3‐10

「ゅ、優、あ……りが…とぅ。と……し……」

 情けないことに私はうまくしゃべることができない。私自身、妻がここにいる理由が分からないのだ。俊伸はどうした。妻はどうやって難を逃れたのか。沙や杏は無事なのか。そもそもこの瘴気しょうきくゆらしたこの部屋でどうして詩乃のように平気でいられるのか。


 そしてよくよく見ると、妻の後ろには、舎弟のように津曲創と姫野耀がいるではないか。この2人もどうやら平然としているようだ。

「強! 説明はあとや! まずは、この女をシバいてからやで!」


「そんな、こんなか弱い主婦を3人がかりでシバこうなんて、気が触れたのかしら。関西人ってこわーい」

 シクシクと泣いているようだが、嘘である。ぼやぼやの意識の私ですら分かるほど露骨な演技だ。


「余裕だな。この大根役者が。ってことはやっぱり取り巻きがいるんやな」

「さすが、優ちゃん。ご明察ですわ」

 そう言うと、リビングに屈強な男が数人入ってきた。いや数人どころじゃない。リビングの窓から見えたのは、10~20人の影。明らかに、詩乃側の援軍だ。

 想定外の人数だったか、妻も表情を少し強張らせたように見えた。詩乃はニヤリとわらう。


「この人たちはね、みんなご近所さんで、互助と共助の強い関係で繋がってるの」

「こいつらも『精如会せいじょかい』のメンバーなんやな。みんな顔がラリってやがる」

 援軍の人間は、みんな何かに操作されているかのように、こちら一点を見据えたまま、黙りこくっている。ところで精如会とは何だ。妻はどこまで情報を握っているのだ。しかし、問う手段はいまの私にはない。


「さすがは優ちゃん。精如会も知ってるなんて」

「近所に住んでんのか。道理で薬物シャブの臭いがしても表沙汰にならんかったんやな。みんな共犯やから」


 †


 ここから先のことは不覚にもよく思い出せなかった。ただ、私が目を醒ましたときには、薬物の臭いはほぼなくなっていた。私の意識は徐々に清明になってくる。と同時に、驚いた。取り巻きの援軍は、みんな床に突っ伏していた。津曲は、フラつきながらもそこに佇立ちょりつしていた。妻は、タオルか手ぬぐいのようなもので、詩乃を後ろ手にして縛り上げていた。

「警察は呼んだな?」

「はい。そのうち来るはずです」と答えたのは津曲だ。


 耀は私を看病していたのだろうか、近くにいた。「大丈夫ですか?」

「だ、大丈夫だが、これ、君たちがやったのか?」

「そうですよ。奥さん、無敵ですね」耀は満面の笑みで答えた。私はどう反応すれば良いのか困った。


 †


 しばらくして警察が到着し、詩乃も取り巻きの連中らも御用となった。大麻取締法違反の現行犯。道路から見えない位置のバルコニーに、しっかりと栽培されていたのだ。


「あなた方が通報者ですね。失礼ですが、お名前をとご住所──、あ? ひょっとして?」駆けつけた警察官は目を丸くした。

「ひょっとして?」

「あ、いや、すみません。あまりにもある有名人に似てたもんですから」と、妻の方を見て警察官は弁解する。

「あ、よく言われます。『サジコ』様でしょ? 引退しちゃったけど……」

「あ、はい。すみません。業務と無関係の内容で」

「いーのいーの! あ、名前は我妻優、30歳、美浜区……」

 私は、心の中で、よく言うよ、と呟いた。


 私たちはその後、参考人として事情聴取を受けた。

 そこで明らかになったことがあった。実は警察も前々から大麻の疑いがあるものとしてマークをしていたようだ。

 しかし、決定打に欠けており、攻めあぐねていたというのが実際だったという。


 その理由はいくつかある。

 1つは、この居住区画の住人はすべて、『精如会』のメンバーで固められていたこと。この『精如会』というのは、簡単に言うと、私を診察した松本精如を祖師とする組織である。宗教団体と言ったほうが近いかもしれない。松本は大地主で、千葉県の各地の土地を所有していた。『精如会』のメンバーは信者のように松本に献金する代わりに、土地と住処すみかを与えられた。つまり、その区画ごとで組織的に大麻を隠蔽し続けていたのである。

 では、警察がマークしていたのなら、住民が大麻依存になっていることくらい、職務質問をすればすぐに判明しそうだが、そこにも巧みにかいくぐる秘密があった。

 それが2つ目と3つ目の『決定打に欠いた理由』である。その理由を暴いたのは、何と、我が妻、優だったのである。


 妻は、我が家に最初に信夫俊伸が訪れた際に、大麻の使用を疑ったのだという。

「どこでそれに気づいたんだ?」

 私が妻に問うと「強さぁ、ありゃ、典型的な感覚過敏やで。アタシのアイシャドウを見て、正確な色を当てとった。ファウンテンブルーって色なんやけど、普通出てこんやろ。メイクアップアーティストの詩乃ちゃんならまだしも、俊ちゃんの口から出てくるのは不自然やな。それに、口からちょびっとやけど変わった匂いがした。香水ともオーデコロンともとれん。ひょっとしてこれ、大麻か何かを吸引したか服用したかしてんじゃないかと思ったんや」

 確かに、開口一番、耀のチークを、聞き慣れない色名で表現していた。そして、よくよく思い出すとおとなしい印象があった詩乃も、うってかわってスキンシップが激しかった。そこからすでに徴候はあったというわけか。

 妻は続ける。

「それに、CGクリエーターもメイクアップアーティストも、芸術センスを生かした仕事や。薬の助けを借りて、音や色彩などの感覚が過敏にさせようとする人もいるらしい。もちろん全員やないし偏見になったらあかんが、傾向として陥りやすい職業であるとされとるんや」

 正直に舌を巻いた。違法薬物については、ぶっちゃけあまり詳しくなかった私は、自分よりも探偵歴の短い妻にそこまで看破され、挙句の果てに、私は毒牙にかかりそうになった。極めて忸怩じくじたる思いであった。


「じゃあ、どうしてすぐに信夫俊伸を追及しなかった?」

 もし、早めに警察に通報できていたら、私もあんな目に遭わなかったのだ。

「気づいたうても、確証はあらへん。俊ちゃんは、ああ見えて、大事なとこはうまく隠しおおせる男やと思っとる、アタシは。それにな、どうも大きく組織的に動いとるような気がしてならんかったんや」

 私は再度驚いた。

「何でそこまで察したんだ?」

「半分は何となくや。でも残りの半分の理由は、普通、大麻は若いやつが悪い友達から勧められたりして、好奇心で手を出してしまうのが普通や。でも、俊ちゃんはやたらと、松本という『自称医者』の心のカウンセリングを勧めてきたんや。ひょっとして強もそうやないんか? だから、もっとバックに大きな根城ねじろが控えとって、アタシをそこに引き込むことで、何かもっと暴利を貪ろうとしとるんちゃうかと思うたんや」

 だから、あえて誘いに乗ったのだ。謀略を突き止めるために。凄まじい行動力だ。私も、結果的に妻と同じく松本精如の診察を受けたのだが、それまでのプロセスがまったく違う。私は完全に詩乃の掌で転がされていたことになる。

「それがな、結果的にビンゴだったっちゅうわけや。患者が見違えるように元気になる姿は、催眠だけじゃ説明がつかへん。催眠に違法薬物をコラボすることで莫大な効き目をもたらしとるという仮説をアタシは立てた。だから、はじめに俊ちゃんの診察の様子を、めっちゃ注意深く観察した。ここの患者は、信者のようによく効いているが、アタシ自身が、催眠には絶対引っかからない暗示をかけて、ガードしながらカウンセリングを受けたさ。嘘の、旦那とはうまくいっとらんうて、エピソードをでっち上げてな」

 その瞬間、私は心の中で、え? と叫んだ。うまくいっていないと思っていたのは私だけだったのか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る