3‐2
信夫俊伸は41歳。私より1歳年下だ。5歳の子供を持つ父親にしては、お互い歳をとっている方で、まだ三十路にもなっていない若い父親に比べれば随分と話が合う。人に積極的に話かけるのが苦手な私にすら、気さくに話しかけてくるので、プライベートで話ができる数少ない人物の一人と言えよう。
妻づてで、私が探偵をやっていることも知っている。そして信夫がどんな職業なのかも聞かされている。
俊伸はCGクリエーターなのだそうだ。ちなみに信夫夫人もメイクアップアーティストとして収入を得ているらしい。どちらも私とはまるで接点のなさそうな職業だが、妻どうし、娘どうしのつながりから、自然と旦那どうしも繋がった間柄だ。
信夫俊伸の妻は
そんな感じで、信夫一家にはお世話になっている。私自身がこんな性格なので、自分から俊伸に連絡を取ることはないのだが、俊伸は定期的に「飲みに行きましょう!」と言ってくる。仕事関係で飲みに行くことがほぼなく、プライベートでの付き合いも僅かな私にとっては、現在唯一と言っていいほどの飲み仲間になっている。
飲みに行くときは、たいてい、子供の話や妻の話で盛り上がっている。仕事の話は、双方の職業の接点が少ないので、深くはしない。普段は軽口を叩いて調子の良い俊伸は、酔うと詩乃夫人の愚痴が炸裂する。そこまで言って良いのだろうかとこっちが気がかりになるくらいだ。私は職業柄、口が堅いが、他の客で詩乃夫人の知人がいないとも限らないのに。
そのような間柄だからこそ、今日わざわざ
「俊伸さん、今日はどうしたんですか?」
「いやー、折り入って、強さんにお願いしたいことがありましてね……!」
「どのようなご用件です??」
こうやって畏まって来るくらいだから、本腰を入れて調査をしなければならない案件なのだろう。人探しか、ストーカー調査、盗聴器の発見とか、まさか詩乃夫人の浮気調査とか。
「ちょっと恥ずかしいんですけど……?」
俊伸は少し顔を赤らめた。何だろう。私まで緊張してきた。
「何です?」
「えっと、あの、数日間、お互いの奥さんを交換してくれませんかねっ!?」
私は耳を疑った。何を言うかと思えば、あまりにも
津曲は近くにいなかった。耀への教育に集中していたのか、端から俊伸の依頼内容に興味がなかったのかのどちらかだが、いずれにせよ用件は聞かれていない。
「何言ってるんです!? ふざけてるんですか?」
通常は相談者に対して、こんな口の聞き方はしないのだが、相手が俊伸であることと、依頼内容があまりにも突飛だったので、つい言ってしまった。
「いや、おしどり夫婦の我妻夫妻にこんなことをお願いするのは、失礼って分かってますけど、お願いしたいんです。強さんにしか頼めないんです」
完全にふざけているわけではなさそうだが、それでも話が見えてこない。
「もうちょっと依頼の意図を明らかにしてもらわないと。単なる素行調査とか浮気調査とかなら、依頼されたことを淡々とこなせばいいですけど、こんな依頼初めてだし、少なくともお互いの家族を巻き込むでしょ」
「あ、すんません。いきなりすぎてビックリっすよね」
当然だ、という言葉は飲み込んでおく。俊伸じゃなければ、
「簡単に言うと、最近、うちの嫁さんの僕への態度が酷いんです。大人しそうな顔して僕をディスったりして。そこで、少しの間、頭を冷やしてもらう意味で、夫を取り替えっこしようっていうのが趣旨です」
ということは、簡単に言うと、私が一時的に詩乃夫人の夫になることで、俊伸のありがたみを気づかせるのが狙いか。大前提として、俊伸の方が私よりも、旦那としてましであると思われているということで、これは随分と失敬な話ではないか。
「ひどいな。僕って、そんなに旦那として魅力ないですか?」
「あ、いやいや、そういう意味じゃないっすよ。一つは気分転換です」
「気分転換?」私は、理解が追いつかず、思わず眉を
「うちの嫁さんは、実は僕以外の男と交際したことがないんですよ。女子高、女子大と来ていて、職場もアパレルなので、女性社員が多くて、そんな中、たまたま居酒屋で近くに座っていた僕たちのグループと意気投合して、仲良くなったんですが、それまで、異性の友だちもいなかったらしいですから」
確か、俊伸からそのような
「ですから、他に男を知らない状態で僕と結婚したことに、心残りがあるような感じがしていて、だから浮気願望まではいかないまでも、他の男に興味があるんじゃないか、って思ってるんです」
妙な話だ。浮気が心配で、阻止する行動を取るほうが一般的だと思うが、俊伸の提案は、それとは正反対だ。配偶者の不貞行為を助長しようなんて、どう考えても普通ではない。
「いや、待ってください。奥さんがそういう願望があるのは確かなんですか? それに心配じゃないんですか?」
「嫁さんは、よく言ってますよ。『旦那があなたじゃなかったら良かったのに』って」
「それは冗談で言ってるだけでしょ?」女心を読むのが苦手な私でも、それくらい明らかに分かる。
「もちろんそうっすけど、あまりにも繰り返し言うもんですから。それに、心配はしてないですよ。数日間だけの予定だし、何と言っても強さんだから」
それはどういう意味だろう。
「私が、奥さんをその気にさせるくらいの魅力がないってことです?」あえて意地悪な聞き方をした。
「そうそう、あっ、いえ、違います。強さんが誠実だからです!」
最初の肯定が間違いなく本音だ。失礼な男だ。私とて不機嫌な顔を隠すことができない。
「もう遅いって……」
「違うんですー!」
私の周りにいる人間は、妻といい、津曲といい、姫野耀といい、そしてこの男といい、どいつもこいつも私のことを見下し過ぎだろう。
†
「でも、結局依頼受けちゃったんすねー! さすが! 隅に置けないな~、我妻さんも!」
「我妻さんやるなぁ。仕事のためならあの美人奥さんを捨てる勇気!」
津曲と耀が口々に言う。この2人は何か勘違いしている。
もっとも、あんな失礼な依頼人は滅多にいなかったが、信夫俊伸は口が上手かった。私とは対照的に。
あんなことを言っておきながら、相手を許させてしまうキャラクターだ。もともと調子の良い男で、誰にでも気さくに話しかけてくる分、相手に対して失礼な発言もないわけでない。でも、換言すれば、人と人の間の垣根を取っ払ってくれる行為とも取れる。天然なのか打算なのかは分からない。それでいて、注意されても懲りないところがあったり、隙が多かったり、ツッコミどころは多く、それが相手に安心感を与えているようにも感じる。現実、他人を疑うことが職業柄のような探偵の私が、彼と懇意にしているところからも窺えるように。
✪
「強さんはどうです?
胸の内を透かしたように俊伸は問うてきた。ピンポイントで最悪の関係だったのだ。どん底と言わんばかりに。なお、優ちゃんとは妻の名である。詩乃が『優ちゃん』と呼ぶので、そう呼んでいるのだろう。
「あ、その顔は上手くいってないようですね。強さんは従順だから、結構溜め込んでるんじゃないですか?」
依頼を受けさせるための作戦なのか、はたまた何も考えてないのか、踏み込んだことを言う。
「こういうときくらいしかないんじゃないですか? 尻に敷かれた亭主が、合理的な理由で他の女性と一緒になれるのも」
普通なら、馬鹿なことを、と一笑に付すところだが、実際に俊伸の指摘はもっともだったし、気の強すぎる妻にうんざりしていて、この手の誘惑に弱い心理状況であったのは間違いなかった。
「優ちゃんのことなら任せてください。僕が嫌がる強さんを制して無理やり旦那を取り替えさせた、依頼料もしっかり払ってます、と言っておきます」
俊伸は畳み掛ける。そして、最後が決め手だった。
「ま、優ちゃんも僕と一緒にいる時点で同罪になりますし、気楽に行きましょ」
一途さだけでは自信があった(本音は不貞行為を働いたときの仕打ちが怖い)私は、悪魔的な誘惑に負けてしまった。そして、こんな珍妙な依頼を受けることになった。
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