Case 5 殺人客船(Murder on the Cruise Ship)

5‐1

 気づいたときには、私は仄暗ほのぐらい小部屋にいた。意外にも、身体が接地するのは床ではなく、ベッドのシーツの上らしいことが分かる。何となくふわふわと揺らされているような感じがして、気持ち悪い。何か体内に薬でも入っているのか。

 そうだ。私は何者かに首を絞められたのだ。気絶して眠っていたのだろう。妻と2人で帰宅する間際の凶行であった。妻はどうなった。どこにいる。生きているのか。死んでいるのか。

 ベッドから這い上がると、さらなる強い不快感が私を襲う。身体の平衡感覚がおかしい。いや、平衡感覚云々というより、本当に床が丿乀へつほつと動いているようだった。

 小部屋を出ると直線的な廊下が見える。天井は低く、手を挙げれば簡単に届くくらいだ。

 私がいた部屋の扉と同じような扉が、廊下に並んでいた。そして、私のいた部屋の、隣の部屋の扉は空いていた。中で何者かが呼んでいるかのように、私の身はその部屋の中に引っ張られた。そして、同じようなベッドの上に横たわっている、女性の姿があった。紛れもなく、いちばん見慣れた女性だった。

「優! 大丈夫か?」

 応答はない。その身体を擦ってみると、確かな体温を感じた。呼気もしっかり腕に感じた。良かった。眠っているだけのようだ。

 部屋には小窓があった。まさしく小窓。部屋も広くないが、それ以上に窓の小ささは際立った。

 遮光性があるのか、カーテンを通過してくる光はない。カーテンを開けると、目を突き刺すような眩しい光が襲った。思わず顔を顰める。夕陽、いや朝陽か。太陽光であるのは間違いなかった。


 明順応により、徐々に目が開くようになると、私は驚愕した。景色は一面の水面。つまり、ここは海上である。丿乀へつほつとした感覚は、幻覚ではなく、本当に地面が傾いたり水平になったりを繰り返していたである。つまり、私は船の中にいる。

 なぜ船なのだ。一面水面と言っても、この船がいずこかに向かって航行していることは分かった。

 豪華とは言わないまでも、客室らしき設備から客船なのだろう。しかし、スマートフォンは思い切り圏外表示。こんなご時世にも関わらず、Wi-Fiサービスは整っていないようだ。


「……な、何やの? 朝??」

「ゆ、優? 起きたか?」

「何や、めっちゃ眩しいやんか。ここはどこ?」

「分からん……」

 寝ぼけ眼を眩しさで細めたが、小窓から見える景色に、妻は飛びついた。

「ここ、海なん? 船なん!?」

「どうやら、そうらしい」

「そうらしいって、どーゆーこと?」

「そういうことだ。よく分からん」


 置かれている状況が謎すぎる。何者かに襲われて、ここに運び込まれたのは事実なのだろうが、犯行の目的がわからない。しかし、犯人の思惑によって、ここにいるのなら、間違いなくいま置かれている状況は、良からぬ状況だ。でも、圏外だから、外部と連絡が取れない。


「沙は? 杏は?」

「まだ、確認できていない。と言うか、お義母さんの所にあずけていただろう」

 何も言わずに、あずけっぱなしになっている。めちゃくちゃ心配されているだろうが。通信手段がない以上、どうすることもできない。

 妻は、頭を抱えながら一生懸命思い出す素振りをする。

「あ、何か、アタシたち、襲われたんか!?」

「そう。だから、俺たちは犯人のアジトかどこかに、連れ去られる途中かもしれん」

「何やそれ、上等や!」

 妻は雄渾ゆうこんな言葉を放つが、ここは海上。逃げることは死ぬことと同義だ。

「とりあえず、もうちょっと情報が欲しい。一体何のために、俺らは襲われたのか。どこに向かっているのか」

「せやな。こんなとこ、気持ち悪くて叶わん」

 妻の方を見ると、先ほどの猛々しい言葉とは裏腹に顔色が悪い。「アタシ、船は酔ってもうて、どうもアカンねや」


 子供を授かる前、妻と一緒に船に乗ったことはないわけではない。東京湾のディナー・クルーズや鳴門なると海峡の渦潮など、人並みに船旅を楽しんだが、そのときは、しっかり酔い止め薬を飲んだので大丈夫だった。しかし、今回は強制的な船旅だ。ご丁寧にそんな薬があるとは考えにくい。

「ちょっと吐いてくるわ」

 そう言って、妻は廊下に出て、女子トイレに行き、便器で嘔吐した。私もトイレの扉の前で待機する。妻は、車の中で読書すると1分以内に気分が悪くなるほど、乗り物酔いしやすいのだ。

 しかも、船酔いには比較的強い私でも、三半規管がおかしくなってくる。どこに向かっているか分からないが、揺れはきつい。

 私は、妻の言動におそれをなすことはあるが、基本的に信用しているし、信頼している。そして何と言ってもたくましく、どんな苦難でも妻となら何とかなるんじゃないかという、安心感がある。

 そんな妻が、嘔吐えずいて、本調子からは程遠い。とても嫌な予感がする。


「寝てて。俺が船内を見てくる」

 私はそんな殊勝な言葉を吐いたが、すぐ制された。

「あかん。いまのアタシはとても、1人じゃ暴漢に立ち向かわれへん。アタシもついてく」

「暴漢? 部屋を施錠していたら?」

「それができたらええねんけど、何か、鍵が壊されとるみたいや」

「え!?」私は思わず耳を疑う。

 扉を見てみると、デッドボルトとサムターンが固定されて動かない。よく見ると、それぞれが溶接されて、がちがちに固められている。

「手の込んだマネを……」

 思わず私は毒づいた。これだけで悪意を感じる。どうせ、海だから逃げることはできないのに、さらなる追い打ちをかけている。どういう意図かは分からないが。


「分かった。でも無理するな」

「サンキュ。たぶん、歩いとれば慣れてきて、気持ちわるうなくなるやろ」

 言葉は楽観的だが、肩を貸さないと立っていられないくらい、調子は悪そうだ。


 廊下を歩いて船内設備を探索しようと思ったが、妻のことを考え、まずは甲板に出ることにした。風に当たれば、多少気分が良くなるだろう。

 螺旋階段をゆっくり上がって、甲板に出る。思ったより階段は長く続いており、この船は意外と大きいことを伺わせる。3、4フロア分くらい上がると、ようやく甲板にたどり着いた。

 甲板に出るまでに気になったのは、この客船にはやたらと監視カメラがたくさん設置されていることだ。犯人一味は、悪趣味なことに私たちに不審な動きがないか、つぶさに観察したいようだ。


 風が気持ち良いが、太陽と水平線以外何もない景色は、得も言われぬ不安を感じさせる。おそらく今は夕方だ。方角が分からないが、赤みがかった太陽と、比較的温かいことから、そう感じさせた。じきに太陽は沈むのだろう。

「ってか、この船は、アタシたち以外誰もおらへんのか?」

 若干顔色の良くなった妻が言った。私も気になった。大きな客船なのに人気ひとけがない。妻の声以外は、船が波を突き進む音だけだ。


 すると、我々の胸の内を読むかのように、舳先へさきの方向から、誰かの声が聞こえた。複数人いる。会話している様子だ。犯人一味かと思い身構えるが、正体は意外すぎる人物であった。

「津曲!? 耀ひかる!?」

「わ、我妻さん!? 奥さんまで! 良かったぁ! 生きてた!」

 何と、うちの助手2人だった。しくも、こんな訳の分からない船の上で、我妻興信所の従業員4人が揃い踏みになろうとは。どう頭を捻っても、何でこんな状況になっているのか、憶測することはできなかった。

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