1‐3

 私は車の窓を開けて、カメラを取り出した。カメラは探偵の必須アイテム。ないと仕事にならない。この車の次にお金をかけている代物だ。暗視カメラを取り出して、何枚か写真を撮る。

 よし。あとは、光之と隣の女性がどこに向かうか。ホテル街なら完全にだ。

 そのときだった。

 私のスマートフォンがブルブルと震えた。普通なら無視するのだが、無視できない相手だった。ディスプレイには『我妻ユウ』の文字。最強にして無敵、相手が総理大臣でもヤクザでも、怖気おじけづかないと豪語する天下無双妻だ。私にとっては非常事態。出ないわけにはいかなかった。すぐに窓を閉めて通話アイコンをタップする。


「は、はい」尾行中なので窓を閉めていても小声になる。

「あ、ひょっとして尾行中? 悪いけど、9時までに、卵1パック12個入りとセピアのトイレットペーパーのダブル、それからネボルタの単3乾電池8個入りうてきて」

 尾行中であることを察した上での要求だった。どういう了見かと思いながらも、「え? あ、は、はい」と私は答えていた。

 なお、最初の「え?」は、嘘だろ、という心の声が具現化したもの。「あ」はすぐに逆らっちゃいけないというブレーキ。そして「は、はい」は戸惑いながらも従いますという、意思表示だ。

「よろしく! 絶対守ってや!」

 絶対守ってや、という言葉が突き刺さる。どうせ妻のお願いは命令と同義だから、その言葉があろうとなかろうと一緒なのだが、プレッシャーがのしかかる。しかし、こちらも調査の依頼を受けている以上、しっかり責務は全うせねばならない。でも妻の依頼も私にとっては重大責務。ちゃんとやらないと本当にあとが恐ろしい。

 妻からの圧力に困惑しながらも車を動かす。調査対象は辛うじてまだ追えている。スマートフォンをハンズフリーにして、すぐに津曲に電話する。彼の好きなING78アイエヌジー・セブンティエイトの呼び出しメロディーが車内に流れる。買い物を頼んで、私の家に届けてもらわなければ。

『おかけになった電話をお呼びしましたがお出になりません』

 無情なアナウンス。何で出ねえんだよバカヤロー、と私は悪態をついた。


 仕方がないので、ひとまず買い物のことは置いておいて、尾行しなければならない。光之と隣の女性は手こそ繋いではいないが、仲睦なかむつまじそうに談笑している。何を話しているかわからないが、女性には笑顔が見られる。おや、と思った。あの女性、どこかで見覚えがあるような。

 尾行を続けながら私は黙考した。あ、あの女性は、さっき病院のホームページで見た顔だった。医師の顔写真にあった顔と酷似している。

 あとでホームページを確認するとして、光之たちは薬園台駅に進んでいく。このまま電車に乗るのだろう。彼らは改札を通過した。車では追跡が難しいので、駅からいちばん近いコインパーキングにさっと駐車して、電車の尾行に切り替える。


 隣の女性がどこに住んでいるか知らないが、おそらくは新津田沼しんつだぬま方面に進むだろう。幸いこの駅は1面2線の島式ホームなのだ。対面式だと、反対側のホームにいた場合に追いかけるのが難しくなる。

 やはり新津田沼方面の列に彼らは並んでいる。私は彼らの並んでいる列の最後尾に並んだ。光之と女性は私に尾行されていることに気付いていない様子だ。相変わらず後ろを気にする様子はない。ありがたいことに、電車が来るまで少し時間があったおかげで、追跡できている。妻の電話には肝を冷やしたが、今日の私はツイている。どこに向かうか分からないが、このままなら時間内に証拠を押さえて、帰宅することも可能なのではないか。


 電車が入線する。車内は結構混雑していた。光之たちが何を喋っているのは、電車の轟音と車内アナウンスで聞き取れなかった。仕方ないので、彼らに注意を払いつつ、女性の正体を確認することにした。再度薬園台病院のホームページの医師紹介を確認すると、私の予想は的中した。写真のときと髪色は若干変わっているが、クリっとした二重まぶたの眼と形の整った眉は、写真そのままである。名前は『宗像むねかた瑠華るか』で形成外科の医師である。

 

 しかし、診療放射線技師と形成外科医がここまで親密なのか。私にはよく分からない。光之は誠実そうな印象を受けるも、申し訳ないが特段ハンサムというわけではないし、給与も一般的に医師の方が厚遇されている。この医師は彼が妻子持ちだということを知らないのだろうか。知っていたとしても知らなかっとしても、彼と彼女を結びつけるものが何かが分からなかった。


 そんなことをあれこれ考えていると、新津田沼駅到着のアナウンスが聞こえてきた。多くの乗客がここで降りる。彼ら2人も下車したので、私もそれに続いた。改札を出てJRの津田沼つだぬま駅に向かう。

 依頼人である美羽の話によると、JR総武本線の新検見川駅から津田沼駅で乗り換えて薬園台駅で降りているとのことだ。まっすぐ家に帰るなら、千葉ちば駅方面に乗るはずだが、彼らは総武線快速の東京方面の電車に乗った。

 一体どこに行くのだろうか。すごく遠いところに行くんじゃないだろうな、と冷や冷やしていたが、意外にも船橋ふなばし駅で下車した。


 船橋は千葉県を代表する駅の一つだ。非常に多くの人で賑わっている。彼らを見失わないようにしながら、人波を縫って進む。駅南部にはバーやラブホテルもある。そこに向かう姿を確認し、写真に収められれば、ひとまず今日の調査を終了するつもりでいた。しかし、二人はバーやホテルのあるところではなく、違うところに向かっていた。それは意外ではあるが、しかしある意味不倫の疑惑を増長するような。


 そこは、船橋駅に併設されている、ショッピング街の一角に位置する、ランジェリーショップだった。

 なぜにそんなところに来るのか。普通、(私の感覚では)男女で女性用下着を見に行くことは、あまりないと思う。いや、どうだろう。本当に仲睦まじいカップルなら、あるかもしれない。でも、私はたとえ仕事だとしても入るのが躊躇ためらわれるほど、禁断の領域だ。少なくとも私は、妻と一緒にランジェリーショップに入ったことはない。


 意味が分からなかった。この男女の深層心理が理解できない。彼らはずんずんと店の奥に入っていき、店員と話までしている。黒髪に赤いメッシュの入ったセミロングの店員だ。

 何を話しているのかとても気になるが、ランジェリーショップが私にとってのになっているせいで、近づくことすら敵わない。そもそもここは駅併設のショッピング街で、やたらと明るく、人通りがあっても雑踏に紛れることができない。黒いジャケットを来たおっさんがランジェリーショップを睨んでいる姿はかなり怪しいし目立つ。写真を撮るのはおろか、張り込みもやりにくい。


 早く出てきてくれ、と思うこと15分。ようやく彼らは店を出た。結局何も買った様子はない。ブラジャーの商品をあれやこれや出してもらって、店員の説明を聞いただけである。どんな会話がなされたか分からないが、お目当てのものがなかったのだろう。

 何も買わなかったとは言え、男女でそのような店に入るなんて、やはり普通の関係じゃない。おそらく宗像医師の下着を見に行ったのだろう。試着はしてなかったがたぶんそうだ。結局、光之に好みに合うものがなくて、購入に至らなかっただけだ。


 その後、彼らは駅の改札には入らなかった。もし駅で解散となるなら、一概に不倫とは断定し難いと思った。(ランジェリーショップの謎は残るが、まだ夜8時である。)しかし、駅の南口のほど近くのイタリア料理店に入っていくので、私はカメラを取り出し、写真を何枚も撮る。店の名前は『トラットリア・ロッソ』だ。

 店は比較的賑わっていて、ものすごく高級感溢れる感じではない。店内は比較的明るい。それでも、これは間違いなくだ。二人はワインをボトルで注文し、それぞれパスタを注文している。


 取りあえず、証拠となる写真は収めた。この後ホテルに入っていくならその写真を収めたかったが、ランジェリーショップで下着選びとイタリアンレストランで晩酌だけで充分だろう。


 ふと時計を見る。8時15分だ。ヤバい。これから薬園台駅に戻って車を取りに行き、通りすがりのコンビニで妻から言われたものを買って帰ると、9時ギリギリだ。

 津曲はリダイヤルを寄越さない。買い物の代行だけでもやってもらえたら助かるのに。もう一度電話をするが、やはり出ない。不届き者め。


 仕方なく今日の調査は切り上げる。幸い船橋駅付近は、日用品を売っている店はごろごろあるので、目的の品物は買い揃えられた。

 改札を通る前に再度、先程のイタリアンレストランをのぞくと、彼らはいた。相変わらず仲良く談笑している。私は光之の行為を不倫と結論づけた。


 そのとき私のスマートフォンが震えた。ディスプレイには『我妻ユウ』の文字。私は心拍数が跳ね上がる。

『あ、強? どこにおんの? 寝かしつけプロジェクターがないとあんが寝られへんのよ! 電池切れちゃってるからはようして!』

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