3‐5

 その日はしこたま酒を飲んだ。

 理性が私を疲れさせる原因の最たるものだということが分かった。それを消し去るのは酒しかないと思った。

 宮城県で生まれ育った私は、親が日本酒好きだということもあって、遺伝的にもお酒が飲めるし、好きだった。仕事以外で唯一リラックスできる瞬間が、酒をたしなみ音楽を聴きながら本を読む瞬間と言っても過言ではなかった。

 帰宅途中の酒屋で、安い日本酒の四合瓶を2本買って、家で飲む。今日はとにかく疲れていたし、きっとすぐに酔ってしまうはずだ。記憶をなくしてしまった方が帰って楽だ。結果としてもし閨事に至ったとしても、酒を理由に言い訳すれば良い。そんな、半分自暴自棄な気持ちでいた。依頼をこなすというよりも、精神の拠り所を求めていたという方が正しい。


 ところが、皮肉にも感覚は冴えていく。基本、家で飲む酒は、外で飲む酒よりも酔いが回りやすい。潜在的に、外では酔い潰れてはいけないという理性が働くのか、大量に飲んでもしゃきっとしている。家でぐびぐび飲めば、たちどころに記憶を失い、結果としていつの間にか眠っていることが多い。しかし、今日ばかりは私を現実から逃避させることを許してくれなかった。


 詩乃さんのフィジカル・インティマシーはより一層強くなってくる。彼女の肌のぬくもり、艶やかな質感、香る吐息、婀娜あだっぽいご尊顔。伝わる五感は、アルコールの本来の作用に反して冴え渡り、却って敏感に刺激する。疲れているはずなのに、疲れることを許してくれなかった。


 私はもう我慢の限界だった。そのまま押し倒して、理性などかなぐり捨てて、無茶苦茶にしてやれと幾度となく中枢から筋肉に指令が来た。何も遮るものはない。


 これは仕事なのだ。何と素晴らしい口実なのだろうか。そんなことを思いながら、夜は更けていく。


『強! 何やってんや! チタンドライバーでしばくぞ! ゴラ!』

『パパ! アタシも大きくなったらタンテーさんになろうかなぁ?』

『パパっ! だいちゅき』


 肉体の深在する何処いずこから聞こえる家族の声。

 眼前の人妻の肉体は露わになりかけているところだった。あと10秒、この声が遅かったら、完全にいたかも知れなかった。

「ごめん。無理だ!」

 ぎりぎりのところで、私の中のモラルが本能に打ちったのだ。美しいはずの、そして長らくご無沙汰だったはずの女性の肉体を、拒絶したのだ。やはり私は、依頼であったとしても、妻と子供を差し置いて、こんなことはできない。

 

「何で! こっちは本気だったのよ!」

「本気にさせて悪かった。でも無理なんだ」

「最悪。興ざめだよ。探偵さん……」

 最後、詩乃さんは私を罵倒していたような気がしたが、己に克った瞬間、私は安心したのか、強烈な睡魔に襲われ、たちどころに深い眠りに落ちた。



 朝起きると、道端に捨て置かれていた、ということはなくて、信夫家の寝室の布団の上で目が醒めた。

 スマートフォンには相変わらず妻からの連絡は入っていない。一体どうなっているのだ。


 そういえば、今日は月曜日であり、土日が休みにならない探偵業において、平日休みは日常茶飯事である。一方で、玲衣ちゃんは幼稚園なので今日はいない。つまり、今日は日中、詩乃さんと二人きりになる。

 昨日の口論で非常に気まずいムードで、長時間2人で過ごさねばならない苦しみを味わわないといけない。気晴らしで外に出て、コーヒーにでも飲みに行きたい気分だが、依頼を受けている立場上、それが許されるのか疑問である。改めて七面倒臭い依頼を受けてしまったと今更ながら後悔する。


 詩乃さんは、キッチンで無言で朝食を作っている。

「玲衣ちゃんのお母さん、きょ、今日のご予定は?」

「何、その呼び方? 詩乃しのって呼んで!」

 明らかに怒っている態度に私は思わず怯む。他人行儀過ぎる対応に彼女はげんなりしているのか。

「あ、ごめん。ふ、詩乃さん。今日の予定は?」

 特にない、という回答を期待した。ないと確認できれば、私は晴れて自由の身。喫茶店で時間を潰すなり、図書館で好きな本を読みあさるなり、羽根を伸ばすことができる。おおよそこんな自由は、妻と一緒にいるときにでも味わうことはできない。

 しかし、そんな淡い夢はいとも簡単に打ち砕かれる。

「クリニックに行くの。当然ついてきてくれるよね?」

 何でついていかないといけないのか、という質問は愚問として却下すると言わんばかりの威圧を感じた。

「クリニック? 病気なの?」

「そう。心のね」

 メンタルクリニックに通っていたとは知らなかった。心の病気については門外漢である。でも、これまで私に働いてきた行き過ぎたフィジカル・インティマシーがこの病気の症状によるもので、私がそれに応じなかったことがストレスを助長させることに繋がっていたのなら、申し訳ないことをしたと思ってしまう。でも、これは単に私がお人好しなだけだろうか。


 メンタルクリニックは車で1時間もかかるところにあった。千葉市を出て、ここはどこか。大網白里おおあみしらさと市か茂原もばら市か、そのあたりだろうか。さすがに遠くなかろうか。政令市の千葉市内ならメンタルクリニックなら、車を20分も走らせればあるはずだろう。ここでしか対応できないような名医がいるのだろうか。

 しかし、奇妙なことにクリニックに目立つ看板らしきものがない。到着した建物の外観は、ちょっと年季の入った民家のような。


「ここがクリニック?」

「うん。すごい先生なの」

「精神科の?」

「もし悩みがあれば、相談してみたら。私はここでずっとお世話になってるけど、き物が取れたように身体が楽になったよ」

 引き戸タイプの扉を、がらがらと音を立てながら開ける。建付けが悪いのか、スムーズに開かない。

 本当にここはクリニックなのかと疑念を持っていたが、意外と古いながらも待合室のていをなした、少し広めの部屋と長椅子が数脚用意されている。そして、患者が既に何人かいた。杖を持った白髪の老人男性、50~60歳くらいと思われるシワの深い淑女、疲れた表情の妙齢の女性と年齢も様々だ。失礼ながら建物の外観から、開店休業ではないかと思っていたが、そうではないようで安心する。


 待合室には、医師免許証が額縁に入って飾られていた。医師名は『松本精如』と書かれている。名前の読み方まではわからないが、生年月日から70歳近いことが分かる。

「混んでるようだね」私がそう言うと、「名医だからね」と返ってくる。

 彼女には、名医と言わしめるだけの強い悩みがあって、それを解決できるだけの力がここの医師にあったということなのだろう。どういうメンタルの悩みがあったのだろう。

「どういうことに悩んでたの?」と、私は思わず聞いてしまってから、聞いて良かったのかと自問した。

 心の病気はデリケートな問題のような気がするし、ここは個室どころかパーテーションすらない、他の患者に筒抜けの空間だったのだ。


「過食による肥満と男性恐怖症だよ。それもかなりひどいやつ」

 意外にも躊躇ちゅうちょなく即答された。そしてそれ以上にその内容に驚いた。なぜなら、いまの詩乃さんの姿から想像もできない内容だったからだ。

「え? そうなの?」

「私、こう見えて昔100 kg超えてたの。それで好きな人にもひどいフられ方して、男と付き合うどころか、話をしたり近づくだけでも吐き気が出るくらい、恐怖を感じてたの」

 にわかに信じがたい。詩乃さんは女性にしてはかなりスリムな体型だ。50 kg満たないのではなかろうか。それに、男性に対する積極性は、恐怖症とは正反対と言えるくらいである。むしろ男性を蠱惑こわくして翻弄することを楽しんでいるかのようだ。

「信じられん。相当努力したの?」

「それがね、ここを受診してから、あれほど食べても食べても尽きない食欲がパタッと止んだの。薬も飲んでないし、もちろん脂肪吸引もしてないよ。カウンセリングだけでね。その代わりに美しくなろうとする気持ちが芽生えて、それが男性に対する恐怖を和らげた。それで俊伸さんと結婚できたんだけどね。いまもリバウンドせず維持できてるけど、通院だけは止めないようにしている。その方が自分にとっても調子がいいの」

「そっか……」

 確かに過食は精神的な疾患の一つかも知れないが、カウンセリングだけでここまで美しさを取り戻せるのであれば、たしかに名医だろう。

「我妻さんも、怖いと感じているもの、苦手なものとかないの?」


 苦手なものはある。恐怖症とまではいかないだろうが、女性との相性はあまり良くないのではないかと思っている。

 昔から私は奥手だった。正直、妻と出会うまで、交際しても長続きしなかった。男に対しては冗談を言って笑い合ったり、からかい合ったりすることができるのだが、女性に対しては、からきしそれができなかった。

 そんな私がなぜ、現在の妻と結婚することができたのかは置いておいて、結婚後女性に対しての免疫がつくかと思いきや、そうではなく恐怖心を助長させる結果となる。夫と妻の間には、決して超えられない高い壁がある。まるで、外国に見られるスラム街と富裕層を分ける壁のごとく、近接していても行き交うことができず、でも一方的に侮蔑され続ける冷たい壁が。


 そういうことを考えてしまってから、私は頭をブンブンと振った。妻のことを心の中で中傷してしまった。本当は愛しているはずなのに、こんな風に思ってしまうのは、現在夫婦仲に大きく亀裂が入っているからだろう。しかし、いかにもあまりに妻が強く、私が弱く成り下がってしまって、結果的に言いたい放題にされている現状は少しでも打破したかった。

「奥さんのこと相談してみたら?」

「な? 何でそんなことを?」

「見てれば分かるよ。強さんが奥さんのことに悩んでるの」

 そんなに分かりやすい関係だっただろうか。少なくとも、あからさまに信夫夫妻の前で、私を罵倒したり嘲弄ちょうろうしたりする姿はなかった、……ように思える。詩乃さんは続ける。

「相談は無料なの。騙されたと思って聞いてみたら。私が話を振ってあげるから」

 詩乃さんは、私と不倫したいのか、妻との関係性を修復したいと思ってくれているのか、さっぱり分からない。女心というものはそういうものなのだろうか。圧倒的にそういった経験値に乏しい私には、皆目見当がつかなかった。


「信夫さーん」ちょうどそのとき診察室から呼び入れる声が聞こえた。

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