第4話 弥太の世界 

 助けを求めても傍には誰もいない。

 独りは怖い。近くに命を喰らうケガレが居るかも知れない。

 不安が大きくなってゆく。

 弥太は半べそを掻いて、自分でどうしたらいいかすっかり分からなくなってしまい、薄暗い水の中でうずくまる。


 その時何かが優しく、肩のあたりに背中の甲羅に頬にそっと触れた。


(落ち着いて。ほら周りをよく見て。ね)


「え?」


 何か優しい声を聴いた気がして、誰かに優しく後ろから抱きしめられた気がして、不思議な面持ちで周りを見回す。


 あるのは水の流ればかりで他にはなにもない。

 そうだ。水だ。

 周りは水ばかりなのだ。何をそんなに恐れることがあるだろう。ここは弥太のもっとも得意とする世界。水の中だ。


(ほうら、弥太は強い子)


 どこかで聞いた子守歌のような歌を不意に思い出し、


「そぉだよー、弥太はぁ強い子だよーぉ」


 調子外れではあるが、勢いよく唄を歌い 命皿のふちをぴしゃんと叩いて目を閉じる。

 緩やかな水の流れが、冷たくて清らかな癒し浄める水の流れがここにはある。

 水の流れは弥太の脈動。水の躍動は即ち弥太の活力なのだ。

 つい先程まで半べそをかいていた河童だとは思えないほど、その顔が生き生きとしてきた。


(そう、周りをもっとよく御覧なさい)


 何かに背中を押されて、落ち着いた弥太はここがどんな処か探ることにした。

 川に尋ね水に聞く、河童ならではの方法で。

 目を閉じて深く水を吸い込む。

 水が躰にしみこんで自分と重なり合い、心が水に響いて拡がってゆく。

 自分は水の眷族であり、水こそが己の力の源であることを心と躰は分かっていた。一瞬にして不安など消し飛び、たちまちにして水と一体化する。

 川の流れは弥太であり、白くうねり飛ぶ飛沫さえ弥太であった。


 水は冷たくて清らかなまま滔々と流れている。

 切り立った大岩のごつごつした岩肌に囲まれて日の光があまり届かないが、その流れは深くゆったりと優しく、お日様のいい匂いをのせている。

 轟轟とした川音を重厚に伝える深くて大きい水穴から、速い流れが幾つかわかれて、岩の裂け目や穴に支流のように続いている。

 その横穴のように広がる大岩の狭間の一つに流されているようだ。底はかなり深く奥行きも広いようで真っ暗で先はわからない。

 ただ、嫌な匂いのする水は無い。神域から溢れる光でキラキラしている。


「ぶふぅ」


 弥太は安堵の声をもらすと躰を少し揺らして水をまた吸い込んだ。

 意識を集中し水と同化して流れを逆に辿ってみることにした。途中で帰り道を見つけられるだろうし、例え遠くに流されていたとしても意識だけなら、十里くらい軽く瞬きの一つ二つで泳ぎ切れる河童ならではの遠見も出来る。


「あれぇ?」


 いつもと同じようにしている筈なのにどうにもおかしい。

 魂だけというか意識だけというかただそれのみで、流れを遡ろうとしているのに、ここの水の流れは妙に引っかかる。

 特に川の流れを溯ろうとすればする程上手く進めず、途中で躰に戻されてしまうのだ。


「お水は気持ちいいのに、何でだろう?」


 さっきまで泣きべそをかいていた子河童は、そのことをすっかり忘れて、何度も失敗してはまた躰を揺すり、深く水を吸い込んでを繰り返し繰り返し川上を目指した。

 一念を通ずるための何かを心得ているかのように、一心不乱であった。

 周りの水の流れも、弥太の意識を運ぶことを手助けしようと後押しをする。


 何度目かで、ようやく千丈の瀧を見ることができた。

 流れ落ちる大量の水飛沫が白い霧となり雲の如く辺りをどっしりと覆い、陽射しに煌めいて光る雲となって、重く荘厳な陣容を重ね轟音と共に大瀑布の威容を飾る。


 水と化した弥太の意識は瀧の真下まではゆけるが、瀧の上の方は光の雲に覆われていて、覗き込むことさえできない。帰り道を探すためにも瀧の上からの様子は何としても見ておきたい。

 ならばと、意識を集中して瀧を溯ろうとした瞬間、たちまち瀧下へと弾き出される。何度も大瀑布を駆け上がろうと集中してみる。 

 しかし、其の度、水と化している弥太の意識を黄金色した水の飛沫が打ち、流れが叩き弾き飛ばす。瀧水が拒んでいる。


 やっぱりここの水はすごいなぁ。


「どっか、上がれるところ……」


 更に深く意識を集中し、きょろきょろ水となって見渡して、行けそうなところを探すと光の雲に一か所穴が開いているところがある。

 そこの雲の穴から落ちてくる水は黄金色に染まっていない。あそこからなら何とか行けるかもしれない。

 金色をしている水には意識が触れないようにそっと、そおっと流れを溯る。

 ほんの少し上に行けた。

 さあこれからと意識を強く集中し、瀧の上まで上り詰めようとしたまさにその時、躰が何かにつつかれている。

 弥太は意識を躰に戻し目を開いた。眼の前にタナゴの顔があり、鰍やウグイなどが群がってきている。

 弥太の躰のあちこちを魚たちがツンツンつついているのだ。足の裏や水掻きの間や甲羅などをみな夢中になってつつく。


「うひゃぁ。やめてっ」


 弥太の制止も聞かずどんどん群がってくる。弥太は身をよじり回転し、魚たちを振り払いながら逃げた。

 魚が執拗に追いかけてくる。


「怖いよっ。もうっ。ん?」


 完全に岩陰に入ったその時、暗い水中で所々躰が薄っすらと光っているのに気が付いた。中でも特にお尻のあたり、尻尾の上の甲羅あたりがきらきらしている。

 手で探ってみると大きな苔の塊がでてきた。

 磐座の滝上から滑り落ちる時に苔があちこちにくっつき、それがきらきら光を放っているのだ。

 光る苔に誘われて沢山の魚たちが更に差し迫ってくる。


「こいつかぁ」


 弥太は苔の塊を投じた。苔である光の塊が水底へと沈んでゆく。タナゴやウグイや魚の群れがそれに続いて、光の塊と一緒に皆小さくなってゆく。

 それを見て弥太はほっと一息ついて上を見上げた。

 頭上はほんのりと明るい。

 まずはともあれ大好きなお日様の光がさす方へ、水面へ出てみよう。

 帰り道を探すのはそれからだ。弥太は思った。

 瀧はすぐそこで大声を出せば聞こえるかもしれないし、真っ直ぐ上に登れなくても帰り道くらい簡単に見つけられるだろうし、それに遅くなれば誰かきっと迎えに来てくれると。

 だがそれは大きな間違いであることを知る由もない。

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