Case 1 三浦 美羽(Miura Miu)
1‐1
「はぁ、最近依頼来ないっすね」
「文句言うなよ。依頼が来ないってことは世の中平和に回ってるって証拠じゃないか? 警察だって言うだろう? 何もなかった日ほど誇らしい日はないって」
私は、過去の依頼時の契約締結に要した契約書やら重要事項説明書やら、帳簿を整理していた。これらは『探偵業の業務の適正化に関する法律』、通称『探偵業法』に規定された必要書類なので、適切に保管しなければならない。さもなくば、公安委員会や警察が立ち入りに来たときに指導を受けてしまう。気が進まなくてもしっかりやらなければならない。
「警察と一緒にしちゃダメでしょう? 警察は公務員ですよ。でも、探偵は依頼がないと食えないんですよ」
「だからってどうすんだ? 誰かにハニー・トラップでも仕掛けさせて、依頼が来るように仕向けてくださいとか、言うんじゃないんだろうな」
私はそう言いながら鳥肌が立った。ハニー・トラップなんて想像しただけで恐ろしすぎる。私は元来、女性と話すのが得意じゃない。仕事のときは仕事だって割り切っているからいいが、プライベートで女性と会話する機会は家族を除いて、ほぼない。その家族というのは、母親でも女きょうだいでもなくて、妻子だ。私が結婚していること自体、不思議極まりないことだが、その妻がまた凄いのである。
私はハニー・トラップが怖いのではない。正直に言うと、ハニー・トラップを仕掛けられたときの妻の返り討ちが怖いのである。
我が妻は、無敵なのだ。
「我妻さんから、ハニー・トラップなんて言葉が出てくるなんて、驚きですよ。既婚者の修羅場は想像するだけで
「……」
からかっているのか、こいつは。図星だが、素直に認めるのは悔しい。しかし、依頼事項で最も多いのが浮気・不倫調査だ。そんなことでいちいちアレルギーになっていたら仕事にならない。アレルギー治療に経口負荷試験というのがあるように、私だって依頼を受けているうちに、そういった症状を克服しつつある。むしろ、ハニー・トラップやら
「街頭にもっと目立つように看板を出すとか、ホームページをもっと気安くアクセスできるようなシャレたものにするとか、あるでしょ?
我妻興信所は、
探偵は1人。
失礼なことに依頼が来ないと津曲は言ったが、常に閑古鳥が鳴いているわけではない。それなりに依頼人はやってくる。興信所とか探偵事務所とか聞くと、気軽に行きにくいとか料金が高そうで怖いとか(実際うちはそんなことはないはず!)、そんなイメージを持たれがちだが、それでもそのハードルを乗り越えるくらいの悩みを抱えた人が一定数いるということだ。
かと言って、探偵を10人も20人も雇うほどの経営をする力量はないし、そもそも私はあまり人と関わることが好きではないので、細々とやっている。本当を言うと張り込みを行うにしても、ビルの出口が何か所もあると1人、2人ではどうにもならないこともあるので、多くいたほうが良いこともあるのだが、そのデメリットを差し置いても、少人数のほうが心地良い。(やむを得ず3人以上の人員が必要なときは、フリーで活動する探偵に声をかけることがある。)
依頼人には、大手の方が安心できるという人もいる一方で、高くつきそうだとか調査内容を共有する人が少ないほうが良いとかの理由で、うちのような零細興信所を選ぶ人もいる。つまり多くはないけど、需要はちゃんとあるということなのだ。
「我妻さんは、奥さんとは最近どうなんです?」津曲は、私に突然質問をしてきた。
私はその言葉に、思わず身体をビクンと震わす。この男は相当暇なのか、それとも何か嫌なことでもあったのか。私が妻に頭が上がらないことは知っているくせに、わざわざそういうことを聞いてくるなんて。
「何だよ。俺のことはいいだろう? いつもどおりだよ。あんまり家のこと干渉されるのは好きじゃないんだ」
私はしどろもどろになりながら答えた。
私からは、あまり尻に敷かれていることは言っていないはずだが、仕事中でも容赦なく入ってくる妻からの電話と、それに対する私の態度に、早々と上下関係が露見した。私が人をあまり雇いたくない理由は、そういった事情もある。
津曲を雇ったのは、言わば例外だった。それはまた後述する。
「ま、そんな答えが返ってくると思いましたよ。僕も早くいい人見つけて結婚したいな」
私の気持ちも知らず、津曲はそんなことを言ってのける。独身どころか、アイドルオタク、不似合いなマッシュルーム・カットに黒縁眼鏡によれよれのTシャツ、もちろん彼女がいる形跡すらないのに、なぜか結婚願望だけは高い彼は、妻という存在に
ピンポーン。
すっかり仕事から気を緩めていたら、ドアホンが鳴った。依頼人だろうか。予約制なので、電話をまず入れてもらうのが基本なのだが、今日みたいに空いていればいきなりの来訪にも対応している。
津曲が席を立ち、ドアの方に向かっていった。
「あ、あの、えっと、ここってどんなことを調査してもらえるんですか?」
女性の声だった。相談者だろうか。
「ここは初めてですか?」
「あ、はい……」
かなり緊張しているのだろう。悩みに悩んで、意を決してドアホンを鳴らしたと思われる。
「どうぞ、こちらにおかけください」津曲が面談室に案内した様子だ。
「我妻さーん、ご相談の方です」
今の段階では依頼人かどうかは分からない。依頼人と呼ぶと、却って緊張感をもたせてしまうかもしれないので、まだ『ご相談の方』と呼ぶようにさせている。
私は、スーツの
意を決して依頼をしようとした相談者に威圧感を与えかねない外見は、相談を受ける身としては不向きである。電話応対や来客のファースト・タッチを津曲に任せているのもそのためだ。
以前、私が大手の探偵事務所に所属していたときは、これにサングラスと口髭も蓄えていた。渋みは増していたかもしれないが、相談者は萎縮した。
相手にナメられないようにするのと、元来人の目を見て話すのが苦手だから、そうしていたのだが、妻のアドバイス、もとい『是正勧告』に従って、やめるようにした。
「お待たせしました」
努めて相手を萎縮させないようにしながら、私は相談者の前に座る。よくあるタイプの応接用のソファーだ。でも声をかけると相談者は肩をびくんと震わせた。
「あ、あの、と、突然、来てしまってすみません」
相当緊張しているのか、
「いえ、どうされましたか?」
おそらくは浮気・不倫の調査の相談だろう。長年の勘がそう発している。そして、そういうときは大抵当たる。
「しゅ、主人の、そ、素行を調査してほしいんです。浮気をしてるんじゃないかって思って」
来た。やはりそうだ。蚊の鳴くような声が、彼女の悩みの深さを代弁しているかのようだった。
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