2‐5

 声をかけてきたのは、かつての同僚の探偵だった男。サウザンド・リーブス探偵事務所に所属する藤村ふじむらだ。身長は180 cmを超える肥満体型の大男である。

 どうやら、また張り込みを交代したのだろう。そして、私を知るこの男になったのだ。

「仕事だよ」

「ほう? どんな依頼だ? 誰を張ってるんだ?」

「何言ってんだ? 依頼内容を口外できるわけないだろう」

 正直、私はどういう経緯でサウザンド・リーブスの探偵が張り込みをしているのか、非常に気になっている。しかし、いくら知り合いの同業者とて、他社の人間に依頼人の断りなく情報交換するわけにはいかない。それに、そもそも私は藤村を信用していなかった。

「冗談だよ。と、言いながら、調査結果を突き合わせるのは、お互いの依頼人のためにもなるかと思ったんだがな。どうせ黙ってりゃ分かりゃしないんだから」

「それでも無理だ。そもそも、俺はサウザンド・リーブスが嫌で辞めたんだ。そんな人間と信頼関係など築けるものか。嘘の調査情報を流すかもしれないだぞ」

「はっは、ごもっともだな。でもお前もよ、サウザンド・リーブスに残ってりゃ良かったと思うんだがな。上司や先輩は、お前が去っていったのを悔しがってんだ」

「何を言っても無駄だ。もう独立して従業員もいるんだ」

「ったく、冗談の通じねぇ奴だな。そんなことしたらお前の可愛い可愛い嫁さんに恨まれちまう。いかにも気が強そうだからな」

 いよいよ不快になってきた。

「あんたに、俺の家庭事情を話した覚えはない。いつ探りを入れた?」

「何言ってんのさ? 探偵業界じゃあまりにも有名な話だ。狭い業界だからな」

 藤村はせせら笑っている。耳障りで目障りな男だ。

「悪いが、あんたに付き合ってるほど暇じゃない! 仕事なんだ。さっさとどっか行ってくれないか!?」私は語気を荒らげた。

「おー、怖い怖い。でも生憎あいにく、俺も交代したばっかなんでね。ま、お互いせいぜい頑張りましょうや」

 そう言って、藤村は立ち去っていった。


 その日、淳は夜遅くまで事務所で仕事をしていた。他の従業員は大方午後7時くらいには事務所を出て、帰途に就いたようだ。我々を担当した大家も然り。ワークスペースを観察していたので、どんな従業員がいるか、顔はあらかた把握していたが、淳以外の人物は全員、事務所から出ていく姿を確認したと思われる。

 結局夜9時くらいに、電気を消し施錠して事務所を出る。サウザンド・リーブス探偵事務所の人間は、すでに藤村から交代している。やはり人材だけは潤沢な会社だ。

 かくいう私は、トイレ休憩で一度外しただけだ。津曲が午後6時の帰り際に、張り込みを交代してもらっただけだ。その間も淳の動きに異常なしである。


「何か、依頼人のJKからメールとか電話とか入ってきてたか?」

 サウザンド・リーブスの連中が間違いなく同じ人物を張っている理由について、何かヒントになるかもしれないと思い、津曲に聞いてみたものの、

「なーんもありませんでした」と津曲はあっけらかんと答えた。

 期待はしていなかったが、少しがっかりした。最悪、私の方から依頼人の方に問い合わせれば良いのだろうが、どうもあまり触れられたくない問題なのが、調査の目的を黙秘する傾向にある。

 淡々と依頼だけをこなしていれば食える。依頼人だって探偵にすべてを話したいわけではないだろうから、私が詮索する権利はない。でもやはり妙だ。親に無断で依頼してきたJKと、親を尾行させる奇妙な依頼内容。最近評判も業績も乗りに乗っている工務店の社長という言わば『時の人』を同時に複数の探偵が追跡する偶然。何だか不吉な予感がする。


 そんなことをあれやこれや悩んでいると、社長は私用車に乗り込み、東の方面に進む。海浜かいひん大通りを進めるところまで進むと左折し、しばらく北進した後、国道14号に入り、登戸のぶと方面に進む。千葉駅方面に進んいている様子だ。おそらく家に帰っているのだろう。依頼人の住所は千葉神社の付近と推測される。千葉神社は千葉駅から比較的近い。


 しばらくすると、淳はとある家の前に停車した。豪邸であった。そして依頼人の住所とも一致していそうな場所だ。ガレージに車を入れて、そこで調査対象者を見たのは今日は最後だった。

 もうすでに時刻は9時30分。サウザンド・リーブスの探偵はもういない。

 できればここで依頼人が少し外に出てきてくれたら、いろいろ聞き出してみたかったが、豪奢ごうしゃな家には高塀たかべいが付きもの。それに阻まれて、依頼人が家にいるか否かさえも窺えなかった。

 


 帰宅すると、妻はすでに沙も杏も寝かせたらしく、一人で赤ワインを飲んで姫総デザインで受け取ったと思われる資料を読んでいた。

「ご苦労」

 妻は私が帰宅するとおかえりではなく、ご苦労と男前な口調で言うのが通常だ。

「ただいま」と私は言った後、いちばん気になることを聞いてみる。「ほ、本当に家を買うの?」

「考え中。この賃貸マンションも狭いやろ?」

 狭いと言っても3LDK。沙と杏と自分たちの主寝室は確保できる間取りだ。

「そ、そうなのかな? 僕は不満ないけど」

「何? 覚えてへんの? パパはじめてこの部屋を見に来たとき、ちょっと狭いかな、ってうとったやん?」

 ここに引っ越したのは結婚直後。約6年前のことだったと思う。私はすでに記憶が曖昧だが、妻はそういう発言をいつまでも覚えている。妻は続ける。

「それに強、言うてたやん。男の子も欲しいなーって」

「そ、それは確かに言った」

 妻が強い。そして沙は5歳にして早くも妻の強さを継承している。杏も言葉が早く姉と同様、おしゃまな女の子になりそうだ。数年後、私は強い女3人に囲まれて、ボコボコになるかもしれない。男の子が1人入れば、多少風当たりも弱まるだろう。でも次の子も女の子だと、さらに情勢は悪化する。そんな葛藤があった。もちろんそんなことは口が裂けても妻には言っていないが。

「そーすると、このマンションじゃちょっとかわいそうやろ?」

 妻は、私の発言を口実にして新居を買おうとしているのだろうか、それとも本当にもう1人子どもを欲しがっているのだろうか。真意は分かりかねるが、どちらにしても経済的に厳しいのではなかろうか。

 そんな心配をよそに、妻は風呂上がりですっぴんのはずなのに、それを感じさせない美しい笑顔で言った。

「あ、いーね! 杏も大きくなってきたことだし、3人きょうだいって賑やかで憧れるね! ってことで強! 今夜どうや?」

 私はしどろもどろになり、酒も飲んでいないのに顔が紅潮しているのを自覚したのは言うまでもない。


 風呂を出ると、妻は調査のことも気になっていたようで、例のごとく聞いてきた。

 妻は勘が鋭いので、何か新たな気づきを与えてくれるかもしれない。依頼内容は着実に進めているが、反面、胸のモヤモヤは強くなっている。

「サウザンド・リーブスの探偵が張ってたんだよね。あの社長を」

「あ、あの悪徳探偵事務所か?」

 妻は、この探偵事務所をライバル視、もとい嫌っている。

「普通、同じ依頼人が、同じ調査を複数の探偵に依頼するなんて考えにくい。よっぽど徹底的に調査したいとか、最初に契約した探偵事務所に不安があるとかならまだしも……」

 しかも、依頼人は18になったばかりのJKだ。こんな奇妙な依頼は受けたためしがない。

 しかしながら、妻はまったく考える様子もなく即答した。

「そんな、答えは簡単や。姫総さんの社長をよく思っとらん同業者か、自社の業績を良くしたい同業者が経営向上の秘密を探ろうと調査させてるに決まってん。姫総デザインってすごい人気の工務店で、社長もやり手なんやろ? なら、絶対そうや」

 あ、そうか、と思わず私は拳で手を叩くとともに、それに気づかなかったおのれを恥じた。さすがは関西出身だけあって、商売の勘が冴えていると思うのは偏見だろうか。

「何か、そういう会社ないの?」

「依頼人の話によると、あるらしいよ。姫総デザインがあるために、千葉で手を広げられない大手ハウスメーカーがいるって」

 一応、どこの会社かは伏せておいた。

「じゃ、絶対そこで決まりや。その大手ハウスメーカーを調査したほうが早い」

「早っ! でもこっちは、依頼人の調査を優先させないといかんし……」

「ま、そうやな。明日も明後日も調査が入ってんだっけ? ちゃん従えて」

 妻は津曲のことを『ガリツマちゃん』と呼ぶ。

「津曲は、昼の数時間張り込みを手伝ってもらおうかなと」

「素行調査は大変やな。ま、頑張ってくれ」

 他人事のように妻は言った。妻は興味のある調査にはとことん首を突っ込んでくるが、そうでない調査はまったく関知しようとしない。差が激しいのだ。

 この案件は、妻の関心が高い調査内容だと思っていたから、もっと掘り下げてくるかと思ったが、珍しいなと思った。


 †

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