3‐6

 診察室は非常に狭い空間だった。医師と私と詩乃さんしかいなかったが、それ以上の大人が入ると動くスペースがなくなるくらいの広さである。そういえば、ここには看護師や事務員の姿すら見当たらない。

「顔色は悪くなっていないように見えますが、調子はいかがですか?」

「やっぱりたまに、夜になるとどうしようもなく食べたい欲求に駆られることがあります。男に対する恐怖症は大丈夫のようですが」

 松本まつもとという医師は、白髪に加え、顎から頬、さらに口の周りまで白いひげに覆われた男性であった。

「どうされますか?」

「おねがいします」

 初めて来た私にはさっぱり分からないが、詩乃さんと松本医師との間ではツーカーなのだろう。

「では後ほどお呼びします。ところで──」松本医師が私を見ながら言った。「この御仁は?」

「紹介が遅れました。私の友人です。ちょっと悩みがあるようで」

「ほう、どんな?」

 詩乃さんは私の顔を一瞥いちべつし、自分から説明するねと言った感じのアイコンタクトを送ったあと、話し始めた。

「彼も結婚してるのですが、奥さんのことで悩んでるみたいで。もともと女性に対して一歩引いて接してしまう癖があって、おかげで奥さんに対して不満があっても強く言えないみたいで、最近ストレスが強くなってるようなんです。だから私が松本先生を勧めたんです」

 私は詩乃さんはそんなに委細に話した覚えはなかったが、見事なまでにうまく内情を医師に説明した。まったくそのとおりであり、逆に恥ずかしくなる。

「なるほど」

 松本医師はただ頷いている。

「奥さんのことも私知っているのですが、ちょっと気の強いところがあって、でも彼は優しいから我慢してしまうんです。今後も家族ぐるみで仲良くしていきたいと思っているし、彼を少しでもストレスから開放してほしいんです」

「分かりました。ではあなたも後ほど」

 私は明確な意思表示をしていないが、勝手に話が進んでいる。私は詩乃さんに抗議の視線を送ったが、「ま、いいから」と、笑顔でいなされてしまった。


 いったん待合室に戻る。

 小声で何が始まるのか聞くと、「先生のゴッドハンドの施術よ」と返ってくる。


 白髪の老人男性が呼ばれる。杖をついて、足の動きは覚束おぼつかなく、いかにも歩きづらそうだ。この老人男性は、一度診察を終えて、いまから始まるを待っていたのだろうか。

 そして10分後、驚きの光景を見た。何と、シャキっと背筋を伸ばして、健常人のごとく歩いているのだ。

 50~60歳くらいの淑女も、施術後はシワだらけだった顔につやが戻り、10歳以上若返ったように見える。もう一人、塞ぎ込んだような表情だった妙齢の女性も、施術を終えると、整形したかのように明るい表情になりグンと美しくなった。


「何が起こってるの?」

「だからゴッドハンドよ」詩乃さんはそうとしか答えない。


「信夫さん、どうぞ」詩乃さんは呼ばれてしまった。

「じゃあね」

 そう言って、颯爽とまた診察室に入っていった。


 私はドキドキしながら待つ。何が行われているのかは待合室からは聞こえない。先程の診察室とは別の部屋で施術を受けているのかもしれない。

 10分くらいした後、診察室から詩乃さんの声が聞こえた。感謝の意を伝えているようだが、心なしか声音こわねが明るいものになっている。


 診察室から出てきた詩乃さんを見て私はさらに驚いた。今日の詩乃さんの服装は、身体のラインが外からはっきりと分かるようなタイトなトップス、ボトムスである。細身な体型であるが、トップス、ボトムスがぶかぶかになるくらい、さらに体型が引き締まっていた。そしてなぜかバストラインが際立っている。

「な、なんかエステでも受けてきたの!?」

 思わず、私はそう問うてしまった。

「違うよ。ゴッドハンドと言っても、そういうことはやってない」

 にわかに信じがたい。

「我妻強さーん」とうとう私が呼ばれてしまった。驚きのあまり、期待より不安が上回る。効果覿面こうかてきめんすぎて、自分が自分でなくなるような。でもここまで来て引き下がれないような不思議な求心力が松本医師にはあった。


 今度は、詩乃さんは同行しなかった。あくまで一人で診察室に入るというのか。

 計り知れないほどの緊張感。メンタルクリニックというところに私は受診したことがなかった。いままで敷居が高いところ、そしてどこかで自分には縁遠いところだと、さりげなく忌避してきたのかもしれない。今回はたまたま頼まれて同行しただけで、本来なら入るだけでも勇気が要るものだ。それがいつの間にか受診することになり、しかも、魔法でもかけられたかというほどの変貌をの当たりにする。もはや精神科の領域を凌駕しているのではないかと思うところに、誰の付き添いもなく単身で潜入する。

 

 でも、どこかで、妻との絶対的な主従関係を打開するきっかけになれば、という期待もないわけではない。


 そんな複雑な感情を誰にも打ち明けられないまま、診察室の扉を開けると、部屋は少しお香が焚かれたかのように、仄かなにおいがした。


「では、そこにおかけください。緊張されてるようですね」松本医師はこちらの胸の内を透かしたように、微笑みながら声をかけてきた。

「ええ。初めて受診するものですから」

「最初はみんなそうおっしゃいます。また怪しく思われることもあります。何と言っても、ここは他の精神科では治らなかった悩みが嘘のように解消したと言って、口コミで広まったわけですから、懐疑的にならない方がおかしい。だからこそ先にうちで何をやろうとしているかをすべてお伝えした上で、診察します」

 こちらの疑念や悩みを先に解決しておこう、それがひいては患者の信頼関係を築くためには必要だと言わんばかりだ。だが、はじめて診察を受ける身としては、確かにそちらのほうが安心する。

「お願いします」

「私がやっているのは、端的に言うとです」

「催眠療法?」

 精神科の治療に明るくない私にとっては、どのようなキーワードが来ても疑問符付きで鸚鵡おうむ返しすることになるだろうが、それでも想像のはるか上のキーワードであった。

「そうです。催眠術ってありますでしょ? それを医学的に活用するんです。簡単に言うと、ある患者さんが悩みを抱えていて、悩みを克服するような暗示をかけます。たとえば、虫が嫌いで日常生活ができないくらい恐怖心を抱えておられるとしましょう。それを虫は怖くない、ほとんどの虫は人畜無害なんだという暗示をかけることによって、克服しようとするんです」

「なるほど」

 言われてみると驚くほどあっさりした説明であるが、この医師の話のトーンや口調、そして表情からにじみ出るオーラは、妙に私を納得させた。

「だから、基本的には薬は使わない。もちろん効きにくい患者さんには、補助的に薬は使うこともありますが、安全なものです。信夫さんは、昔は肥満で悩んでおられましたが、催眠によって強い食欲を克服することによって、体型を元に戻しました。薬も特別な処置もしていませんので、当然ながら害となるような副作用もありません」

 話を聞いて安心した一方で、新たな疑問が湧き起こった。詩乃さんは、催眠療法を受けたことは予想されるが、見違えるほどスタイルが良くなった。あれが催眠療法だけで薬も特別な施術もしていなくて説明がつくのだろうか。

「でも、先生。詩乃さ、いや信夫さんは、診察室から出て驚くほど、あの、何というか、綺麗になられましたよね。それに、他の患者さんも別人のようにイキイキとして出てこられました。催眠療法だけというのは、いかにも不思議です」

 もはや魔法に近いものがあろう。整形手術を施されても、あんな僅かな時間に生まれ変わるものだろうか。

 一方で、松本医師はまったく質問に対して動揺を見せない。

「いや、驚くことはないですよ。簡単に言うと、もともとその人が持っている潜在的な美しさや活力を引き出しただけです。具体的には、信夫さんは少し猫背になりがちなので、姿勢を良くするような暗示をかけました。でもそれ以上のことはしていません」

「そ、そうなんですか?」

「人は、背筋を伸ばして、腹筋に力を入れるだけで、男性は凛々しく、女性は美しくなるものです。ですので、美しくなったわけではなくて、もともと持っている魅力を引き出すお手伝いをしたに過ぎません」

 そう言われると、すっと溜飲が下がってしまう自分がいる。

「でも、効果は一時的で、どんなに催眠がかかりやすい人でも永続的ではありません。時間とともに効果は薄まってきますので、定期的な通院が必要になってくるんです」と松本医師は付け加えた。

「わ、私にも効くんですか?」私は率直に問うてみた。

「効くという言葉の定義が曖昧ですので、一概に答えづらいのですが、あえて回答するのなら個人差こそあれ、一定の効果はあるのでは、と思っています。個人差というのは、効きやすい人、効きにくい人がいるということです。催眠療法は暗示をかけることですので、物事を合理的に判断してしまう人、イメージすることが苦手な人は効きにくいと言えます。あと、もう一つ、絶対にお願いしたいことがあります」

「絶対にお願いしたいこと?」

「はい。です」松本医師の口調がやや強くなったような気がした。「施術は、患者さんの潜在意識を呼び起こします。過去の恐怖体験やトラウマ、その他有害事象を引き起こす原因がそこにあれば、そこにアプローチして改善を図ります。極めてプライベートな領域に第三者が踏み込むわけですから、それは一定の信頼関係がないと成功し得ません」

 確かにそうだな、と思うと、私の発言を待たずに松本医師はさらに続けた。

「さぁ我妻さん。私を信頼をしていただけますか?」

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