Case 3 信夫 俊伸(Shinobu Toshinobu)

3‐1

 それは11月7日の出来事であった。

 姫総デザインの注文住宅を検討し始めて間もないが、一つ問題が生じたのだ。


 先日、調査を兼ねた姫総デザインとの打ち合わせで、千葉市内の土地の売買契約を交わしたところだ。場所は、JR総武本線でいうと稲毛いなげ駅、千葉都市モノレールの最寄りは穴川あながわ駅とするあたりの、住宅街だ。生活の利便性は高いがその分坪単価も高価ゆえ、約30坪と広くない。建蔽けんぺい率70%、容積率200%の第1種低層住居専用地域。南向きで日当たり良好の一般的な土地で、広くはないものの設計するにも困らないはずだが、妻がこだわりが炸裂したのだ。

「せっかくの南向きやから、1階のリビングは5メートルの高天井にしたいんや。そしてLDKは20畳以上欲しい。明るくて広いリビングは子供の成長にもプラスやで」

 これによって、自ずと家は2階建てになる。なぜなら低層住宅地区では、軒の高さ7メートル、住宅高さ10メートルだからだ。そして20畳以上のLDKを確保しようとすると、風呂とトイレは2階じゃないと厳しいという話になり、残りは寝室と子供部屋2つ。

 私はあまり住宅の間取りには希望やこだわりはなかったが、唯一挙げるとすれば書斎が欲しかった。ドアで隔たれていなくても良い。最近は子供と妻のおかげで自宅にいる時間落ち着いて本を読むことはできなかったが、本来、ジャズやフュージョンを流しながら読書することが好きで、本に囲まれた空間は憧れだった。2畳で構わない。


「あかんわ。書斎は諦めてもらわんと」

 ほとんど妻のこだわり、いやわがままが詰め込まれて、たかだか2畳の私の希望はいとも簡単にかき消されてしまった。家を建てることに最初は消極的だったが、いざ建てるのなら、私にとっても住み心地の良い空間にしたいという気持ちはある。でもそのささやかな願いはまるで虫けらを潰すように却下されたのだ。


 さすがの私も物申した。しかし、妻は聞き入れてくれない。理由は、高天井を諦めて3階建てにしたら老後大変だ、つよしが家で読書している姿など見たことがない、本が読みたきゃ事務所で読め、ということだ。あんまりで、口調を荒らげたところ、妻の怒りが爆発した。

 暴力とまではいかなかったが、私に対する罵倒は筆舌に尽くし難いものだった。ある意味、一発パンチが飛んでくる方がまだ愛嬌があって良いほどだ。言葉の暴力は、妻に対する信用、信頼を一気に失わせた。どん底の気持ちから1ミリも這い上がれぬまま、ベッドに臥した。


 そして8日の朝を迎えた。いくらJKがおめかしして初アルバイトに現れたって、テンションが上がらないのは自明の理だ。

「我妻さん、いつもテンション低いから気にしないで。覚えてもらう業務は、この僕が教えるからさ」

 津曲は、私の心中しんちゅうなどまるで興味なしという感じで、新入りのJKアルバイトにうつつを抜かしている。別に気持ちを察して欲しいわけでもなく、心配して欲しいわけでも、ましてや話を聞いて欲しいわけでもないのだが、ああ言われると向かっ腹が立つ。

 かと言って、姫野耀に慰めて欲しいわけでもない。耀に言ったところで私の求めている書斎が、天空の城ラピュタの如く出現するわけではないし、むしろ妻からモラル・ハラスメント一歩手前の状態に陥っていることが、姫総デザインのスタッフづてに妻の耳に入ったら、間違いなく私は刺される。


 仕方ないので、やり場のない怒りを鎮めつつ、努めて平静を装うしかない。津曲の言うように、私はもともとテンションが低く見えるらしく、感情の起伏も、言葉の抑揚もあまりないので、空元気からげんきを出す必要はない。いつもどおり淡々と、飄々ひょうひょうと仕事をしているように見せなければならない。


「今日1件、11時から初回来社の予約が入ってるみたいっすね! 津曲さん」

「……そうか」

 そういえばそんな気もするが、依頼内容を思い出すことも再度確認することも億劫に思われた。探偵として失格だが、仕事が終わったら戦場のような状態の自宅に帰らないといけない中で、なかなかそんな気になれない。私だけの緊急事態なのだ。

「みんな、律儀だねー! わざわざ予約して来んの?」と、耀はトンチンカンのことを抜かす。

 当たり前だろ、と私は心の中で突っ込んだ。興信所はうどん屋じゃないんだぞ。そう言えば、このJKは最初の相談のとき、ほぼアポイントを入れない状態で来たことを思い出した。

「依頼人は、男の人みたいだね。男性の依頼人は全部我妻さんに任せときゃいいよ」

 また無茶苦茶なことを。津曲は男女で対応が露骨に違いすぎる。しかし、注意したところで響かないのが津曲だ。

「あ、これが依頼人の名前なんですね。えっと、信じる夫……?」

「ははは。たぶんシノブさんって読むんだろうね。シノブ……、トシノブ?」

 何か聞いたことのある名前だ。確か、みぎわと同じ幼稚園に通う友達もそんな名字じゃなかっただろうか。確か、信夫しのぶ玲衣れいちゃんといったはずだ。

 よくある名字ではないのでひょっとして、その親族なのだろうか。

「津曲、その人の住所どうなってる?」

「住所っすか? あ、我妻さんに近いんじゃないっすか。美浜区真紗まさって書いてありますよ」

 真紗って言ったら、やはり玲衣ちゃんの家かもしれない。実は、妻は信夫家と仲が良く、お互いの家に遊びに行く間柄だ。私も信夫一家と会ったことがある。

 となるとますます用件が気になる。

「どういう相談内容なんだ?」

「それは書いてないっす。伺ったら話しますとしか書いてないっすね」

 通常、配偶者がいるこれくらいの年代の相談者の依頼内容は、不倫の調査であることが多い。ただ、そのような用件は、普通に考えて自分の知人に調査を依頼しない。相談することが汚点を晒すような行為だし、尾行している人間が私の知っている人なら気づかれてしまうことが多い。だからそもそもお受けしかねる。

 もっと、勤務先とか友人関係の調査なのか。でもいま慌てたって仕方ない。じきに分かることなのだから。


 しかし、依頼人で知り合いが来るのは珍しい気もする。仕事とは言え、若干緊張する。

 そわそわしながらいると、相談者は約束の時間よりも15分も早くやって来た。


「ご無沙汰しておりまーす。我妻さん! すみません、突然──、お? こんなに美人な探偵秘書さんがいるんですか? ここは。オーキッドピンクのチークが光輝いて見えるね! 眩しい!」

 やはりその人物は、私の知っている信夫玲衣ちゃんの父親、信夫俊伸としのぶだった。

 開口一番、あまりにも気障きざな美辞麗句で褒め称えられた姫野耀は、喜びを通り越して、呆然と立ち尽くしていた。

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