1‐2
相談者は
「ご主人は、お仕事何をされているのですか?」
「
薬園台病院といえば、
「ご主人が浮気をされていると思われる心当たりは何ですか?」
「き、気になりだしたのは、1ヶ月半くらい前からです」
意外に最近だなと思った。何となくもっと長い間思い悩んでいるように思えたからだ。美羽は続ける。
「8月ぐらいから日勤なのに急に帰ってくることが遅くなったな、なんて思ったんです。普段は遅くても夜7時半くらいまでには帰ってくるんです。でも先月は10時とか11時とか、下手すると日付が変わることもあったり……。最初は忙しくなったのかなってその時は思ってたんですが、下世話な話なんですけど、管理職でもないのに、8月の給与明細の時間外手当がいつもとほとんど変わってなくて、ひょっとして、と思うようになりました」
そう言うと、美羽は直近3ヶ月の給与明細を私の前に広げた。確かに『時間外勤務手当』の欄の数字に、大差はないようだ。
そう言えば、ようやく少し落ち着きを取り戻してくれたのか、三浦美羽は吃らなくなった。今日は9月22日。給与はだいたい20日前後に振り込まれることが多いのだろう。律儀に旦那は給与明細を持って帰り、疑いから確信へを変えさせることになったのだろう。特に最近は病院も、労働基準法36条1項に基づく労使協定(通称『
「遅くなった理由をご主人に聞かれましたか?」
「いえ、まだ。恐くて、ちょっと切り出せなくて……」
この相談人は、夫に頭が上がらないのだろうか。亭主関白なのか。
「分かりました。基本的には尾行と、必要に応じて聞き取り調査になります。探偵業法で許されている範囲で調査を行いますので、例えば盗聴器を仕掛けるとか、自宅に無断に侵入することはできません」
このあたりは、ルーティンの説明事項だ。中にも調査のためなら何でもやっても良いと思っている依頼人もいることから、しっかり事前に説明しておかなければならない。もっとも、これらのことは探偵業法第7条に明記されており、その旨を書面にして依頼人に交付しなければならないのであるが。
その後、調査に必要な人数、調査期間、そして料金の案内などを一通り説明した。
「……私からの説明は以上ですが、何かご不明点は?」
「いえ、大丈夫です。調査を依頼したいです」
案外、あっさりと話がまとまった。ホームページをしっかり閲覧してから予約してきたと思われる相談者でも、結局また考え直します、と言われたり、契約に至らなかったりする例はいくらでもある。
「料金プランは」
「白黒はっきりさせたいんです。調査が必要な人数を最大限導入して、期間もいくらかかっても構いません。成功報酬もちゃんとお支払いします」
私は面食らった。初見の三浦美羽の気が弱そうな印象とは裏腹に、調査のためには金に糸目をつけないのだ。それだけ思い悩んでいるのだろうが、調査をする時間と人員によって金額はかかる。成功報酬も他と比べて高く設定していないが、頂戴はしている。あと、調査が長引けば、尾行を勘づかれるリスクも増える。もちろんこちらはプロなので、気づかれないよう細心の注意を払うわけだが、それでも万が一調査が長引いて気づかれてしまったら、その後の調査はやりにくくなるし、探偵を雇ったことを真っ先に疑われるのは、間違いなくこの奥さんだ。
「えっと、期間は決めていただかないと。もし、不倫をしている確かな証拠が掴めば、そこで調査結果をお伝えできますが、そうでなかった場合、いつまで調査するのか。ないものを証明することは『悪魔の証明』になってしまうので、いついつまで調査したが、確かな証拠が見当たらなかったというという結果の伝え方になります。そうなると調査期間を設定していただかなければなりません」
「あっ、た、確かにそうですね。失礼しました」
思わず、気持ちが前のめりしすぎたことを自覚したのか、美羽は少しバツの悪そうな表情を見せた。
ひとまず、調査員は私1人で、5時間の調査を提案した。もっと3日間とか1週間の依頼もできるが、あまりにも高くなってしまう。給与明細で収入もある程度把握できたので、あまりにも無謀な料金プランは良心が
契約書、重要事項説明書、調査利用目的確認書など、事務手続きを進める。その後、いつ調査を行うか、不倫があるとするならば、その可能性が高くなりそうな日を教えてもらった。日勤の日の仕事の後だというので、シフト表を確認した。
美羽からもらった夫の写真を見る限りだが、眼鏡をかけていて清潔感の漂う髪型だ。自分が患者なら、不快な印象は受けない。当然ながら不貞行為には無縁そうだ。地域で名のある大病院の職員だから、品行方正な印象を受けるだけかもしれない。でも、この奥さんは疑っている。
調査の決行日は9月26日。その日は金曜日だ。金曜日は特に遅くなる傾向があるという。
「いやー、依頼が来て良かったですね。我妻さん」
依頼人が帰った後に津曲が言った。呑気なものだ。
「あの奥さん、何ですぐに依頼を決めたんだろうな」
私はそれがどうも引っかかっていた。
「そんな珍しいことなんですか? 来たその日に契約するのって」
「いや、そういうわけじゃないんだが……」
スマホやネットが普及し、簡単に情報が手に入る時代。
でも、美羽の外見や喋り方などから、もっと迷って
「きっと、相当悩んで悩んで悩み抜いて、ここに来たんですよ。いいじゃないですか? 美人の依頼人で」
津曲はアイドルオタクなのに、発言はどこか軽薄だ。チャラい。
「美人は関係ないだろ」
「あ、我妻さんの奥様の方がもっと美人ですよね! 失礼しました」
「ったく……」
私は敢えて肯定も否定もしなかった。口に出すといろいろと面倒そうだ。
†
そして、決行日はすぐやってくる。
私は薬園台病院まで車で赴いた。仕事で使う車は、黒いハッチバックの国産車。景色に馴染み、特に夜は背景に溶けるようだ。県内どこにでもある千葉ナンバー。唯一の特徴は電気自動車で静かであること。つまり尾行することを前提にした商売道具だ。
病院の情報は
この病院のホームページには、医師のリストと顔写真がある。でも調査対象は診療放射線技師なので、彼に関してホームページから得られる情報はなかった。
最寄りの薬園台駅からは徒歩10分くらい。三浦光之も電車通勤ということで、おそらくは駅に近い正面玄関から出入りすることだろう。
病院には夕方5時少し前に着いた。日勤帯は5時半までらしい。一般の患者を装って、病院の中をうろうろしてみる。
光之は放射線科にいるだろうか。外来の時間は終わっているのか、放射線科の受付は人がおらず閑散としている。用がある人は呼び鈴を鳴らすようになっているが、患者でもない私が鳴らすわけにもいくまい。
放射線科の前はさほどスペースが広くないので、ずっとそこにいると何かと目立つ。残念ながら病院の中に入ってみても得られる情報はなかった。妻の提示したシフトの情報どおりなら、まだ院内にいるはずだろうが。
仕方なく病院の正面玄関のよく見えるところに車を移動させ彼を待つ。5時半が過ぎ、6時が過ぎ、7時が過ぎようとしていた。尾行をやっているとこういうことはざらにある。忍耐力がいる仕事だ。
今日は忙しいのだろうか。患者がいなくたって病院ならカンファレンスだってあるだろうし、これだけの規模なら時間外のレントゲンのオーダーがたくさん入ることだってあるだろう。帰宅が遅くなる原因ならいくらでもある。
そう思っていた頃。三浦光之が現れた。もらっていた写真と間違いなく同一人物だ。
そして、その隣には30歳弱に見えるが、どこか妖艶な雰囲気の漂う髪の長い女性がいた。
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