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 私が検見川浜けみがわはま駅近くにある自宅に着いたのは夜8時55分。マンションのエレベーターが10階に停まっていたせいで、私は自宅のある6階まで荷物を持って駆け上がった。

 タイム・リミットの9時にはあと5分あるじゃないか、という意見を持つ者は甘い。妻の設けた期限はあくまでやむを得ない事情で遅れたときのデッド・ライン。15分前行動がデフォルト。大目に見ても5分前にはやり終えていないといけない。体力には自信がある方だが、さすがに6階までの階段を全力疾走しては、ぜいぜいと息が上がる。


「ご苦労」

 玄関の前で娘の杏を抱きながら仁王立ちして、妻は言った。でも笑顔はない。美人ではあるが、可愛らしさではなく、美人ならではの凛々しさと表現すべき鋭い眼光がある。そんな心を射抜くような眼差しを向ける妻は、奇しくも射手座サジタリアン。やはりこのひとは恐い。

「いまから杏を寝かしつけるから、お皿とか茶碗とか、洗っといて」

 私はため息をついた。妻には尾行を邪魔したという悪気をまったく感じていないようだ。

「返事は!?」急に妻の声。私は飛び上がって「はい!」と言った。


 私は悄然しょうぜんとして、言われたとおり皿を洗っていると、5分後には妻は戻ってきた。

「杏、ディズニーのプロジェクターつけたら、一瞬で寝たわ」

みぎわは?」

「あの娘は寝付くの早いから」

 それは良かった、と思う一方で、私のわだかまりは消えない。やはり、基本は仕事人間なので、できればあの後の二人の行動を追跡したかった。


「あんた、元気ないなぁ?」

 誰のせいだと思っている、と心の中で叫んだが、音声にすることはできない。反抗したらどうなるか、想像しただけでも恐ろしい。

「尾行うまくいかんかったん?」

 図星だが、その原因を作ったのは妻である。もちろん口には出さない。

「ま、うてみなさい。どういう案件やったん?」


 妻が思いのほか詰め寄ってきた。

 たまにではあるが、何かを感じ取ったかのように、依頼内容を根掘り葉掘り聞き出そうとすることがある。依頼内容は言わずもがな極秘事項なので、関係者意外に漏らすのは厳禁である。でも妻は、そんなことは意に介さない。一度何かをすると決めたら、絶対引かない女なのだ。

「また極秘だからって言うんやろ。でも、アタシ、あんたの興信所の従業員ってことになってんだからさ、いいやん」

 これが、先述の、職員は津曲だけと、あえて記した理由になる。実は妻も興信所に勤めていることになっている。

 依頼人に渡す重要事項説明書には、任務の遂行のために当興信所の職員に情報を共有することがある、と記載してある。つまり、妻が依頼内容を知りたがるので、妻を非常勤職員とし、絶対第三者に漏らさないという条件で、提供している。

 無駄に職業倫理に縛られている私にとって、普通であれば、それすらも良心にもとる行為なのだが、妻は無敵だ。どういうわけだが、得てしてこういうとき、安楽椅子探偵アームチェア・ディテクティブの如く話を聞いただけで真相を見抜いてしまうことがある。最初は懐疑的に思っても、本当にそれが真実だったりする。羨ましい限りの慧眼の持ち主なのである。


「わ、分かった。分かりました。誰にも言わないっていう約束なら」

「もちろん! そう来なきゃあかんやろ!」

 あまりに軽いノリなので、私自身ヒヤヒヤすることがあるが、約束は守る義理堅さはある。『女に二言はない』と言わんばかりに。



「すぐ、その依頼人の家に行って!」

 そう妻が言ったのは、私が依頼人の名前、調査対象者の名前、依頼内容、それからここまでの調査結果を伝え、それから妻に依頼人の外見的な特徴を聞かれて答えた直後だった。

 何かを察したのだろう。急に慌てたように彼女は言った。


 私は家の車を発進させた。先ほど薬園台病院で張り込みをしたときと同じ電気自動車だ。仕事でも使っているが、自家用車としても使っている。おかげさまで我が家には、この車1台と原付しかない。車を2台購入すれば良いだけの話なのだが、妻が倹約家なので、仮に安い車でも駐車場代を理由に叶えられていない。

 そのとき、スマートフォンがブルブルと震える。着信だ。ディスプレイには『津曲』。何をいまさらと思わずスマートフォンを助手席に投げつけそうになったが、すぐ思い止め電話に出る。どうせならこの男にも仕事をしてもらおうか。

「悪いが、いますぐJR船橋駅南口の『トラットリア・ロッソ船橋店』に向かってくれ。そこに、宗像瑠華という女性がいるか確認してくれ。写真は薬園台病院のホームページにある」

 最初は『えーっ』と驚いていた津曲だが、結局引き受けてくれた。津曲はちょうど東京メトロ東西とうざい線の原木中山ばらきなかやま駅のすぐそばに住んでいる。電車ならすぐだ。


 電話を終えたとき、時間は9時25分。依頼人の住所は記憶している。検見川総合運動場の近くだ。私の家からも車ならすぐだ。


 9時35分に、再度津曲から電話が鳴る。

『我妻さんに言われたとおり調べましたが、宗像瑠華はいませんでしたよ。店の人に聞いたら、15分くらい前に店を出てJRの船橋駅の方に向かっていった、と』

「ありがとう」一言礼を言って、電話を切った。


 9時40分。私は三浦光之と美羽の家の前に到着した。一軒家に三浦の表札があるから間違いないだろう。リビングと思しき南側の窓にはライトが点いている。

 待つこと5分。そこに先ほどまで私が尾行していた光之が現れた。

 何ということだろう。実はこれは妻が推理したとおりの現象そのものだった。そして、私とは正反対の推理である。

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