3‐7
松本医師の言葉には妙な説得力があった。だから、気づくと信頼しますと言ってしまっていた。
それから、私は、妻に対する恐怖、ひいては女性全般に対する恐怖を打ち明けることになる。つい、初対面なのにいろいろ喋ってしまった。この前トラブルになった部屋の間取りの件まで。
しかし、その原因は判然としない。何か若い頃に、女性に対して嫌がらせを受けたりイジメを受けたり、そういったことは特にない。気づいたときにはそうなっていた、ということなのだろう。
「結論から申し上げますと、我妻さんは優しすぎるのです。特に女性に対しては、誰に対しても可憐な花のように扱っているのでしょう。傷つけてはいけない、
なるほど。言われてみるとそんな気がしてきた。女性に嫌われないように、言葉や行動を選んでいるうちに、それがかえって溝を作ってしまっているのかもしれない。
「だから、潜在的に眠っている、女性に対してのリミッターを解除。いや、いささか響きが良くないので言い換えますと、あなたが封じ込めてしまっている女性に対する自信を呼び起こせば、自然に解決するでしょう。奥様は最初は驚かれると思いますが、でも次第に慣れて、より良好な関係が築き上げられます」
私は、既に先生の言葉にある種の陶酔を感じていた。どこかで、私の心の悩みを打ち明けることは、自我の否定やダメ出しを受けることかと構えていたが、この医師は否定するところか、私の優しさが行き過ぎて、皮肉にも有害事象が起きてしまっていると言う。私は第三者に否定されないことがこんなにも快いものだと、はじめて気づかされた。いつも私を取り巻く人間は、妻といい津曲といい耀といい、何かと私を否定しがちだが、彼は私の良さを認めて、認容してくれている。普通の人間には当たり前の幸せが私には経験できず、それをはじめて味わった悦びに浸っていたのだ。
気づいたときには、施術がどうだったかも分からないくらい、リラックスしてしまっていた。集中していたはずなのに思い出せないくらい。
そして、施術が終わったときには、なぜか身体が温かく、顔や全身の筋肉が引き締まったかのような感覚になっていた。そして、診察室を出て、詩乃さんの姿がいつもと変わって映った。これは詩乃さんが施術を受けたからそう見えたのではなく、明らかに自分自身の変化だった。
「どうだった?」
「何か自分が自分でないような気分だよ」
「うん。私も分かる。カッコよくなったね。もともとダンディーだけど、磨きがかかったようだよ」
「あと、どういうわけか世界が明るくなったような気がする。詩乃さんがこんなに綺麗に見えるなんて」
施術を受ける前なら、こんな言葉は絶対吐かないだろうが、自ずとそんな臭いセリフがついて出た。
「嬉しい」詩乃さんは、気味悪がることはなく、自然な笑みで喜んでくれた。
そして、そのときから確かな違いに気づいた。私は言葉で女性を喜ばせたりすることを、ついぞ経験したことがなかったのだが、このとき初めて味わったのだ。こんなにも容易で、こんなにも自然で、さらにこんなにも快感を感じることを。
私は確信した。あの松本医師の力は確かであることを。
†
「松本先生って凄いんだな。こんなにも世界が変わるなんて思ってなかったよ」
「凄いでしょ。
帰りの車の中で、詩乃さんは
何と言っても、身体に余計な負担をかけない所が良い。私自身もその目で、その身体で確かめたのだ。
「次はいつ通院するの?」
「本当は3ヶ月後でいいって言われてるんだけど、私の希望で1ヶ月後にしてる」
「それはどういう理由で?」
「催眠効果も時間とともに薄れてくるんだけど、やっぱり2ヶ月すぎると調子が良くなくってね。毎月施術を受けると身体がスッキリするの」
「そうなんだ?」と疑問符付きで返したが、何となくその気持ちは理解できた。
「でも身体には無害なんだし、保険外でやってもらってるから、制度上の制約もないみたいで。簡単に言うと好きなときに来ていいよって感じで、本当に松本先生優しいのよ」
詩乃さんの家に着いた。玲衣ちゃんを迎えに行き、そういえば、今日は依頼の最後の日だったことを思い出す。
夜が明けたら、詩乃さんとはお別れだ。ここに来て、詩乃さんの美しさに気づき、若干名残惜しさを感じる。
施術の効果か身体が軽い。このまま本当は今夜詩乃さんを抱いてしまおうか。そんな邪念すら生まれた。そういう不貞行為ができるような気分だし、また、許されるような気がした。
「今夜で最後だね。どうだった? 私と三日三晩だけの夫婦体験は?」
「おかげで楽しかったよ。不倫に陥る調査対象者の気持ちがよく分かる」
「何それ? まるで仕事でやってるみたい。ま、仕事なんだろうけどさ」
そう言って、詩乃さんは膨れっ面を見せてきた。
「ごめんごめん。でも、君みたいな美しい女性と一緒になったら、男はイチコロだよな」
「ふふっ。強さんにだって、あんな綺麗なハニーがいるのに、冗談が好きね」
「あいつは猛獣のように気が強すぎる。私の手に負えない」
施術を受ける前には、口が裂けても言えなかった言葉がするする出てきている。
「あーら? 大丈夫なの。そんなことママ友の私に言っても?」
「今日までは、だって、君の旦那さんなんだろ?」
「嬉しい」詩乃さんは身体を寄せてきた。上目遣いで
もう、遮るものも迷わせるものもなく、本能のまま欲望の赴くままに、詩乃さんの唇を奪って押し倒せば──、というところであったが、私の視界に写真が映った。どこかの農園、いや草地の前をバックにして撮ったような玲衣ちゃんの写真だ。玲衣ちゃんは既に寝静まっていて忘れかけていたが、詩乃さんには、俊伸との愛娘がいる。そして、私と優との間にも愛娘がいる。
ふと、この一夜の迷いによって、一歩間違えれば引き裂かれるかもしれないという、まさしく越えてはいけない一線、子どもたちの悲しむ顔を描いて可視化された。
詩乃さんは、目を
「ごめん……」
†
夜が明ける。
私に抱かれるつもり満々だったのか、それが達成されなかった怒りで、詩乃さんは大いに機嫌を損ねている。
今日は仕事だ。でも口を聞いてくれるような状況ではなかったので、沈黙したまま事務所に向かう。そして、同時に俊伸の依頼された任務は終了となる。
遺恨を残したままの別れに、私の胸に小さな棘が刺さったような気分だが、かと言って、あのまま本当に詩乃さんを押し倒していたら、いまある平常の幸せを失うかもしれない。幸せと表現したが、家族と散り散りになる不幸せを考えると、現状は幸せなのかもしれない。
施術によって気が大きくなっていた私の考えが、コペルニクス的転回をさせるくらい、子供の姿は強力だった。もし、あのとき、写真を見なかったら、本当に一線を越えていただろう。
ふと、妻たちの様子が気になった。俊伸も三日三晩、ともに過ごしているはずだ。
スマートフォンで様子を確認してみようかと思ったとき、知らない間に妻からLINEによるメッセージが届いていることに気づく。
画面には、妻にしては珍しい長文メール。私と離れて、何かしら私の良さを感じたとか、早く戻ってきてほしいとか、そんな内容だったら嬉しいなと淡い期待を寄せつつ、メッセージを読む。
『たっぷり楽しませてもろてるよ! いやー俊伸ちゃんとの熱い夜は最高だね! まーちょい仮想夫婦生活を味わいたいくらいやな☆ やっぱたまには旦那を交換してみるもんやね! 気分転換にもってこいや! 一度きりの人生やからもーちょい延長で決まりやな! 強はどうや? 気だるい人生なんて損やよ! ヤるときにヤッてこそ人生ってもんよ☆』
私は絶望のあまり
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