3‐8
†
その日、特段依頼人との面会も相談者が来る予定もなかったが、信夫俊伸が来るというので、気が進まないながらも、一応依頼人なので、空いている以上受けざるを得ない。
約束は午前12時。こんな平日の昼間に堂々と来るなんて、CGクリエーターという仕事は暇なのか、と毒づいた。
俊伸は時間ぴったりにやってきた。
「今日は突然来てすみませんね~」何の
用件は分かっている。
「あれでしょ? 依頼を延長してほしいんでしょ?」
「話が早い! さすが、優ちゃんは行動が早いなぁ」
こんな軽薄な男に妻を寝取られていると思うのも
「いつまでなんだ?」
「土曜日まで」
「あん?」
今日は火曜日。今日含めてあと5日も不貞行為を延長させろとは、いい度胸だ。感情的には、この男の胸倉を掴んでやりたい気分だが、大人だし報酬をいただく立場なので、そういうことはできない。
「やだな、そんな怖い顔しないでくださいよ。これ僕の提案じゃなくて、優ちゃんの提案なんですから。これホント! だから応えてあげたいんですよ!」
そうなのか、と驚くことも、そうだろうな、と納得することもしなかった。ただ、一言で言い表せないような複雑な感情が渦巻いている。
「も、分かった、どうでもいいさ。お金は払ってもらうけどな」
「ふぅ、良かった。断られたらどうしようかと思った」
断られると何かあるのだろうか。少し気になりつつも、同時にそれ以上に気になったことが出てきた。
ふぅと安堵の息をついたときに、微かに匂いがしたのだ。忘れもしない、あの場所で嗅いだ匂い。
「松本先生のとこの……」思わず、私はそう独りごちた。それを俊伸は聞き逃さなかった。
「あ、行かれたんですね? 松本先生、私も詩乃もご
急に前のめりになり、勢いよく話しかけてくる。
「何ですか」私は思わず
「受診した感想っすよ」
本当は世界が見違えるほどに凄かったと言いたかったが、何かこの男に誘導されているようでいけ好かない。
「んーと、よくわからないというのが正直な感想。詩乃さんは凄い凄いって強調してたけど、私には効き目が薄いみたいですね」
虚勢を張るようにそう回答した。
「そりゃ変だな。そういう人は初めて聞いた」
「先生は、効き目には個人差があるって言ってたぞ?」
「先生は、謙虚な性格だからああ言うけど、実際は、人生が変わるほど効き目があって、例外なく先生を頼るようになるって評判だよ」
そこまで言わしめる松本先生とは、一体何者だろうか。
「精神科の? 先生でいいんだよな?」
「あれ、詩乃から聞いてないんですか? 催眠療法の第一人者ですよ。先生独自に編み出した、極秘の治療法だから、保険外みたいだけど、良心的な費用で診療してくださる、神様みたいな人だよ。あ、これ僕だけじゃなくて、他の患者さんもそう言うの」
なるほど。夫婦揃って松本先生を絶賛している。
「ちなみに、悩みなんてあるの?」失礼な質問だと思ったが、お互い様だと思い、聞いてみた。
「いや、どうかな? 仕事も順調だし、詩乃とも別に関係悪くないし、友達も多いし、収入だってあるし……」
何も困っていないではないかと心の中で突っ込んだ。そうなるとますます不思議だ。精神科もしかり、探偵事務所もしかりだが、何かしら悩みや困りごとがある人間が来るものだろう。
「よく、見つけたな。結構遠かったぞ、あの精神科。あ、でも奥さんの紹介か?」
詩乃さんは、肥満を克服して、俊伸と結婚したと言っていた。
「いや、僕が詩乃に松本先生を紹介したんですよ」
「え?」
意外な回答だった。男性恐怖症に陥っていた詩乃さんが、通院で痩せて、男性恐怖症も克服してから、俊伸と近づいたのかと思いこんでいたが、違うらしい。
「僕は、松本先生とは、結構昔からの知り合いなんですよ」
†
ひとまず、依頼を延長すると言うので、土曜日までの契約となった。しかし、相変わらずよく分からない依頼だ。ただ単に妻を交換して一緒に過ごすというものだ。
依頼を受けたものの、今朝詩乃さんと遺恨を残した状態で家を出てきてしまったから、少々帰りにくい。帰ってきて妻が機嫌が悪いという経験は多々している。いつも、下手な悪あがきで、美味しいものでも買って喜ばそうとして、かえって
詩乃さんにはどういう対処法が良いのか分からないままに、家の前まで来てしまった。もういいや。下手なことをするから怒られるんだ、と開き直り、信夫邸に上がることを決意した。
スマートフォンが振動する。ディスプレイには『我妻ユウ』の文字。どうやら着信ではなくて、LINEのようだ。
ひょっとしてそろそろ信夫俊伸との生活にも飽いて、元の生活に戻りたい、なんてメッセージが届いていないだろうか、なんて淡すぎる期待を寄せているのは、これから、詩乃に会うことを億劫に思っているからゆえだろう。やはり気分は重い。
『四六時中 ノブちゃん とはな 気持ちいい 素敵な夜をな過ごしてんで、 気の済むまで
私は思わずスマートフォンを地面に投げつけそうになった。期待して損したし、何でこんなメッセージを送りつけてくる。嫉妬心を掻き立てているつもりなのか、本当に私に愛想を尽かしたのか。メッセージの内容も、不貞行為を堂々と
苛立ちだけが増して、自暴自棄な気持ちが勢いとなり、信夫邸の扉を開ける。そして、開けてから気づいた。夫婦仲が険悪なとき、妻なら仁王立ちからのボディーアッパーが飛んでくる。私は思わず身構えた。
しかし、ここは詩乃の家。お出迎えはなかったが、拳をくれることもなく、平穏であった。しかし、それ以上に気になったのは、どこかで経験した、独特な香り。
そうだ。あのときに感じた香りだ。松本医師のクリニックで。でも、ここの方が数段香りが強い。すると、階段を降りてくる音。詩乃の足音か。怒っているのか歓迎しているのか。不安を感じながら、挨拶をしよう。
「ただいま──」
そう言いかけたところで、私は口を塞がれた。口を塞いだのは、詩乃の口だった。そして即座に甘い味がする。
私は詩乃に口づけをされていたのだ。しかも10秒、20秒経っても離してくれない。普通なら
そして、しばらくするうちに、私もフワッとした気分になってきた。この香りのせいか。その瞬間、急に脳裏に妻からのメッセージがなだれ込んでくる。あの意味不明なLINEメッセージが。
そ、そういうことだったのか。ぼんやりとする意識の中で、その謎が解けた。しかし、それで自分が何とかしようとしても、身体が言うことを聞かなかった。とうとう
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