2‐7

 サウザンド・リーフズの探偵は、店に入る淳を写真に収めた後、迷わず店に入っていった。青いスーツを着た若くてホスト然とした探偵で私の知らない男だ。

 私も慌てて淳が入店する様子を写真を収めた。しかしその後、二の足を踏んだ。いや、二の足どころではない。店の入口から10 m以内近づけない。

 調査する上で、こういう店が登場することはある。夫がキャバ嬢に浮気しているケースだ。おおよそ、店に入るところ、店を出るところを写真に収めれば事足りる。(その場合、同伴かアフターで相手の女が隣りにいる場合が多い。)

 以前、サウザンド・リーフズにいたときに、風俗店に潜入しないといけないシチュエーションがあったにはあったが、そこは代わりの人間に頼んだ。

 しかし、今回の耀の依頼内容を遂行するためには入らなければならない。絶対にプライベートでは足を踏み入れない禁断のエリア。大学生のときに一度だけ先輩に無理やり連れられたことはあったが、ほぼ一言も話せずに店を出て、大いにからかわれた。その苦い思い出が後に引き、それからは一度も踏み入れていない。当然、どうやって入ったら良いかも分からない。


 この店に入ったことはなかったことにしようか、と一瞬悪い考えが頭によぎった。しかし、それは愚かな考えだとすぐに首を横に振った。サウザンド・リーフズの連中が調査していて、この現場を捉えているはずだ。何かしらのきっかけで照合作業が行われることがあれば、私は債務不履行、虚偽の報告で追及される恐れがある。


 せめて、津曲でもいれば、と思うが、あの男は何かを思いついて単独で調査に赴いている。いまさら呼びつける時間的余裕もないだろう。

 警察ではないので、捜査目的に入るわけにもいかない。だから、客を装うしかない。不本意ながら、好色漢っぽく振る舞えば振る舞うほど、調査対象者にバレるリスクも少ないのだ。


「お兄さん、キャバクラお探しっすか?」

 躊躇ちゅうちょしていると、店頭のボーイが私に気がついたのか、話しかけてくる。条件反射的に、あ、違います、って言おうとするのを、嫌々ながら飲み込む。

「ええ、まあ」

 そう答えるのが精一杯だ。暑くないのにシャツの中は汗が噴き出ている。

「うちは、いい揃えてますよ~。いまならフリーで入れますよ」

 土曜の夜だし、いっそ混雑して入れませんと言ってほしかった。しかし、まだ午後7時。開店したばかりの時間なので、そんな期待は持てない。


 駅から少し離れているとは言え、このあたりは住宅地も多いし、ちょっと駅に近づけば飲み屋も多く、ゆえに人通りも多い。こんなところでうろうろしていると目立つ。それもまたきまりが悪かった。

「あ、え、だ、誰でもいいです」

 キャストをつけなくてもいいです、と言いたかったが、怪しまれてはいけない。

「はーい。お客様1名、フリーで入店でーす」

 ボーイがインカムで店内に伝えている。

「いらっしゃいませ~!」

 極彩色のドレスに身を固めたキャストがお出迎えをしてくれたが、とにかく目立たなくしてほしい。


 肝心の淳はどこだ。首を潜水艦のセイルのように出して、私は店内を見回す。すると、淳は椅子に座っておらず、グレーのスーツに赤いカッターシャツを着た男と何やら話している。

 何をしているのだろうか。この男と顔なじみなのだろうか。客としてきたのか、そうでないのかも分からない。カメラに収めたかったが、スマホで撮るには店内が暗い。結構人気店なのだろうか。土曜日の夜ということもあるのだろうが、この時間から続々と客が入店してくる。早く撮ったほうが良いだろうと思い、暗視カメラを取り出したときに、

「おまたせしました! こんばんは! はじめまして!」と、ロイヤルブルーのドレスを身に纏った若いキャストが私の横についた。

「ちょっとごめん、少し待ってくれ」

 怪訝そうな顔のキャストを無視してカメラを構えたとき、スマホがブルブル震えた。

 まったく誰だよ、津曲か、と思って、ディスプレイを見ると、『我妻ユウ』と表示されていた。


 やばい。私のありとあらゆる汗腺から汗が滲み出てくるのを実感した。

 普通なら取らない。しかし、妻からの電話は、私にとっては緊急通報並みに優先度が高い。相談者との面会中であっても尾行中であっても運転中であっても。(なお、私は運転中でも自動的にハンズフリーになるように、カーナビとBluetoothで繋がっている。)


 では、取るのか。しかし、電話を受けるための周囲環境があまりにも悪い。ムーディーなBGM。妙齢な女性の婀娜あだっぽいセールストーク。バーテンダーの奏でるシェーカーとグラスの接触音。そして、そこがどこかということを即座に決定づけかねない威勢良く客を勘送迎するキャストとボーイ達の声。結婚後、最も悪いシチュエーションではなかろうか。

「すまん、電話出るから、BGMを落として、静粛にしてくれ」

「え、な、何?」

「ボーイに頼んでくれ!」

「は、はい」キャストはかなり戸惑った様子だったが、仕方あるまい。BGMが少し小さくなったか。そして、電話が切れる前に何とか電話に出る。「もしもし」

『あ、あのね? 土地なんだけどどこがいいかな? いまからビデオ通話にして土地情報映すからよく見てな』

「わーわーわー!」

 私は周りに構わず大声を上げてしまった。それはまずい。ビデオ通話にするということは、こちらの様子も妻に伝わってしまう。仕事中なのに理解してもらえないのかと言われそうだが、そういう常識が通用しないのだ。調査と偽って、女の子と楽しんでたんやろ! あん!? と、をつけるのが目に見えて想像される。

『何や? どーした? いま都合悪いんか?』

「調査中! 昨日の続き」周りに聞こえないように受話口を反対の手で押さえ、努めて声を押し殺しつつ、語気を強めた。

『でも、土地も大事や。姫総さんがお休みの時間でもメールで希望を受けてるらしくてな、先着順なんや。タッチの差でねろうてる土地、獲られたら終わりや』

「いいよ。気に入った土地あったなら、メールで取りあえず申し込んどけばいいよ。キャンセルできるんでしょ?」

『それがな、土地を仮押さえすんのも、1箇所しか無理言うてんねや。そりゃそうだわな。1人で10箇所も20箇所も押さえまくるアホが出てくるとあかんからな。でな、同じくらいいい土地が2つあるん。甲乙つけがたいねん。だから意見が欲しいんや』

 いつもこういうものを決めるとき、妻1人で即断即決してきたのに、よりによって最悪のタイミングで、意見を求めてきた。

 ビデオ通話にするのなら、場所を変える必要があるが、それでは淳の素行を観察できなくなる。車でかれたならまだしも、こんな個人的な都合で追跡不能になるのは、不履行だと言われかねない。

「じゃ、悪いけど、土地情報を写真で送って。10分以内にLINEで返すから」

『珍しいな。LINE無精ぶしょうのパパが、あえてLINEを選ぶなんて……。ま、分かったわ。5分以内に頼むわ』

 5分以内とはなかなか厳しいが、まあ、何とか私の要求を飲んでくれた。ようやく電話を切れる、とほっと息をついたときだった。

「お客様3名様来店!! アカリちゃん、レイちゃん、ルカちゃんご指名でーす!!」

『パパ、いまキャバクラに居てんの!?』


 私は自分の体から血の気が引いていくのを自覚した。

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