4‐10

 男は、朝マンション前で目撃した小太りの男だった。

 依頼内容はストーカーの素性を明らかにすることだ。あの小太りの男が何者かを明らかにすれば依頼は達成される。だから現場を写真に収めて、津曲あたりから情報を収集すれば良かったのだろう。しかし、桟原は襲われたら探偵さんに助けてもらいたいと言った。そして、まさに襲われている。夜中、男が妙齢の女性を後ろから羽交い締めにするなど、どう考えても尋常ではない。

 写真を撮る選択肢はなかった。探偵である前に男として、まず取るべき行動は、桟原を助けることだ。


「何をやってる!?」

 普段大声などほぼ出すことのない俺が、低音で男を威嚇する。威嚇とは裏腹に俺は、戦慄していた。探偵であって警察ではない。女性が襲われている現場など見ることがなかった。

 しかし、声に驚いたのか、俺の上背だけは高い図体ずうたいを見ておののいたのか、小太りの男はすぐに桟原から身体を離し退散した。意外と逃げ足が速い。追いかけて捕まえて警察を呼ぼうと思ったが、同時に桟原を守らねばいけないという使命が優先された。もし俺がここを離れて、実は共犯者がいたら、桟原の身が危ないのだ。

「大丈夫か!?」

 俺はすぐに桟原の身を案じる。

「大丈夫やけど、助けに来るの遅っ!」

 何と、桟原は俺にツッコミを入れる元気さえ余していた。通常は気が動転しているはずだが。しかし、俺の行動はそんなに遅かったのか。勇気を出したのに、これは結構落ち込む。

「ご、ごめんなさい」俺はいたずらがバレた子供のように謝った。

「冗談やて。ありがとう。あいつ何しとんや。まったく──」

 桟原は「あいつ」と言った。桟原はやはり小太りの男の正体を知っている。

「あの男を知ってるんだな」

 俺は苦々しい気持ちで聞いた。ストーカーの正体を知っているではないか。

「あの人はノブトくん。本名、都賀つが登戸のぶとや」

「ノブトって、あの四天王って言ってた?」

「せや。最古参のファンって言っても過言やない。ING78が無名で、稲毛駅前の『アニオン』の狭い特設ブースで歌わしてもらうのも貴重やった時代から、最前列で応援してくれてたんや」

 なるほど。だから桟原は知っていたのだ。顔を合わせればアイコンタクトをとるくらいに。なお、アニオンとは全国的に存在するショッピングモールである。稲毛駅前のアニオンはややコンパクトである。

「で、でも、実際に襲ったじゃないか。あの男は完全にストーカーでは?」

「アタシにはにわかに信じられへん。ノブトくんはファンの中でも群を抜いてマナーをわきまえとったんや。むしろ、態度の悪いファンを注意して、トラブルになることも。でも彼はファンの風紀を守るために身体を張ってきはった」

 桟原がノブトを『くん』付けで呼んだあたり、本当に彼が桟原に一目置かれている人間だということの裏付けになる。

 しかし、襲われたことは事実だ。信じられなくても未遂であっても、れっきとした犯罪行為である。

「警察に通報しよう。桟原さん。これ以上は探偵の出る幕じゃない」

「いや……、それはやめて。探偵さんの気持ちはよう分かる。でもアタシにも事情があるんや」

「でも!」さすがに分からず屋だなと思って俺は語気を強めた。しかし、桟原は人差し指を立てて俺の口元に触れるか触れないかくらいのところまでその手を持ってきた。

「探偵さん、時間ある?」俺はドキリとした。「自宅うちで話をしたい」



 タワーマンションの20階に桟原の部屋があるという。正直、こんな豪華なマンションには入ったことすらない。エレベーターに乗りながら終始圧倒されていた。

「散らかってるけど勘弁してな」

 桟原はそう言いながら部屋に招き入れる。しかし、それはあくまで謙遜であって、部屋は整理されていた。と言うか、物自体が少ない。

「引っ越して2週間くらいなんや。使ってない部屋にダンボールを押し込んでるから、整理してるよう見えんねん。なかなか、時間がなくて片付かんねや」

 桟原は俺の心を見透かしたように言った。「ま、そこの椅子でもソファーでもいいから座って」

「し、失礼します」

 さすがに今日一日の汚れが染み付いた身体で、ソファーに座るのははばかられた。椅子の背もたれに背をつけずに、ちょこんと座る。我ながら借りてきた猫のようだ。

「コーヒー出すから待っててな。あ、眠れんくなるのはあかんから、ジュースがええか?」

「いやいや、いいですよ。長居はしませんし、明日もお互い仕事なんですから」

「確かに明日も仕事やけど、どうせ一緒なんやから、泊まってっても構わへんで」

「えっ?」

 俺はまさかそんな発言が出てくるとは思わなかったので、「えっ」しか言えない。いくら硬派で奥手な俺でも、独身男子がトップアイドルの部屋に泊まることを勧められて平常心を保てるはずもない。

「冗談やで、探偵さん。ほんま可愛いなぁ」

 桟原は飲み物を用意しながら、微笑んだ。冗談だという言葉に安心したのかがっかりしたかは自分でも分からないが、それを大きく上回って顔が紅潮しているのを自覚する。三十路を過ぎてはや5年、この無骨な俺が、可愛いと言われたことなど、記憶する限り一度もない。

 そのとき桟原の鞄からバイブ音が鳴る。

「あ、市川から電話や。ごめんな」そう言いながら電話に出る。

「あ、実はな、ストーカーが現れて、でも探偵さんが助けてくれはった。あ、でな、あ、分かっとる。明日のライブ終わるまでは静かにってことやな」

 部屋は静かなので、市川の声もはっきりではないが受話器越しに聞こえた。俺は電話のやり取りに違和感を感じた。桟原はストーカーがノブトであることを市川に伝えなかったし、市川も心配で電話をかけてきたはずなのに、驚いている様子が感じられない。そして何より、市川も警察に通報することに後ろ向きである。


「何で、通報しなかったんです?」電話が終わるや否や俺は聞いた。聞かずにはいられなかった。

 桟原は、これ、カフェインレスねと一言断りながらコーヒーを提供した。そしてソファーに座りながら俺の質問に答える。

「明日な、実はアタシ、ING78の卒業発表するんや。幕張メッセのライブで」

「え?」

「関係者でも一部にしか伝えてへん極秘情報やで? だからいまは他言無用な」

「分かりました」

「ING78、7年間やらせてもろうて、まだ頑張りたい気持ちもあんねんけど、アタシがセンターに居続けることで、若い子から表舞台に立つチャンスを奪っとると思うたんや」

「そ、そうなんですか」芸能界の事情に精通していない俺にとっては、ただ相槌を打つしかなかったが、桟原は至って真面目でしみじみとした表情で語っている。

「ソロ曲もおかげさまで好評やし、ING78のアタシはちょうど潮時かなと思ってる。あと、ING78にいることで関西弁が出せないっていう息苦しさもある。素のアタシのほうがもっと気の利いたコメントも発信できると思うんや。それともう一つあるんやけどな──」

 そう言っておきながら、なぜか桟原は言い淀んでいる。

「もう一つ?」

「ア、アタシも恋したいお年頃なんや」今度は桟原の方が顔を赤らめた。こんな表情、彼女もするんだなと新鮮な気持ちになった。


「もちろんING78には感謝しとる。だからしっかりした感謝のフィナーレを迎えたいんや」

「芸能界は辞めないんですね」

「もちろん。アタシを必要としてくれる人がいる限り頑張ろうと思うてる」

 それを聞いて安心した。俺は今日一日ですっかりアイドルという職業を見直していたからだ。

「嬉しいです。お、俺も、今日桟原さんの仕事っぷりを見てファンになりました。だからこれからも応援します」

 リップサービスではなく、まさしく本音である。

「探偵さん、ほんまありがとう」桟原はなぜか涙ぐんでいた。

 その表情はあまりに美しくて艶めかしく、俺は直視できなかった。正確に言えば、直視すると恋心が芽生えてしまいそうな気がした。相手は恋愛禁止のスーパーアイドルだ。

「ごめんなさい、トイレ貸してください」

 そう言って、一度退避する。しばらくするとようやく気持ちが落ち着いた。


 トイレから出ると、桟原はそのままソファーで寝落ちしていた。メイクも落とさず、風呂にも入らず寝てしまうなんて、完璧と思われた人物がはじめて見せた隙だった。今日は、早朝から活動し、クイズ番組収録、歌番組の生放送、ドッキリ番組、さらにはストーカーによる襲撃と、ジェットコースターのような1日だ。無理もない。俺はそっと近くにあったブラケットを掛けてあげた。ついでに桟原のスマートフォンの画面が点灯したまま転がっていた。バッテリーが残り5%と表示されているので、充電器に挿してあげた。俺は置き手紙をしておいとますることとしよう。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る