1‐7

「えっ、な、何で? 確かに言われたもの買った来たけど」

「ぜんぜん違う! 卵だけど、私の欲しいもんやない!?」

「種類が違うのか? でも指定はなかったと思ったけど……」私はおそるおそる問う。

「種類やない! うてきた店よ! あんた、『ミニショップ・プレミアム』で買うたやろ?」

「はい……」

 妻はキレると私のことを『アンタ』と言うし関西弁もキツくなる。でもこれでもまだ穏やかになった方だと思う。あの日の夜、確かに『ミニショップ・プレミアム』で買った。日用品だけではなく、食材も売っているコンビニで、しかも24時間営業で利便性が高い。

「『コピア』やろ! 夜9時までやってる! しかもセール日だったんや、一昨日は! 頼んだ品は全部揃うてる!」

 大手スーパー『コピア』は家の近所にあって、駐車場もある。競合店に比べて安いので、妻がよく行ってるのも知っている。ただ、あの時間にやっているかまでは知らなかった。コピアの閉店時間を調べることを怠り、絶対営業しているコンビニに甘えてしまった。でも24時間営業のミニショップ・プレミアムはちょっとお高いのだ。

「すみません」

「コピアのセール価格分だけ返しとく」

「……」つまりその差額は自腹というのだ。差額といっても100円、200円のレベルだが、月1万円のお小遣い制の私にとって、それでもショックだ。

「返事は!?」

「……はい」

「パパ、もっと大きな声で!」今度は長女のみぎわが言う。

「はい!」 

 返事をした後、溜息をついた。5歳の沙は、だんだん妻の口調に似てきた。次女、あんもこれからそうなるのだろうなと頭を抱える。


 入浴を済ませると、もう夜の8時半が差し掛かっていた。子どもたちは、歯磨きをし始めている。

 妻がキッチンで娘の食器を片づけている間、私は仕上げ磨きをする。

 今日は日曜日。私は月曜日に休みをとっているので良いが、長女は幼稚園だ。9時までには寝かしつけるようにしているため、結構忙しい。


「パパ、今日はおつまみでいい?」妻が突然尋ねてきた。

「あ、うん」

 先ほどの怒りはどこへやらという感じで、平然としているので、私は混乱しつつも、承諾した。


「パパ、今日もママとラブラブだね! はワイン? ビール?」

「沙には関係ないでしょ?」

「じゃ、ママと長く二人きりになれるように、私も杏も早く寝なきゃね」

「……じゃなくて、明日幼稚園だから」

 沙がニヤニヤしながら話してくる。かもしれないが、おしゃまな子だ。5歳のくせに『晩酌』という言葉はおろか、意味も正しく理解している。


 予定通り8時45分には布団に入れ、9時には寝かしつけた。ディズニーのプロジェクターはやはり効果的だ。2歳の杏は、これがあるとないとでは大違いと言わんばかりに、すぐ寝ついてくれる。確かに電池が切れたら、大事かもしれない。


「ご苦労さん」ワインでもビールでもいいよ。

「じゃ、ワインにしようかな」

「赤も白もシャンパンもあるから、お好きなのどうぞ」

 こんな夜であるが、育児の疲れなどまるで見せず、手際良くおつまみを用意してくれる。今日は大好物の舞茸の天ぷらもある。

 決して広くないごく普通のマンションの一室にしつらえられた、大きくないダイニング・テーブルに美味しそうなおつまみが並ぶ。

 妻は恐いが、普段は明るくて優しい。機嫌さえ損なわなければ、ここまでの良妻賢母はいないだろう。

「1週間、お疲れさまでした。乾杯」


 白ワインも残り残り3割くらいにまで減ったとき、妻が切り出した。

「依頼人の奥さん、どうやった?」

「ん? 調査結果を伝えたときのこと?」

「そう」

「……まあ、パッと見は普通にしてたけどね」

「それなら良かった」

 そう言いながらも、妻はどこか神妙な顔つきをしていた。20秒間くらいの沈黙の後、妻が再び切り出す。

「実は、美羽ミハネは、当時から少しメンタルが病んでいたところがあったみたいやから」

「そ、そうなの」

「うん、昔の仕事仲間が言ってた。グラビアアイドルも相当、新陳代謝が激しくて、次々に新しい子が出てきて、長く活躍できる子はほんの一握り。でも美羽は人一倍、芸能界への執着が強かったみたいやから、生き残りを懸けて、豊胸手術をやったらしい」

「豊胸手術をやったってのは、本当だったのか」

「もちろん、おおやけにはなってないけどな。でも疑惑は独り歩きして、ファンからもファン以外からも相当叩かれたみたい」

 芸能界はおろか、テレビにも出たことのない私は、それがどれくらいのストレスなのか体験したことがないが、SNSで簡単に個人を攻撃できることから、相当ストレスになっていたことだろう。ストレスのあまり芸能界をやめるに至ったが、執着が強かったのなら、やめるのもストレスだったに違いない。

 そして、察するに自己顕示欲が強いのだろう。自己顕示欲が強ければ、きっと自分の身の回り、あるいは容姿に気遣うようになる。グラビアアイドルであれば、自分の容姿の維持には、人並み以上に気にするのかもしれない。しかし、出産、授乳を経て体型が崩れてしまい、自己顕示欲の満足からはどんどん程遠くなっていく。そのフラストレーションはどんどん積もり積もって、光之を攻撃するようになる。それを少しでも打開しようとして、元・美容外科医の先生に相談した。そして、それがあらぬ浮気の疑いに発展した。


 いま考えてみると、ちょっとストレス耐性がない人なら、大いに陥りやすい話かもしれない。危うく、私もミスリードされるところだったが、妻がそれを正してくれた。

「ありがとう、ユウちゃん」

「ユウちゃんなんて、キモっ! いつも子供の前では『お母さん』って呼ぶくせに」

 私は、出会ったばかりの頃を思い出し、久しぶりに昔の呼び名で呼んだのに、あえなくられて、恥ずかしさで意気消沈した。


「もし、あたしがさ、美羽みたいに、これから体型崩れていったらどうする?」

「女性は見た目じゃないよ」

「ほんまー?? もし、急に老けて、ブサイクになって、激太りして口臭もきつくなって」

 私は一瞬想像した。自他ともに認める美貌を誇る妻がそのような姿になることを。いや想像できなかった。このひとに限ってそんなことはないだろう。

「それでも、君のことが好きであり続けられるよ」

「こら、いまちょっと考えたな!? このアホおっとが!?」

 返事に要するまでの時間はたかだか1.5秒くらいのものだったはずだが、その空白の間が逆鱗に触れたようだ。

「滅相もございません! お許しください!」

 今夜の晩酌はちょっとした修羅場になった。



 休みが明けて、火曜日の朝。

 普段はすぐ矛先が収まる妻も、一昨日の晩酌での諍いは、結構根に持たれた。妻は、沙と杏を除き、私にとって世の中で自分がいちばんの女でなければならないという信念を感じる。夫婦なのだから至極真っ当だが、たった1.5秒のインターバルであそこまでキレられるとは思ってもみなかった。

「我妻さん、元気ないですね。また奥さんに怒られたんですか?」

「やかましい」

 ニヤリとした表情で聞く津曲に腹を立てる。この男は、我妻家の夫婦間のもつれに関しては妙に察しがいい。

「喧嘩するほど仲いいって言うじゃないっすか。我妻家は理想っすわ。ここは、綺麗な女性の依頼人は来るけど、みんな既婚者だもんな」

 下心丸出しの事務職兼相談員兼探偵見習にげんなりする。浮気・不倫調査が依頼内容のトップであり、その多くは旦那を調査させるもの。既婚女性が多いのは当然のことだ。

 平穏が訪れれば愚痴を言う。辛抱強さが探偵に求められる資質だから、この男は向いていないのではないかと思うのだが、それでもいないと困ることがある。この男とて嫌なら辞めていくと思うが、存外そうしないのは、我妻興信所ここを気に入っているのだろうか。


 そんなことをあれやこれや考えると、業務用のPCにメール受信を伝える通知音が鳴る。

「お! 我妻さん! こっち来てください! メールに女子学生って書いてある! JDっすよ! JD!」津曲が急にいつになくテンションが高くなっている。

「何だよ、JDって?」

「女子大学生っすよ! 探偵なんですからそれくらい知っててください」

「それがどうした?」

「依頼人ですよ! 受けてください!」

「依頼内容にもよるし、そもそも女子大生って……」

 すると、ドアフォンも鳴らさずにドアを開ける音がした。


「ここで良いんですよね? 我妻興信所って……」

 現れたのは20歳前後と思われる若い女性。茶髪のロングヘアで、おしゃれながらも品のある出で立ちをしている。大学生だろうか。

「そうですが」目があった私は答えた。

「たったいまメールを送りました姫野ひめのです。依頼したいことがあるんですがいいですか?」


【Case 1 おわり】

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