があらへん。本当は関西弁をしゃべってる方が、自分の素が出るねんけど、もともと千葉のご当地アイドルだから、関西弁はテレビで絶対使うなって言われて、自分を押し殺してるんや。でも、こんな汚ならしくて威圧的に聞こえる関西弁をしゃべるのがホンマの自分なんや。でも、ときどき疲れて、ふと素を出したくなる。関西弁で本音をぶつけたいねん。どういうわけか、探偵さんには出てしまうんや……」

「……」彼女にも彼女なりの悩みがあることを聞かされた。初めて弱さを見せた瞬間かもしれなかった。

「ホンマにすまんなぁ」

「いや、そんなこと……」俺はどう返していいか分からず、適当に取り繕った。

「あ、悪いけど。男の人と一緒におると事務所や市川がギャーギャーうるさいから、こなへんで失礼するな。と言っても、依頼やから、マンションまではけてくれるんやろうけど」

 一方的に桟原はそう言って、新浦安駅の南口ロータリーを出て、300メートルほど離れたマンションへと向かう。


 すぐそこなので、尾行する意味があるか分からないが、仕事は仕事だ。マンションのエントランスに入るまでは見届けなければならない。さながら小学生がちゃんとお遣いに行けているかを、確かめる保護者のようである。

 彼女は早足なので、あっという間にマンションにたどり着く。これで長かった1日も終わりだと思うと同時に、そう言えば、朝マンションの前で張っていたあの小太りの男は何者なのか、知っている相手なのかを聞くのを、すっかり失念していたことに気づき後悔する。壁に耳あり障子に目ありの街中にあって、2人きりでしゃべれるチャンスがそう多くあるとは思えない。


 そんなことをあれやこれや考えている間にすぐ桟原はエントランスに着いてしまった。朝のマンションとは違い、ライトアップされた夜のタワーマンションは美しく荘厳に見える。気品漂う桟原に妙に合っている。鞄から電子キーらしきものを出したところで異変は起こった。

 というか俺はどこかで油断していた。エントランスの植栽の影から男が飛び出して、桟原を後ろから羽交い締めにしたのだ。

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