3‐9

         ぉきろ! おきろや! ぉきろ!』

 意識を失っているのか、幻聴なのか。朦朧もうろうとする意識の中、一方的に強制的に暴力的にリフレインする声。

『起きろ!! 強!!』

 私のことを強と呼び捨てするのは、1人しかいない。妻の声だった。


「はぁっ!」

 私は、動かなかったはずの身体が、その声で揺り動かされた。しかし、ここには妻はいない。信夫邸のリビングだ。そして、それを裏づけるように、あのお香の残り香が残っている。


 妻の声は幻聴だったのか。それでもこれは警鐘を鳴らされているような気がした。ここは危険だ、と。見ると、詩乃はいない。夫の俊伸もいない。


 ここを出ろと、内なる意識が叫んでいる。深く考える余裕はない。私はリビングの扉を開いて玄関の方へ向かう。


「あら、強さん。いま帰ってきたばかりなのに、勝手に出ちゃダメよ。依頼内容は私と一緒にいることだったでしょ?」

 背後から声をかけられた。その声は、嗤笑ししょうしているとも叱責しているとも取れない、強いて言えば、聞き分けのない大人を嗜めるような、しかし極めて淫靡いんびな声だった。


「頭がズキンズキンと痛くて、病院にかかりたい」

 私はそう取り繕った。半分は本当だが、半分は誇張だった。思いつくままに、とにかくここを出る口実を言ったみた。


「大丈夫。じきに治ります。こんな時間だからクリニックはやってないよ。病院は歩いて行ける距離にはないし、却って頭痛を悪化させるだけ……」 

 想定されたことだが、頑としてここから出す気はなさそうだ。まったく、つい少し前までは、ここに入れてもらえるかを思い悩んでいたはずなのに、いまでは依頼を放り出して、ここを脱出しようと画策している始末。何という皮肉か。


「あの、玲衣ちゃんは?」

「玲衣なら二階で寝てるから。今日は、とことんたのしみましょ?」


 私が心配しているのは、今日の情事なんかじゃなくて、玲衣ちゃんの身体のことだ。こんな強いお香のにおいを嗅いだら、幼い子供にとって身の危険が及ぶ。


 私は確信した。夫婦は違法薬物に手を出しており、それを何らかの理由で私に勧めようとしている。もっと言うと薬物中毒にさせる気だ。

 妻は私に注意喚起をした。あのふざけているようなLINEは、気が触れたわけではなくて、ちゃんとしたメッセージだった。スペースで区切られた各セクションの頭文字を拾っていくと、『大麻や、気いつけや』、『詩乃とキス、危険』となる。


 ということは、間違いなく妻は、俊伸による大麻の毒牙にかけられようとした。それを何らかの方法で察知し、未然に防いだか分からないが、スマートフォンを使える状態にあることは分かっている。妻の状態も気になるが、それ以上に気になるのは、みぎわあんの2人。妻が大丈夫なら、死にもの狂いで、子どもたちを守るはず。でも、もし、意識を失っていたら、あの狭いマンションで、身に危険が及ぶことは想像に難くない。


 何とか、コンタクトを取りたい。ポケットをまさぐるが、入っているはずのスマートフォンがない。どういうことか。

「スマートフォンは今日はおあずけにします。だって、優ちゃんのこと気になったら、愉しめないでしょ?」


 してやられたと思った。私の意識を失わせたのは、妻との連絡手段を断たせるためだった。

 しばらく立っていると、だんだん身体が重くなり、床に崩れ落ちてしまう。意識は戻っても、身体への影響は色濃く残っている。

 私は、単刀直入に追及することにした。


「何でだ? 何で、私と妻を狙った。大麻だろう? こんな回りくどい方法を使って」

 そう問うと、ほんの少し表情をしかめて、5秒くらい押し黙ってから、口を開いた。

「探偵さんはやっぱりお気づきなのね。それとも優ちゃんかしら?」

「質問に答えろ。何がしたい。違法薬物まで手を出して、立派な犯罪だぞ」

「簡単なことです。あなたたちにも味わってもらいたいのですよ。この素晴らしい世界を」

「薬の興奮作用で得られた快感など幻だ。後で必ず大きなしっぺ返しが来る! 早く足を洗え!」

「そんな目くじらを立てないこと。使い方次第で薬にも毒にもなる。それはどの薬だって一緒。麻薬だってがん治療や麻酔で使われてるし、大麻にしたって医療大麻って言葉あるでしょ?」

「でも、俺は現に、人事不省じんじふせいになりかけた。どうしてくれるんだ?」

 一人称が、つい私から俺になった。年を重ねて、俺という一人称を封印したのに、怒りのあまり、つい出てしまったのだ。

「大丈夫。松本先生は、あなたにとって薬になる方法を熟知していらっしゃる。身体を委ねればいいわ」

 松本先生とは、患者たちを見違えるように治療したあの医師だ。催眠療法と言っていたが、その効果は、違法薬物で裏打ちされた、とんでもない治療だったのだ。


「やはり、関係してるんだな。思い起こせば、この臭いは、あのクリニックでいだにおいと一緒だし、あんなに催眠療法で患者の状態が良くなるのも変だと思った。先生はもっともらしい説明をしてたけど、やっぱり嘘だったんだな」

「嘘ではありませんもの。私も含めて患者は見事に、死の淵から人間らしい幸福を手に入れている。これが真の治療ではありませんか?」


 詩乃とはどこまでいっても並行線だ。相容あいいれるわけがない。


「俺や妻をどうするつもりだ」

「どうも。松本先生に身を委ねて、ありのままの幸せを感じ取ってもらえればいいんです」

「こんな拉致らち同然のやり方で、幸せを感じられるか?」

「拉致とは人聞きの悪い。あなたからここに来たくせに」

 それは依頼だからだ、と言おうとしたのを呑み込んだ。依頼を受けたのは自分だと反駁はんばくされるだろう。こんな議論をしていても仕方がない。何とか、妻と子どもたちを助ける方法を考えなければ。


「あと、さっきあなたは大麻と言ったけど、松本先生は、研究に研究を重ねて、身体に有益な作用をもたらすものへ改良されたの。もはや、大麻ではなく、魔を退くと書いて、『退魔師たいまし』とも呼ばれてる」

「そんな言葉の綾に釣られるかよ」

 私は詩乃を睨み返すが、同時にまたあの臭いがきつくなってきた。詩乃は何か液体のようなものを口に少量含み、淫猥いんわいな表情で詩乃は私に近づく。俺は逃げたかったが、身体におもりをつけられたかのように、動かすことができない。


「わがままなお口は、私が塞いであげなきゃ」

 そう言うと、もう一度口づけてきた。唇に力を入れて拒絶しようとするが、力が入らない。先程口に含んだものが俺の口腔に流入する。そしてまた立ち所に意識が遠ざかっていく。

「松本先生は、有益なものを作ったっていったけど、こういう分からず屋を『調教』するお薬も作ってるの」

「ふざ……け……」私はもはや言葉を発することもままならなくなった。

「ちなみに、予定通り行けば、優ちゃんも無事『調教』されるはずよ。そうしたら、あなたたちもわたしたちと一緒に、未来永劫の幸せな夫婦関係を築けるようになるのよ」


「なるほど、これが『調教』された結果っちゅうわけやな? 頭も冴えてんし、身体も軽い。ほんまに大層なことや!」

 聞き慣れた声が聞こえた。この挑発的な関西弁。

「ゆ、優ちゃん! 何でここに?」驚いた様子の詩乃。

「何でって、旦那が危ないからに決まってんやろ! 『調教』だあ!? 上等や! 未来永劫幸せな夫婦関係を築くために──」そう言いながら、鋭い回し蹴りを詩乃に食らわすと見せかけて、わざと詩乃の背後にある壁に、かかとで穴を開ける。そして彼女は口上を続ける。「まず、お前らを退するんや! イカサマ宣教師の魔の手からな?」


 霞みがかった視界の中、閃光が射し込むかのように、凛々しい妻の威容が眩しく鮮明に映った。

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