Case 4 桟原 優歌・市川 妙典(Sajikihara Yuka & Ichikawa Tadafumi)
4‐1
そのころ俺は、『サウザンド・リーブス探偵事務所』と呼ばれる、大手とされる探偵事務所を辞め、我妻興信所を設立した。独立したと言えば聞こえは良いが、円満退社ではなかった。
サウザンド・リーブスは依頼件数も実績もピカイチだった。連日相談者は多く依頼は絶えなかった。最初に聞き取った相談内容から、適任者を振り分ける。浮気・不倫の調査なら、ホテルや風俗などの内情に精通した探偵が、素行調査なら長時間の尾行や聞き込みを得意とする探偵が、人探しならネットワークに強い探偵が、盗聴盗撮発見調査なら、メカや建築構造に専門知識を持った探偵が充てられた。
俺は、これといったスペシャリティーはなかったが、逆に特に不得手な依頼もなかった(風俗の潜入は除く)ので、比較的ジェネラリストな扱いであり、社としては使い勝手のいい探偵だったと思う。何かあれば、我妻に担当させれば何とかなる、という雰囲気があったことは、俺自身なんとなく察知していた。
だから、サウザンド・リーブスでこつこつと実績を積み上げれば、安泰な人生を送れていた。しかし、俺はそれが分かっていながら、どうしても社風に相容れないところがあり、慰留を
サウザンド・リーブスの最大の問題点は、相談者、依頼人に寄り添う気持ちが欠落しているところだった。
依頼された内容を的確にこなすことはこなすが、依頼人の心の奥底の悩みを汲み取り、解決に向けて手を差し伸べることはしない探偵が多い。依頼内容以上のサービスの提供は社の方針に背いており、もしそれをしようとするなら契約内容に盛り込み依頼料と成功報酬を獲れと言うのだ。
それでも、俺は黙って依頼内容以上の悩みに応えてきた。他の探偵に比べて、同種の依頼を処理するのに時間がかかったが、その分、依頼人の満足度やリピーターは多かったように思える。しかし、依頼人からの感謝の手紙やメールなどで、俺のやりすぎた仕事が上司の目に触れることになり、そのたびに叱責された。
そのうち、俺には、要求度の高くなさそうな依頼人の依頼しか回されなくなった。また、リピーターや口コミによる評判を頼って俺を指名する相談者の依頼を断ったり、指名料と謳って高額の料金を前払いさせたりして、探偵としての良心に背く行為が鼻持ちならなかったのである。
俺が辞めると聞いたとき、上司たちはどう思っただろうか。慰留しようとした上司は、社の中でも比較的、俺に考えに理解を示してくれる人だった。でも、そうでない人間は、「辞めたいって言ってるんだから、好きにさせてやれ」と邪魔者を追い払うような言い草だった。
『探偵である前に、ひとりの人間でありたい』という綺麗事にも聞こえるような殊勝なポリシーが俺にはあったのだ。だから、探偵としての将来を約束されたレールから自ら外れて、独立という道を選んだ。
最初は、やはり前途多難だった。依頼が想像以上に来ず、開店休業状態だった。やはり、信頼と実績を掲げるサウザンド・リーブスと、真っ向から競合しようとする独立したての零細探偵事務所では、歴然とした広報力の差があった。また、調査内容になっては、俺ひとりでは対応できない依頼もあった。あまりにも人間の生理現象の限界を超えるような長時間の尾行や張り込みは受けられなかったり、張り込んでいても、死角となる出口から調査対象者が出てしまい、失敗に終わるケースもあった。
でも数少ない依頼を親身になって対応していると、依頼人から感謝されることも多かった。中には、サウザンド・リーブスに依頼したが、金だけ高くて、必要最低限の調査しかされなかったと言って、俺を訪ねた人もいた。
そうやって細々とした探偵活動を続けて、1年ほどが経過したある日の出来事であった。
「ここが我妻興信所? えらい狭いとこやな? 大丈夫なんか?」
扉をこじ開けるように入ってきたのは、粗野な口調とは正反対な、見目麗しい妙齢の女性であった。隣にはスーツ姿にメガネをかけた好青年然とした30歳に満たないくらいの男の姿も。
「あ、何の御用ですか? 相談は予約制ですが……」
俺は慌てた。特にアポイントのない日ではあったが、いきなり入ってこられるのは困る。もし、他の依頼人から機微な情報を聞き取っている最中だったら、第三者に漏洩させることになりかねないからだ。
しかし、そんなこと意に介さないという表情で、女性は俺を睨みつけた。美しいがその分眼光も鋭い。見るからに気の強そうな女性だ。
いまにも殴ってきそうなほどメンチを切ってくるが、何もしないし何も言わない。黙ったまま、10秒ほどが経過しただろうか。
「な、何ですか?」俺は耐えきれずに、女性に問うた。
「ほんま、知らんようやな?」
俺は頭の中に疑問符が湧いた。
「あ、すんません。この人、有名人なんですが。お分かりになられますか?」男が言う。
美しいだけあって、有名人だと言われれば、やっぱりそうなのかと納得する部分もあるが、残念ながらあまりテレビも観ないし雑誌も読まない俺は、いくら思い出しても何も浮かばなかった。そもそも関西弁を喋る人間は、芸人くらいしか知らない。
「やっぱ、テレビに出てるときと、印象が違いすぎますかね……。テレビじゃ方言使ってないし」
「やかましいわ、アホ!」
「すみません」男性が女性に謝っている。
しかし、仮にこの女性が標準語を操っていたとしても、俺には思いつく人物がいない。独立して、同僚がいなくなった俺は、致命的にゴシップから遠のいていたのだ。
「これ、見覚えない? アタシさ、ソロデビューして、大きくニュースになったんよ!」
何か、CDらしきものを取り出して、俺の目の前に突き出してきた。しかし、いくら眺めても思いつかないものは思いつかない。
ジャケットに『桟原優歌』と書かれているが、見たこともない名前だった。曲名は『永恋マリン』。
「あさはらゆうか?」とりあえず読んでみたが、多分違うだろう。
「アホか? あんた。こんなんも読めんの?」
言い方がいちいち
「そんな言い方はないでしょう!?」
普段、感情を表を出さないと自他ともに認めるこの俺も、さすがに声を出して抗言した。
「『さじきはらゆうか』、通称『サジコ』や! 『
「ああ……、えええ!?」
俺は一度納得しかけたが、聞いた言葉を
そのセンターで歌っているのなら、超がつく有名人ではないか。
「さすがに、世間一般常識としてこれくらい知っとらんと、千葉から追い出されるで? いや千葉じゃなくて日本から追い出されるかも。いまや歌手だけやなくて女優としてもアタシは活躍してんねん。こないだも
美貌を歪めて、俺を
「そ、そうですか……。ING78のメンバーなんですよね? 何で関西弁なんですか?」
テレビでメンバーが関西弁を喋っていた記憶はないし、隣の男もそう言っていた。
「そ、それはな……?」これまでの口調から少しおとなしく歯切れ悪そうにした。聞いてはいけないことだったか、と思ったが、桟原は口を開いた。「アタシな、大阪に住んどった時期があってな、父ちゃんも関西人やし、こっちの方がいろいろ楽なんや」
そういうことか。しかし、そこまでバツが悪そうに答えることでもないだろうに。
「ま、関西弁を喋ってたということは内密にしてください。千葉のアイドルグループですから」と隣の男が言う。「あ、すみません。申し遅れましたが、マネージャーの
男は
俺も、儀礼的に2人に名刺を差し出す。
「我妻強って言うねんな」と桟原は確認するように言った。
「ところで、今日の御用は何でしょうか?」
すると、市川マネージャーが桟原優歌に確認するように見やる。
「あ、アタシは、この探偵に託してもいいで?」
託してもいいとはどういうことか。
「分かりました──」と、市川は一言言ってから、俺の方を向き直した。「あの、依頼内容は内密にしてほしいのですが、桟原はストーカー被害に遭ってるんです」
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